使命という言葉
その夜、俺は眠れなかった。
寝台の中で、同じことを何度も考えていた。
――俺は、鍵だ。
レイヴはそう言った。
血と、言葉と、時。三つ揃えば、扉が開く。
俺は、血を持っている。言葉も持っている。
時は、二年二月後に来る。
◇
起き上がって、俺は土間に降りた。
水を飲んで、椅子に座った。
卓の上に、狐が置いてある。
布を解いて、灯りを近づけた。
――お前も、鍵か。
そんなことを、狐に訊いてみた。
当然、返事はない。
背中の模様は、暗いままだ。
「ハルト」
背後で、声がした。
マリが、毛布を肩にかけて立っていた。
「――起こしたか」
「おきてた」
彼女は向かいに座った。
「わたしも、ねむれない」
◇
しばらく、二人で狐を見ていた。
「ハルト」
「なんだ」
「かんがえてる、こと、いって」
俺は、少し迷った。
迷ってから、決めた通りに言った。
「――逃げようかと思ってる」
マリの目が、少し動いた。
「にげる」
「二年二月ある」
俺は言った。
「その間に、遠くへ行く。名前を変えて、別の町で測量士をやる」
俺は、椀を見た。
「連中は、俺がいないと開けられない。……なら、いなくなればいい」
「できる?」
「たぶん、できる」
俺は言った。
「俺は測量士だ。どこの町でも仕事がある。……名前を変えるのも、二度目だ」
◇
マリは、しばらく黙っていた。
それから、こう訊いた。
「にげたら、どうなる」
「――何が」
「あの、こわす、ほうの、ひとたち」
俺は、口を閉じた。
「あのひとたち、けずってる」
彼女は言った。
「けずったら、しぬ、って、いってた」
「――言ってたな」
「ハルト、にげても、あのひとたち、けずる」
俺は、答えられなかった。
「ハルト、にげたら」
マリは、静かに続けた。
「まつ、ほうの、ひとたち、こまる。……こわす、ほうだけ、のこる」
俺は、その言葉の意味を、正確に理解した。
――そうだ。
レイヴたちは、俺を待っている。
俺が消えれば、彼らは待つ理由を失う。
待つ理由を失った集団が、次に何をするか。
――壊すほうへ、傾く。
◇
「マリ」
「うん」
「――お前は、俺に逃げてほしくないのか」
「ちがう」
彼女は、はっきり言った。
「にげて、ほしい」
俺は顔を上げた。
「にげて、ほしい」
彼女は繰り返した。
「わたし、ハルト、しんでほしくない」
彼女は、卓の上で手を握った。
「でも」
彼女は、そこで言葉を探した。
長く探した。
「――にげたら、ハルト、ハルトじゃ、なくなる」
◇
俺は、その一言を、しばらく飲み込めなかった。
「どういう意味だ」
「ハルト、いつも」
彼女は言った。
「まもるとき、さがる。あぶないとき、まわりみち。……それ、にげてる、じゃ、ない」
彼女は顔を上げた。
「かんがえてる」
彼女は言った。
「でも、いまのは、かんがえてない」
俺は、黙った。
「いまのは、みない、って、きめてる」
マリは、はっきり言った。
「ちがう」
◇
――違う。
その通りだ。
俺は、遺跡で獣を避ける。天井が落ちそうなら迂回する。
だが、あれは「そこに獣がいる」と書いてから避ける。
書かずに避けたことは、一度もない。
書いて、避ける。
書かずに避けるのは、逃げるという。
「マリ」
「うん」
「――言うのが上手くなったな」
「じょうず?」
「痛いところを突く」
彼女は、少し困った顔をした。
「いたい?」
「痛い」
俺は言った。
「痛いが、正しい」
◇
その夜、俺は決めた。
決めたことは、三つある。
一つ。逃げない。
二つ。ただし、連中の言う通りにもしない。
三つ。二年二月の間に、扉の向こうに何があるかを、自分で先に測る。
――俺の仕事だ。
誰かに開けろと言われて開けるのは、鍵の仕事だ。
俺は鍵ではない。
中に何があるかを、先に測る。
測ってから、開けるかどうかを決める。
それが、測量士の仕事だ。
◇
朝になって、俺はマリにそれを話した。
彼女は、最後まで聞いて、それから頷いた。
「それ、いい」
「いいか」
「いい」
彼女は、少し笑った。
「ハルトの、しごと」
「――そうだな」
「わたしの、しごと、なに」
俺は、少し考えた。
考えて、正直に言った。
「――今のところ、お前のほうが多い」
「え」
「計算はお前がやった。星表もお前が速い。……句を両方覚えてるのもお前だ」
俺は言った。
「俺は、測るしかできん」
マリは、しばらく黙っていた。
それから、真面目な顔で言った。
「それ、いちばん、たいへん」
「――なぜ」
「わたし、かぞえるの、できる」
彼女は言った。
「でも、はかるの、できない」
彼女は自分の手を見た。
「はかるの、からだ、いる。あるく。もぐる。あぶない、ところ、いく」
彼女は顔を上げた。
「それ、いちばん、たいへん」
◇
俺は、その言葉に、少し救われた。
救われたことを、口には出さなかった。
代わりに、こう言った。
「そろそろだな」
「なにが」
「サルカドだ」
俺は野帳を取った。
「未踏区画の三つ目の部屋。……埃の中を、全部さらう」
マリの目が、少し光った。
「きつねの、ぶひん」
「それもある」
俺は言った。
「だが、それだけじゃない」
俺は野帳を開いた。
「あの部屋は、俺が二日で測って、それきりだ」
俺は言った。
「二日だ。……足りん」
俺は立ち上がった。
「今度は、十日かける」
◇
その日から、俺は準備の計画を立てた。
十日潜るというのは、簡単な話ではない。
二日と十日では、要るものが四倍になるわけではない。
――五倍だ。
水が重い。十日ぶんの水は、二人で運べない。
だから、途中に置く。
三日ぶんずつ、三か所に分けて置いておく。使いながら降りて、帰りに残りを拾う。
これは、鉱山の連中のやり方だ。俺はそれを、坑長から教わっていた。
「マリ」
「うん」
「置き場所を三つ決める。図面に印を入れろ」
「うん」
「置いたら、必ず野帳に書く。書かないと、忘れる」
「わすれる?」
「忘れる」
俺は言った。
「暗いところに十日いると、頭が鈍る。……自分が信じられなくなる」
彼女は、少し驚いた顔をした。
「ハルトも?」
「俺もだ」
俺は言った。
「四日で、もう鈍った。九話の時だ」
――思い出す。
空気が薄くなった時、俺は正しく考えているつもりでいた。
つもりだった。
扉が開いて、外の空気を吸った瞬間に、それが分かった。
「だから書く」
俺は言った。
「頭が鈍っても、紙は鈍らん」
◇
マリは、その言葉を帳面に書いた。
――かみは、にぶらない。
書いてから、彼女は顔を上げた。
「ハルト」
「なんだ」
「わたし、ひとつ、きめた」
「なんだ」
「わたし、あぶない、とき、いう」
彼女は言った。
「まえは、いわなかった。ハルト、しんどそう、だから」
「――ああ」
「これから、いう」
彼女は、まっすぐ言った。
「『いま、あぶない』って、いう」
俺は頷いた。
「頼む」
「ハルト、きく?」
「聞く」
「ほんとに?」
彼女は、疑わしそうな顔をした。
俺は、少し笑った。
「――聞く」
俺は言った。
「聞かなかったら、殴っていい」
「なぐる」
彼女は、その言葉を帳面に書いた。
真面目な顔で。




