二年二月
ドルスは、王都へ戻ることになった。
学士院の調査という名目には、期限がある。
出立の前の晩、俺たちは三人で卓を囲んだ。
「二年二月ですか」
彼は、俺の計算を見ながら言った。
「――計算はマリがやりました」
「ほう」
ドルスは眉を上げて、それから紙を裏返した。
彼女の書いた式を見る。
しばらく見て、彼は顔を上げた。
「お嬢さん」
「はい」
「これは、学士院でも上の者しか使わない書き方です」
マリは、困った顔をした。
「がっこうで、やりました」
「――学校で」
「はい」
ドルスは、俺を見た。
俺は首を振った。
この話には、まだ触れないでくれ、という意味で。
彼は、それを正確に読み取った。
「素晴らしい学校ですね」
彼はそう言って、それ以上訊かなかった。
◇
「二年二月の間に、何をなさいますか」
ドルスが訊いた。
俺は、答えを用意していなかった。
「――分かりません」
「正直ですね」
「分からんものは、分からんと言います」
俺は言った。
「ただ、やるべきことは三つあると思っています」
俺は指を折った。
「一つ。三つの星が重なる日に、何が起きるのかを知る」
「はい」
「二つ。俺の家が何を守ってきたのかを知る」
「――ええ」
「三つ」
俺は、そこで少し間を置いた。
「連中が何をする気なのかを知る」
ドルスは頷いた。
「三つとも、答えは同じ場所にありそうですね」
「同じ場所?」
「サルカドです」
◇
俺は、その言葉を否定できなかった。
――サルカドだ。
俺の家が百年測ってきた場所。
俺の言葉で開く壁がある場所。
あの日、俺が引き返した場所。
「ドルスさん」
「はい」
「一つ、話していないことがあります」
俺は言った。
マリが、こちらを見た。
止めなかった。
「サルカドの深部に、壁があります」
俺は言った。
「一年半前、俺はそれを報告書に書きませんでした」
ドルスの表情が、動かなかった。
「開いたんです」
俺は続けた。
「俺が、家に伝わる言葉を唱えたら」
◇
長い沈黙があった。
ドルスは、椀を両手で包んだまま、動かなかった。
やがて、彼は言った。
「――報告書に、書けませんね」
「書けません」
「書けば、学士院が来る。役所が来る。……あなたが実験台になる」
彼は静かに言った。
「賢明な判断でした」
俺は、少し驚いた。
「怒らないんですか」
「怒る?」
「学者としては、隠されたわけです」
ドルスは、初めて苦笑した。
「ハルトさん。私は学者ですが、その前に人です」
彼は椀を置いた。
「人を実験台にして得た知識を、私は使いたくない」
彼は俺を見た。
「――ただ、一つだけお願いがあります」
「なんです」
「そこへ行く時は、私を呼んでください」
俺は口を開いた。
「危ないですよ」
「知っています」
ドルスは笑った。
「一年半前、私は中層で帰りました。正しい判断でした。……今も、あれが正しかったと思っています」
彼は、そこで少し声を落とした。
「ですが、あれから毎晩、あの通路のことを考えています」
◇
翌朝、ドルスは馬車に乗った。
荷は、来た時より重くなっていた。
俺の図面の写しと、二人で作った紙の束が入っている。
「王都で、残りの星表を確かめます」
彼は言った。
「四百年ぶんです。三十年で二回なら、四百年で三十六回ある。……周期が本物かどうか、それではっきりします」
「頼みます」
「それと、もう一つ」
彼は荷を叩いた。
「あの模様を、学士院の記録から探します」
「見つかりますか」
「分かりません」
ドルスは言った。
「ですが、私は三年で百二十の遺構の記録を集めた男です。……探し方だけは知っています」
彼は馬車に乗り込んだ。
乗ってから、窓から顔を出した。
「ハルトさん」
「はい」
「二年二月です」
彼は言った。
「私は四十四です。二年なら、まだ動けます」
馬車が動き出した。
◇
その後の三月は、静かだった。
外套の連中は、動かない。
俺たちも、大きくは動かなかった。
仕事をした。旧市街の家を測り、時々遠出をし、日当をもらった。
マリは字を増やした。四百を超えたあたりで、彼女はギルドの書庫に出入りするようになった。
ダウムが許可を出した。
「あの娘は、字を写すのが速い」
彼はそう言った。
「わしの古い綴りを、清書させとる。……見習いより上手い」
その口実で、彼女は例の百二十年前の綴りに触れられるようになった。
誰にも怪しまれずに。
――ダウムは、たぶん全部承知の上だ。
◇
俺は俺で、別のことをしていた。
狐を、直そうとしていた。
毎晩、腹の板を開けて、中を見る。
見て、何も分からずに閉じる。
それを、三月続けた。
ある夜、マリが横から覗いた。
「まだ、なおらない」
「直らん」
「どこが、こわれてる」
「分からん」
俺は錐を置いた。
「――足りないんだと思う」
「たりない」
「部品が一つ、ない」
俺は言った。
「折れてもいない、外れてもいない、詰まってもいない。……なら、最初から無いんだ」
マリは、しばらく狐を見ていた。
「ハルト」
「なんだ」
「これ、どこで、ひろった」
「サルカドだ。未踏区画の、三つ目の部屋」
「そこに、おちてない?」
俺は、動きを止めた。
――落ちている、かもしれない。
壊れた道具が転がっていたなら、外れた部品も、その辺にあったかもしれない。
俺は、あの日のことを思い出した。
埃が厚く積もっていた。
俺は、狐だけを拾った。
周りを、探さなかった。
「――マリ」
「うん」
「戻る理由が、一つできた」
◇
その夜、俺は寝る前に、部屋を見回した。
棚に、直した測量具が並んでいる。
使っていない。使う予定もない。
その隣に、蜜の壺。
その隣に、包んだ狐。
――途中で終わったものばかりだ。
俺は、灯りを消す前に、壺の蓋を開けてみた。
まだ、甘い匂いがした。
半年経っても、腐らない。
マリが「くさらない」と言った通りだ。
――この娘の言うことは、だいたい当たる。
狐は「地球にいる狐そのもの」だと言った。
土偶に似た人型は「見たことがある」と言った。
蜜は「腐らない」と言った。
三つとも、俺は本気にしなかった。
三つ目だけが、証明された。
――残り二つは、どうなる。
俺は蓋を戻した。
戻して、灯りを消した。
◇
翌朝、マリが野帳を持ってきた。
「ハルト」
「なんだ」
「これ、かいた」
開いた頁に、表があった。
左の列に、彼女が「見たことがある」と言ったもの。
右の列に、俺の反応。
――狐。/取り合わなかった。
――人型。/分からないと言った。
――蜜。/舐めた。当たった。
俺は、その表を見た。
見て、少し気まずくなった。
「……これは、嫌味か」
「ちがう」
彼女は真顔で言った。
「かぞえてる」
「――数えてる」
「うん」
彼女は言った。
「ハルト、いつも、かぞえる。わたしも、かぞえる」
彼女は、頁をめくった。
「あってる、あってない、かぞえる」
俺は、その頁を見た。
まだ、三行しかない。
三行しかないが、二行が「未確認」で、一行が「当たり」だ。
――外れが、まだ一つもない。
「マリ」
「うん」
「――残りの二つ、いつか確かめる」
「うん」
「その時、外れてたら、笑ってやる」
彼女は、少し笑った。
「あたってたら?」
「――謝る」
「じゃあ、たのしみ」
彼女は帳面を閉じた。




