秘密の共有
メルシアに戻って、三日は何も起きなかった。
外套の連中は現れない。町の通りにも、市場にもいない。
いないのが、かえって落ち着かなかった。
――向こうは、待っている。
急いてはおりません、と男は言った。二十四年待ちました、と。
あれは脅しではない。事実の報告だ。
事実の報告のほうが、脅しより効く。
◇
四日目の夜、俺は卓に紙を広げた。
「全部、書き出す」
「ぜんぶ」
「知ってることを全部だ。順番も、繋がりも考えない。まず並べる」
マリが向かいに座った。
彼女は自分の帳面を開いた。
「わたしも、かく」
「書け」
俺は筆を取った。
◇
一。俺の家は百年、サルカドを測っている。
二。その依頼票に、金を出した者の名がない。
三。家に伝わるまじないがある。意味は誰も知らない。
四。そのまじないで、サルカドの壁が開いた。
五。同心円と枝分かれの模様が、四か所にある。サルカドの壁、狐の背、カランの床、ヌイ村の基礎。
六。ギルドの書庫の古い綴りにも、同じ模様がある。
七。二十四年前、ヌイ村で家が焼けた。火の始末のいい家が、夜に。
八。焼けた家の主は、行商を名乗る測量士だった。
九。翌年、俺は名を変えて遠縁に引き取られた。その一年の記憶がない。
十。外套の連中は、模様の「場所」を集めている。
十一。連中は俺を、オルソ・サルカディアと呼んだ。
十二。連中とは別に、もう一組いる。北にいて、丁寧ではないという。
◇
書き終えて、俺は筆を置いた。
紙が、思ったより黒くなっていた。
――十二だ。
三月前、俺が持っていたのは、たぶん二つか三つだった。
増えたのは、調べたからではない。
向こうが動いたからだ。
「ハルト」
マリが自分の帳面を差し出した。
彼女の字は、まだ拙い。だが読める。
書いてあったのは、四つだった。
一。ハルト、まじない、いう。かべ、ひかった。
二。きつね、なおした。せなか、ひかった。
三。カラン、ゆか、まんなか。いた、ひかった。
四。もよう、おなじ。
俺は、その四行を見た。
見て、動きが止まった。
「――光ってる」
「ひかってる」
マリは頷いた。
「みっつ、ぜんぶ、ひかった」
俺は自分の紙を見た。
俺は十二も書いた。
書いたのに、そこに気づいていなかった。
――そうだ。
三つとも、光った。
壁も、狐も、板も。
全部、同じ青い光り方で。
「マリ」
「うん」
「お前、これを最初から数えてたな」
「かぞえてた」
彼女はあっさり言った。
「わたし、じは、よめない。だから、みたもの、おぼえる」
俺は紙を置いた。
――俺は、書ける。書けるから、書いて安心する。
この娘は書けない。書けないから、覚える。
覚えているものは、頭の中で勝手に並ぶ。
二十年、俺は野帳に助けられてきた。
今日、野帳に邪魔された。
◇
「もう一つ、ある」
マリが言った。
「なんだ」
「あのなまえ」
彼女は、少し緊張した顔をした。
「オルソ・サルカディア」
発音は、ほぼ合っていた。
「サルカディア」
「――ああ」
「サルカド」
彼女は、続けた。
「シャルカディ・オム・ネイア」
俺は、椅子から少し身を起こした。
「にてる」
マリは言った。
「みっつ、にてる。おなじ、ことばから、わかれた。……とおもう」
俺は、しばらく黙っていた。
――気づいていなかった。
いや、正確には違う。
名を呼ばれた時、俺はサルカドを思い浮かべなかった。
思い浮かべる余裕がなかった。
この娘は、その場でそれをやっていた。
「……いつ気づいた」
「あのとき」
「街道でか」
「うん」
「なぜ言わなかった」
マリは、少し言葉を探した。
「あのとき、ハルト、しんどそう、だった」
彼女は言った。
「あたらしい、なぞ、いらない、と、おもった」
俺は、椅子の背にもたれた。
――この娘は、いつからこうなった。
三月前、雨に濡れた犬みたいに部屋の隅に座っていた娘だ。
今、俺の顔色を見て、情報を出す順番を決めている。
「マリ」
「うん」
「これから、それはやめてくれ」
彼女が顔を上げた。
「気づいたら、その場で言え」
俺は言った。
「俺がしんどそうでも言え。……俺のほうが年上だ。それくらいは持てる」
マリは、しばらく俺を見ていた。
それから、少し笑った。
「わかった」
「言え、と言ったからな。あとで俺が黙り込んでも、知らんぞ」
「だまったら、いう」
「何を」
「『まだ、いえない、って、いって』って、いう」
俺は思わず笑った。
三月と少しで、初めてまともに笑った気がした。
◇
その夜、二人で決めたことが三つある。
一つ。分かったことは、その日のうちに全部言う。
二つ。町を出る時は、必ず二人で出る。
三つ。もし離れることになったら、落ち合う場所を決めておく。
三つ目を言い出したのは、マリだった。
「はぐれる、かもしれない」
「――そうだな」
「そのとき、どこ」
俺は少し考えた。
考えて、答えは一つしかなかった。
「サルカドの、石段の前だ」
マリが、俺を見た。
「あそこは、俺の家が百年通ってる。俺が一番よく知ってる場所だ」
俺は言った。
「それに、連中も知ってる。……隠れる場所には向かない」
「じゃあ、なんで」
「隠れるためじゃない」
俺は言った。
「見つけるためだ」
マリは、しばらく黙って、それから頷いた。
「いしだんの、まえ」
「一段目の、右寄りだ。窪んでるところ」
「くぼんでる」
「百年、誰かが立ってた場所だ」
彼女は、その言葉を帳面に書いた。
時間をかけて、丁寧に。
◇
書き終えて、マリが顔を上げた。
「ハルト」
「なんだ」
「わたし、いま、うれしい」
俺は筆を止めた。
「うれしい、へん?」
「――変じゃない」
「たぶん、ハルト、たいへん」
彼女は言った。
「なまえ、よばれた。おわれてる。むかしのこと、でてきた。……たいへん」
「そうだな」
「でも、わたし、うれしい」
マリは、卓の上の紙を指した。
「これ、ふたりで、かいた」
俺は、紙を見た。
十二の項目と、四行の帳面。
両方が、同じ卓の上に並んでいる。
「まえは、ハルト、ひとりで、かいてた」
彼女は言った。
「わたし、みてた」
俺は、何も言えなかった。
「いまは、ふたり」
マリは、そう言って、少し照れたように帳面を閉じた。
俺は灯りを見た。
――そうか。
この娘は、三月ずっと、俺が一人で書いているのを見ていたのか。
俺はそれを、当たり前だと思っていた。
当たり前だと思っていたことが、また一つ減った。
◇
その後、俺たちは十二の項目を並べ替えた。
時の順に。
一番古いのは、百二十年前の図面だ。ダウムが言っていた、基準線のない綴り。
次が、四十二年前。消えた「下」の綴り。
その二年後に、オルガナ商会が潰れる。
二十四年前、ヌイ村が焼ける。
二十三年前、師匠が引き継ぐ。
三月前、外套の連中が北から動き出す。
――順に並べると、形が出た。
「マリ」
「うん」
「四十二年前と四十年前」
「ちかい」
「近い」
俺は指を置いた。
「綴りが消えて、二年後に商会が潰れてる」
「かんけい、ある?」
「分からん。だが、近すぎる」
俺は野帳に書いた。
「もう一つある。……二十四年前だ」
俺は、ヌイ村の行を指した。
「商会が潰れた十六年後に、うちが焼けた」
「じゅうろくねん」
「十六年、何もなかったってことだ」
俺は言った。
「その十六年に、何があったかは分からん。だが、二十四年前に何かが変わった」
マリが、少し考えた。
「おとうさん」
「――ああ」
俺は頷いた。
「親父が、何かをした年だ」
俺は、そこで一度、口を閉じた。
閉じてから、続けた。
「たぶん、遺跡で何かを見つけた」
「みつけた」
「見つけたか、開けたか」
俺は言った。
「うちの家系は、百年ずっと同じことをしてた。同じことをしてる限り、何も起きなかった」
俺は紙を見た。
「親父の代で、初めて何かが変わった」




