未来の話
ドルスは、痩せていた。
一年半前より、はっきり細くなっている。
袖口の擦り切れだけは、変わっていなかった。
「お久しぶりです」
彼は俺の手を握って、それからマリを見た。
「――おや」
彼は目を丸くした。
「お嬢さん、言葉が」
「はなせます」
マリが答えた。
「まだ、へた、です」
「いや、驚きました」
ドルスは、心底嬉しそうな顔をした。
「一年半ですか。……大したものです」
◇
その夜、三人で卓を囲んだ。
俺は図面を全部出した。サルカドも、カラン東も、旧市街の細かいやつも。
ドルスは、それを一枚ずつ見た。
見ながら、時々「ああ」と声を出した。
半刻ほどして、彼は顔を上げた。
「――確認させてください」
「どうぞ」
「通路幅、四尺五寸」
「はい」
「天井高、八尺二寸」
「はい」
「段の蹴上げ、六寸」
「はい」
ドルスは、指を三本立てたまま止まった。
「この三つが、あなたが測った全部の遺構で同じですか」
「同じです」
「――何件」
「三百二十七件」
ドルスの手が、震えた。
「……二十年ぶんですか」
「二十年ぶんです」
彼は、しばらく黙っていた。
やがて、両手で顔を覆った。
「……素晴らしい」
声が、少し掠れていた。
「私は、十四件で息を切らしていました」
◇
落ち着いてから、ドルスは自分の荷を開けた。
紙束を出す。
彼が三年かけて集めたものだ。
「では、私の説を申し上げます」
彼は言った。
言ってから、少し笑った。
「これを話すのは、初めてです。……緊張しますね」
俺は頷いた。
マリが、身を乗り出した。
◇
「三百二十七件の遺構が、同じ寸法で建っている」
ドルスは、そこから始めた。
「これは、人が建てたのなら、あり得ません」
「私もそう思います」
「では、どうすればあり得るか」
彼は指を立てた。
「一つ。全部を、一つの型で作った」
「型」
「はい。鋳型のようなものです。……しかし、家一軒を型で抜くことはできません。少なくとも、私たちの技術では」
「二つ目は」
「二つ目」
ドルスは、そこで少し間を置いた。
「――全部を、一つの決まりに従って作った」
俺は、顔を上げた。
「決まり、というのは」
「基準です」
彼は言った。
「通路は四尺五寸と決める。天井は八尺二寸と決める。それを、国中の職人が守る」
「守れますか」
「守れません」
ドルスはあっさり言った。
「今の私たちには、守れない。基準を配る方法がないからです」
彼は紙に線を引いた。
「基準を全国で揃えるには、まず基準の器を作って、それを写して、各地に配って、狂ってないか定期的に確かめて回らなければならない」
俺は、その言葉に引っかかった。
――確かめて回る。
「……巡回ですか」
「そうです」
ドルスは頷いた。
「誰かが、定期的に、全部の遺構を回って、寸法が狂っていないかを確かめる。それができれば、揃います」
部屋が、静かになった。
俺は、自分の野帳を見た。
二十年ぶんの、〈相違無シ〉。
毎年、同じ場所を測って、狂っていないことを確かめて、書いてきた。
「――俺がやってることだ」
「そうです」
ドルスは、静かに言った。
「あなたの家がやってきたことは、遺跡の測量ではない。……維持です」
◇
俺は、しばらく声が出なかった。
――維持。
言われてみれば、そうだ。
俺は毎年、同じ場所を測る。狂っていないことを確かめる。
狂っていたら、書く。
書いて、どうする。
――今まで、どうもしなかった。
書いて、書庫に綴じるだけだった。
「ドルスさん」
「はい」
「維持だとしたら、誰のためです」
「そこです」
彼は、そこで初めて声を落とした。
「そこから先が、私の説です」
◇
「一つ、お尋ねします」
ドルスは言った。
「あなたは、遺構の深いところで、何を見ましたか」
俺は答えなかった。
「答えたくなければ、結構です」
彼は続けた。
「では、私が見たものを申し上げます」
彼は紙をめくった。
「継ぎ目のない壁。等間隔の枠。天井に走る細い管」
俺は、動きを止めた。
「……どこで」
「西の坑です。三年前」
ドルスは言った。
「鉱夫が掘り当てました。私は記録を取りに行きました」
彼は紙を指した。
「あの通路を見た時、私は一つのことを考えました」
彼は顔を上げた。
「――これは、古いものではない」
俺は、椅子から少し身を起こした。
「古くないんです」
ドルスは言った。
「古い技術というのは、素朴なものです。石を積む。木を組む。それが古い技術です」
彼は指を組んだ。
「継ぎ目のない壁は、素朴ではない。あれは、私たちより先を行っている」
◇
「先を行っているものが、地面の下から出てくる」
ドルスは言った。
「これを説明する方法は、二つしかありません」
彼は指を二本立てた。
「一つ。かつて、私たちより進んだ文明があって、滅びた」
「学士院の説ですね」
「そうです。ですが、それには穴がある」
彼は首を振った。
「滅びるなら、途中があるはずです。技術は一晩で消えない。少しずつ落ちていく」
ドルスは紙を叩いた。
「途中がないんですよ。継ぎ目のない壁の次が、いきなり石積みです。間がない」
俺は、その言葉を飲み込んだ。
「では、二つ目は」
「二つ目」
ドルスは、そこで大きく息を吸った。
吸って、吐いて、それから言った。
「――あれは、未来のものです」
◇
部屋が、しんとした。
「未来」
俺は繰り返した。
「はい」
「――どういう意味です」
「言葉の通りです」
ドルスは言った。
「私たちは今、過去の遺跡を掘っていると思っている。しかし逆かもしれない」
彼は、卓の上に手を置いた。
「私たちのほうが、過去なのではないか」
俺は、その言い方を、頭の中で組み直した。
「――我々が住んでいるこの土地は」
ドルスは続けた。
「いつか、私たちよりずっと進んだ人々が住む土地になる。あるいは、既にそうだった土地の、後の姿かもしれない」
「時が、前後してると」
「そうです」
彼は頷いた。
「馬鹿げていますか」
「――馬鹿げてます」
俺は正直に言った。
「ですよね」
ドルスは笑った。
「だから、誰にも言っていません」
◇
(――待って)
私は、二人の話を必死に追っていた。
半分くらいしか分からない。難しい言葉が多い。
でも、最後のところは、はっきり分かった。
ドルスさんは、こう言った。
――ここは、未来かもしれない。
私は、両手を握っていた。
握った手が、汗ばんでいた。
(それって)
もし、ここが未来の地球なら。
もし、この土地が、いつかの日本のどこかなら。
私が消えたんじゃなくて、私が「進んだ」んだとしたら。
――帰れる。
その言葉が、頭の中で光った。
時間なら、帰れるかもしれない。
場所じゃないなら。海の向こうでも、星の向こうでもないなら。
同じ土地の、別の時なら。
私は、口を開いた。
開いて、何も言えなかった。
言葉が、追いつかなかった。
でも、涙だけが先に出た。
「――マリ?」
ハルトさんの声がした。
私は首を振った。
首を振って、袖で顔を拭いた。
拭いても、止まらなかった。
だって。
三月と少し、私は一度もそれを考えられなかった。
帰る方法があるかもしれない、なんて。
一度も。
◇
俺は、その泣き方を、初めて見た。
地の底で四日過ごしても、この娘は泣かなかった。
板が光った日は、泣いた。だが、あれは背中を向けていた。
今は、こちらを向いたまま泣いている。
拭いても止まらないので、拭くのをやめて、そのまま座っている。
ドルスが、慌てて手拭いを出した。
「――申し訳ない。何か失礼を」
「いや」
俺は言った。
「あんたのせいじゃない」
俺は、しばらく考えた。
考えて、ドルスに言った。
「ドルスさん」
「はい」
「この娘は、遠い国から来た」
「――伺っています。北の出だと」
「違う」
俺は言った。
言ってから、自分でも驚いた。
言うつもりはなかった。
「歩いて行けない場所だ」
ドルスの手が、止まった。
「馬でも、船でも行けない。本人がそう言ってる」
俺は、マリを見た。
彼女は、顔を上げなかった。
止めもしなかった。
「――だから、あんたの説に、この娘は泣いた」
俺は言った。
「時なら、帰れるかもしれない。場所じゃないなら」
部屋が、長く静かだった。
ドルスは、手拭いを卓に置いたまま、動かなかった。
やがて、彼は言った。
「……ハルトさん」
「なんです」
「私は今、学者として、最悪のことを考えました」
彼は、正直に言った。
「この娘さんは、私の説の、生きた証拠になり得る」
俺は、その言葉を聞いた。
「そう考えた自分に、腹が立っています」
ドルスは、深く息を吐いた。
「――失礼しました」
彼は頭を下げた。
マリに向かって。
「お嬢さん。私の話は、まだ何一つ確かめられていません」
彼は言った。
「期待させて、外すかもしれない。……それは、とても残酷なことです」
マリは、顔を上げた。
目が赤かった。
それでも、彼女ははっきり言った。
「いいです」
「――しかし」
「ゼロより、いい」
彼女は言った。
「ゼロは、なにも、できない」




