枝分かれ
俺は、すぐには答えなかった。
――言えば、渡すことになる。
この男が言っていることが本当なら、俺の家の句は「正しい形」を保っている。
連中の句は、三百年ぶんの飾りがついて崩れている。
なら、俺の句は、連中にとって欲しくてたまらないものだ。
「レイヴ」
「はい」
「先に、お前のを聞かせろ」
彼は、少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「――なるほど」
「駄目か」
「いいえ」
彼は首を振った。
「ただ、先に申し上げておきます。……長いです」
◇
彼は、石段の一段目に足をかけた。
そして、唱えた。
節がついていた。
最初の音が伸びて、下がって、また上がる。
途中で区切りがあり、そこで一度息を継ぐ。
同じ節が二度繰り返される。
最後は、長く伸ばして終わった。
――祈りだ。
俺の頭に、最初に浮かんだのはそれだった。
寺で聞くやつに似ている。
意味を持たない音を、決まった節で唱える。
俺の家のものとは、まるで違った。
◇
「……長いな」
「長いです」
レイヴは苦笑した。
「これで、およそ三十を数えるほどかかります」
「うちのは、四つだ」
彼の顔が、変わった。
「――四つ」
「四つの区切りで終わる」
俺は言った。
言ってから、しまったと思った。
だが、レイヴの反応は、俺の予想と違った。
彼は、青くなっていた。
「四つ……」
彼は口の中で繰り返した。
「四つですか。……四つ」
彼は、額に手を当てた。
「そうか。それなら――」
◇
「レイヴ」
「失礼」
彼は手を下ろした。
「今、思い当たったことがあります」
「なんだ」
「我々の句の、始まりの部分です」
彼は言った。
「節を全部落として、飾りを取ると――四つの区切りが残ります」
俺は、動きを止めた。
「今、やってみます」
彼は目を閉じた。
しばらく、口の中で何かを繰り返した。
やがて、目を開けて、短く唱えた。
節のない声で。
――シャラ・カディ・オマ・ネイヤ。
◇
俺の背中に、冷たいものが走った。
――近い。
同じではない。
最初の音が違う。三つ目の母音が違う。最後の伸ばし方が違う。
だが、骨は同じだ。
四つの区切り。同じ順番。同じ長さ。
「――もう一度」
俺は言った。
レイヴは、繰り返した。
――シャラ・カディ・オマ・ネイヤ。
俺は、自分の句を頭の中で並べた。
――シャルカディ・オム・ネイア。
似ている。
似ているが、俺のほうが短い。
俺のは三つに聞こえる。だが、区切りは四つある。
シャル・カディ・オム・ネイア。
――同じだ。
◇
俺は、口を開いた。
開いて、閉じた。
――言うか。
言えば、この男は自分の句を直す。
直せば、扉が開くかもしれない。
開いた先に何があるのか、俺は知らない。
この男が何をする気なのかも、まだ本当には知らない。
俺は、しばらく黙っていた。
レイヴは、待っていた。
急かさなかった。
「――言わん」
俺は言った。
彼は、頷いた。
「そうでしょうね」
「悪いな」
「いいえ」
彼は、あっさり言った。
「今日は、収穫がありました」
「収穫」
「四つ、と伺いました」
彼は言った。
「三百年、我々は自分の句が長すぎることに気づかなかった。……今日、気づきました」
俺は、そこで舌打ちしたくなった。
――喋りすぎた。
「レイヴ」
「はい」
「一つ、訊く」
「どうぞ」
「――お前らは、それで何をする気だ」
◇
彼は、しばらく黙っていた。
黙って、空を見た。
昼の空だ。星は見えない。
それでも、彼は見上げていた。
「ハルトさん」
「なんだ」
「あなたは、寝る前に空を見ますか」
俺は、答えられなかった。
「私も見ます」
レイヴは言った。
「毎晩、必ず一度。曇りでも」
彼は俺を見た。
「教わりましたか。理由を」
「――教わってない」
「私もです」
彼は言った。
「三百年、誰も理由を知らずに、毎晩空を見ています」
彼は、そこで少し笑った。
「同じ癖です。……我々は、間違いなく同じ家の者です」
◇
その言葉が、一番こたえた。
――同じだ。
俺が二十年やってきたことを、この男もやっている。
俺の家が百年サルカドを測ってきたように、この男の一族は三百年待っている。
どちらも、意味を知らない。
知らないまま、続けている。
「レイヴ」
「はい」
「――お前は、開いた後のことを考えたことがあるか」
彼は、そこで初めて、言葉に詰まった。
「……正直に申し上げます」
「言え」
「考えたことは、あります」
彼は言った。
「ですが、答えが出ません」
「なぜ」
「先代も、その前も、答えを持っていなかったからです」
レイヴは言った。
「我々に伝わっているのは、『開けろ』だけです」
彼は、自嘲するように言った。
「開けて、どうしろ、は伝わっていない」
◇
俺は、その言葉を聞いて、背筋が寒くなった。
――三百年、目的を知らずに待っている集団。
それは、忠実だ。
忠実だが――止め方がない。
「レイヴ」
「はい」
「それは、危ないぞ」
「存じています」
彼は言った。
「ですから、私は待つほうを選びました」
彼は立ち上がって、外套の埃を払った。
「壊す連中は、答えを持たないまま壊します」
彼は言った。
「我々は、答えを持たないまま待ちます」
彼は俺を見た。
「――どちらも、褒められたものではありません」
彼は頭を下げた。
「ですが、待つほうが、まだ間に合う」
◇
レイヴが去った後、マリが岩から降りてきた。
「ハルト」
「――ああ」
「きこえた」
「全部か」
「はんぶん」
彼女は言った。
「でも、あのひとの、まじない、きこえた」
彼女は、口の中で繰り返した。
――シャラ・カディ・オマ・ネイヤ。
正確だった。
この娘は、一度聞いた音を落とさない。
「マリ」
「うん」
「――お前、うちのも言えるな」
「いえる」
彼女はあっさり言った。
「じゃあ、両方言える人間が、この世に一人いるわけだ」
彼女は、少し考えて、それから顔を上げた。
「ふたり」
「――ん?」
「ハルトも、いえる」
俺は、首を振った。
「俺は、向こうのを覚えてない」
言ってから、自分でおかしくなった。
――そうか。
この世で、二つの句を両方正確に持っているのは、この娘だけだ。
字も読めなかった娘が。
◇
帰り道、俺は考えていた。
――なぜ、うちの句だけが短いままだった。
レイヴのほうは、三百年で節がつき、飾りが増えた。
うちは、四つのまま。
――使い道がなかったからだ。
答えは、たぶんそれだ。
連中は、句を使おうとしてきた。開けるために、儀式にして、繰り返して、荘厳にした。
うちは、使おうとしなかった。
親父も、その親父も、意味を知らないまま、入る前に唱えるだけだった。
道具の手入れと同じ扱いで。
――大事にしなかったから、変わらなかった。
妙な話だ。
大事にすると、変わる。
どうでもいいと思っていると、そのまま残る。
「マリ」
「うん」
「――お前の祖母さんの、村の石だ」
「うん」
「あれは、なんだった」
「しらない」
彼女は言った。
「じっちゃんが、はたけから、ほった」
「捨てなかったんだな」
「すてなかった」
「なぜだ」
「……すてるの、わるい、から」
彼女は言った。
「なにか、わからない。でも、すてるの、わるい」
俺は、足を止めた。
――同じだ。
意味は分からない。捨てるのも気が引ける。だから置いておく。
そうやって残ったものが、千年後に意味を持つ。
大事にされたものではなく、捨てられなかったものが。
「マリ」
「うん」
「――お前の国と、この国は、似てるかもしれん」
彼女は、少し目を丸くした。
それから、笑った。
「にてる、とこ、ある」
彼女は言った。
「たべものは、ぜんぜん、ちがう」
「そうか」
「ぜんぜん」
彼女は真顔で言った。
「こめが、ない」
「こめ」
「しろい、つぶ。……たいて、たべる」
彼女は、少し遠い目をした。
「あれが、ないの、いちばん、つらい」




