重なる夜
メルシアへ戻って、俺たちは星表に取りかかった。
ドルスが持ってきた写しは、三十年ぶんだ。
紙が四十枚。一枚に、およそ九月ぶんが詰まっている。
書いてあるのは、日付と、星の位置だけだ。
――ひどく退屈な紙束だった。
◇
「これ、どう、よむ」
マリが訊いた。
「日付と、角度だ」
俺は指した。
「この列が、〈環〉の位置。地平から何度上にあるか」
「かくど」
「角度が分からんか」
「わからない」
俺は紙に円を描いた。
円の四分の一を切り取って、そこに線を引く。
「地平が零。真上が九十」
「くじゅう」
「その間を、九十に割る」
マリは、しばらくその絵を見ていた。
それから、頷いた。
「わかった」
「早いな」
「がっこうで、やった」
彼女はあっさり言った。
俺は筆を止めた。
――やった、か。
この娘の国では、子どもがこれを習う。
三十年ぶんの星表を読むための知識を、子どもが学校で習う。
俺は、そのことを飲み込むのに、少し時間がかかった。
◇
三日かけて、俺たちは読み方を揃えた。
俺が読み、マリが書く。
彼女の字は、もう十分に速い。
四日目から、探し始めた。
――重なる夜。
二つ以上の星が、同じ場所に見える日。
俺は、まず〈環〉と〈天秤〉を追った。
この二つが重なる日は、二年に一度ほどある。珍しくない。
珍しくないから、これではない。
次に、三つ。
〈環〉、〈天秤〉、〈杯〉。
三つが同時に近づく日を探した。
三十年で、二回あった。
◇
二回。
俺は、その日付を書き出した。
一つ目。二十二年前。
二つ目。十一年前。
「――十一年だ」
俺は言った。
「じゅういちねん」
マリが顔を上げた。
「間隔が、十一年ある」
俺は、五十六件の年表を引き寄せた。
人が消えた年。跳ねている年。
二十二年前。
――跳ねている。
十一年前。
――跳ねている。
俺は、しばらく紙を見ていた。
見ていて、指が震えた。
「マリ」
「うん」
「三つ目の点が、揃った」
◇
一。人が消える。十一年ごと。
二。王国が滅んだ年も、その年だった。
三。空で、三つの星が重なる年も、その年だ。
三点。
三点あれば、線が引ける。
俺は、二十年それをやってきた。
「ハルト」
マリの声が、少し掠れていた。
「ことし」
「――ああ」
「ことしは」
俺は、星表をめくった。
三十年ぶんの写しは、去年で終わっている。
今年の頁は、ない。
「――ない」
「ない」
「写しが去年までだ。今年のは、王都にある」
俺は紙を置いた。
「だが、計算はできる」
俺は筆を取った。
「星の動く速さは、表にある。去年の位置から、一年ぶん進めればいい」
◇
計算に、二日かかった。
俺は星読みの技を家で習っている。だが、それは方位と季節を出すためのものだ。
将来の位置を予測する計算は、やったことがなかった。
途中で二度、間違えた。
二度目は、マリが見つけた。
「ハルト。ここ」
「――どこだ」
「かけざん、ちがう」
彼女は指した。
「ここ、たす、じゃない。かける」
俺は、その行を見た。
――間違っている。
「……お前、計算ができるのか」
「できる」
彼女は言った。
「がっこうで、やった」
また、それだ。
俺は筆を渡した。
「やってくれ」
「わたしが?」
「そのほうが速い」
マリは、少し驚いた顔をして、それから筆を取った。
◇
彼女は、半日で終わらせた。
俺が二日かけて途中までしか進まなかったものを。
やり方が違っていた。
俺は一つずつ足していく。彼女は、まとめて掛ける。
途中の紙が、俺の三分の一しかなかった。
「――どこで習った」
「がっこう」
「何歳の時だ」
「じゅうご、くらい」
俺は、しばらく黙っていた。
黙って、彼女の紙を見ていた。
――十五で、これをやる国か。
俺は、その国のことを、まだ何も知らない。
◇
答えが出た。
マリが、紙を俺のほうへ回した。
「これ」
俺は数字を見た。
〈環〉、〈天秤〉、〈杯〉。
三つが最も近づく日。
――ある。
今年ではない。
来年でもない。
俺は、日付を読んだ。
「……二年後の、夏だ」
「にねんご」
「二年と、二月ほど先だ」
俺は顔を上げた。
マリは、その数字を見ていた。
見て、それから、こう言った。
「じゃあ、ことし、ちがう」
「――違うな」
「わたし、ことし、きた」
「来たな」
彼女は、少し眉を寄せた。
「ほし、かさなってない、のに」
俺は、そこで止まった。
――そうだ。
この娘は、今年来た。
今年、三つの星は重なっていない。
なら、周期は関係ないのか。
「マリ」
「うん」
「お前の写真だ」
彼女が顔を上げた。
「向こうの空で、三つ重なってたんだろう」
「うん」
俺は、椅子から立ち上がった。
「――両方が同時に重なる必要は、ないのかもしれん」
◇
俺は、部屋の中を歩いた。
歩きながら、考えを言葉にした。
「こちらの空で三つ重なる年に、人が消える。……こっちから、向こうへ行く」
「うん」
「向こうの空で三つ重なった夜に、お前が来た。……向こうから、こっちへ来る」
俺は足を止めた。
「別々の話なんだ」
マリの目が、大きくなった。
「――こっちの空が重なると、こっちから引かれる」
「あっちの、そらが、かさなると」
「あっちから引かれる」
俺は言った。
「同じ仕掛けの、逆向きだ」
部屋が、静かになった。
俺は、自分の言ったことを、頭の中で確かめた。
――五十六人は、消えた。
消えて、どこへ行った。
その先を、俺はまだ考えていなかった。
考えてこなかった。
「ハルト」
「なんだ」
マリの声が、少し震えていた。
「ごじゅうろくにん」
「――ああ」
「いなくなった、じゃ、なくて」
彼女は、言葉を選んだ。
「――むこうに、いった?」
俺は、答えられなかった。
答えられなかったが、その答えが正しいような気がした。
◇
その夜、俺は野帳に書いた。
〈二年後ノ夏。〈環〉〈天秤〉〈杯〉、最モ近ヅク〉
書いて、その下に一行足した。
〈二年二月〉
二年二月。
長いようで、短い。
二年あれば、たいていのことができる。
二年しかなければ、たいていのことは間に合わない。
俺は野帳を閉じた。
閉じてから、初めて、はっきりそう思った。
――期限がある。
◇
書いた後、俺はしばらく野帳を開いたままにしていた。
――二年二月。
その日に、何が起きる。
人が消える。
五十六件の記録が、そう言っている。
消えるのは、たいてい一人か二人だ。四人消えた年もあるが、それが最多だった。
――なぜ、その人たちだったのか。
俺は、五十六件の紙を引き寄せた。
名前と、場所と、日付。
共通点を探した。
年齢。ばらばらだ。八つの子から、六十の老人まで。
性別。ばらばら。
職業。書いていない。
――場所だけが、寄っている。
旧市街の周り。
「マリ」
「うん」
「消えた人間に、共通点はあるか」
「ばしょ」
「場所以外だ」
彼女は、しばらく紙を見ていた。
見て、それから、こう言った。
「よる」
「――夜か」
「うん」
彼女は指した。
「かいてある。……『よ』の、じ」
俺は、その字を確かめた。
――夜。
五十六件のうち、書いてあるものは全部、夜だった。
「昼に消えた者は、いないのか」
「いない」
彼女は言った。
「ぜんぶ、よる」
俺は、その事実を野帳に書いた。
当たり前かもしれない。
夜のほうが、人が消えても気づかれにくい。
――だが。
星が重なるのは、夜だ。
昼は見えない。
見えないだけで、重なってはいる。
だが、消えるのは夜だけだ。
「――空が、見えてる時だけか」
俺は、口に出した。
マリが、顔を上げた。
「そら、みえてる」
「そうだ」
俺は言った。
「屋根の下にいる人間は、消えてないのかもしれん」




