十一年で回るもの
翌朝、俺はギルドの二階でトバスを捕まえた。
老人は、いつもの席で茶を飲んでいた。
「珍しいな」
彼は言った。
「お前から来るとは」
「訊きたいことがあります」
「金は取らんよ」
俺は向かいに座った。
「――星のことです」
トバスの手が、止まった。
◇
「十一年で回るものを、知りませんか」
老人は、しばらく俺を見ていた。
「十一年」
「はい」
「空の話か」
「空の話です」
トバスは茶を置いた。
「ないな」
「ない」
「わしが知っとる範囲ではな」
彼は指を折った。
「〈環〉が三年。〈天秤〉が一年半。〈杯〉が七年と少し。〈猟犬〉は動かん」
「他は」
「他は、測量に要らん」
トバスはあっさり言った。
「わしらが覚えるのは、それだけだ。方位が出て、季節が出て、緯度が出りゃ足りる」
「では、要らないものは」
「学士院の仕事だ」
彼は肩をすくめた。
「あそこには、二百年ぶんの星表がある。毎晩、誰かが空を書いとる。……何のためかは知らん」
俺は野帳を開いた。
「二百年」
「そのくらいだと聞いとる」
トバスは茶を飲み干した。
「行くのか」
「――行くかもしれません」
「やめとけ、とは言わん」
老人は言った。
「だが、一つ覚えとけ」
「なんです」
「学士院に行くってことは、名前を書くってことだ」
彼は指で卓を叩いた。
「閲覧簿にな。誰が、いつ、何を見たか。全部残る」
◇
家に戻って、俺はそれをマリに話した。
彼女は、しばらく考えてから言った。
「なまえ、かく」
「書く」
「じゃあ、あのひとたち、しる」
「知る」
俺は野帳を閉じた。
「俺が星表を調べたと分かれば、向こうは俺が何に気づいたかを知る」
「まずい」
「まずい」
マリは、卓に肘をついた。
「でも、しらべないと、わからない」
「そうだ」
俺たちは、しばらく黙った。
――堂々巡りだ。
調べれば知られる。知られたくないなら調べられない。
やがて、マリが顔を上げた。
「ハルト」
「なんだ」
「ドルスさん」
俺は顔を上げた。
「ドルスさん、がくしいん」
彼女は言った。
「ドルスさん、なら、なまえ、いらない」
◇
――そうだ。
なぜ思いつかなかった。
ドルスは学士院の人間だ。あの男が星表を見るのに、閲覧簿は要らない。
いや、要るだろうが、それは「学者が仕事で見た」という記録にしかならない。
「手紙を書く」
俺は言った。
「かく」
「だが、書き方を考えないといけない」
俺は筆を取った。
「十一年周期を知りたい、とは書けない」
「なんで」
「手紙は、途中で誰かが読む」
俺は言った。
「王都までの便は、宿場で何度も積み替える。……読もうと思えば読める」
マリは頷いた。
「じゃあ、なんて、かく」
俺は少し考えた。
考えて、笑った。
「――仕事の話にする」
◇
俺が書いたのは、こういう手紙だ。
カラン東の沈下遺構群について、追加の測量を検討している。
ついては、遺構の建造年代を推定したい。
建造年代の推定には、星の位置が使えると聞いた。古い建物は、その時代の空に合わせて向きを決めることがあると。
貴院の星表を、どのくらい遡れるか教えていただきたい。
――それだけだ。
嘘は、一つも書いていない。
古い建物が空に合わせて建てられるのは本当だ。俺の家の流儀も、空を基準にしている。
ただ、俺が知りたいのは建造年代ではない。
「これ、うまい」
マリが覗き込んで言った。
「うまいか」
「うそ、ない。でも、ほんとうのこと、かいてない」
彼女は感心した顔をした。
俺は筆を置いた。
「……褒められてる気がしないな」
「ほめてる」
「そうか」
俺は封をした。
「褒められると、少し嫌な気分だ」
◇
手紙を出した日の夜、マリが訊いた。
「ハルト」
「なんだ」
「もし、じゅういちねん、ほんとうに、あったら」
「――星がか」
「うん。じゅういちねんで、まわる、なにか、あったら」
彼女は、卓の上で指を組んだ。
「それ、どういう、いみ」
俺は、答えを探した。
探して、正直に言った。
「――人が消えるのに、空が関係してる、という意味だ」
「そら」
「空だ」
俺は言った。
「地面の上で起きることに、空が関係してる。……そんな話は、聞いたことがない」
「まほう」
マリが言った。
「まほう、そう」
俺は顔を上げた。
――そうだ。
星回りが良ければ、魔法がよく効く。
誰でも知っている。粉屋も、酒屋も、そう言う。
三十年ぶんの統計がある、とドルスも言っていた。
「……ある」
俺は言った。
「一つだけ、ある」
俺は椅子から立ち上がった。
「魔法だ」
部屋の中を、二歩歩いた。
「空の並びで、地上の何かが変わる。……この国の人間は、全員それを知ってる」
「しってる」
「知ってて、理由を訊かない」
俺は足を止めた。
「昔からそうだから、で終わらせてる」
――俺のまじないと、同じだ。
この国は、意味の分からないものを、そのまま使い続ける国だ。
千年、そうしてきた。
◇
俺は椅子に戻った。
戻って、野帳を開いた。
新しい頁に、俺は三つ書いた。
一。人が消える。十一年ごと。
二。王国が滅んだ年も、その年だった。
三。この世界の魔法は、星の並びで効きが変わる。
三行だ。
三行しかない。
その三行が、繋がるかどうかは、まだ分からない。
――だが。
俺は、その三行を見ていた。
二十年、俺は寸法しか書かなかった。
寸法は、繋がらない。ただそこにある。
今、俺は繋がるかもしれないものを書いている。
書いていて、少し怖い。
怖いのに、手が止まらなかった。
◇
書き終えてから、俺は四行目を足した。
四。少女が消えた夜、向こうの空でも星が三つ重なっていた。
書いて、しばらく見ていた。
――これが本当なら。
こちらの空と、向こうの空は、別々に回っている。
星の並びが全部違うのだから、別々に決まっている。
別々に回っているものが、同じ夜に、両方で重なる。
それは、偶然だ。
偶然としか言いようがない。
――だが。
偶然が起きる確率は、計算できる。
二つの空が、それぞれ勝手に重なる日を持っているとする。
同じ夜に両方が重なる確率は、掛け算だ。
小さい。ひどく小さい。
俺は筆を置いた。
「マリ」
「うん」
「一つ、訊いていいか」
「うん」
「――向こうの空の重なりを、お前は前にも見たことがあるか」
彼女は、しばらく考えた。
「ない」
「一度も」
「みてない。……でも」
彼女は言い直した。
「そら、まいばん、みない」
俺は頷いた。
「そうだな」
「まちに、いた。ほし、あまり、みえない」
「町は明るいのか」
「あかるい」
彼女は、そこで少し寂しそうな顔をした。
「わたしの、くに、よる、あかるい。ほし、みえない」
俺は、その言葉を、しばらく考えた。
――夜が明るい国。
灯りが、それだけ多いということだ。
油をそれだけ燃やせるということだ。
どんな国だ、それは。
俺は訊かなかった。
訊けば、たぶん、この娘はまた「歩いて行けない」と言う。




