測量士の家系じゃない
俺は、頭を下げた四人を見下ろしていた。
――名乗るな。
最初に浮かんだのは、それだった。
ここで「そうだ」と言えば、終わりだ。
この男たちが何者で、何をする気なのか、まだ何一つ分かっていない。
俺は口を開いた。
「――人違いだ」
男が、顔を上げた。
目が、静かだった。
「そうですか」
「俺はハルトだ。測量士のハルト。ギルドに登録がある」
「ございますね」
「二十年、そう名乗ってる」
俺は杆を下ろした。
「その名で仕事を取って、その名で金をもらってる。それ以外の名は知らん」
男は、しばらく黙っていた。
それから、微笑んだ。
「――結構です」
「結構?」
「否定は、ありませんでしたので」
俺は、そこで自分の失策に気づいた。
人違いだ、とは言った。
だが、「そんな名前は知らない」とは言わなかった。
――知らない、と言えなかった。
言えば、嘘になる。
俺の体が、あの名を知っていた。
「本日はここまでに」
男は言った。
「急いてはおりません。二十四年待ちました」
彼は、外套の前を直した。
「一つだけ、お伝えします」
「――」
「我々の他にも、探している者がおります」
俺は顔を上げた。
「同じものを探し、同じ絵を持ち、同じ場所を回っている」
男の声が、少しだけ低くなった。
「ただし、あちらは、丁寧ではありません」
「……何者だ」
「申し上げられません」
男は頭を下げた。
「ですが、二十四年前の火事について、我々ではない、と申し上げた意味は、そこにあります」
彼は背を向けた。
「メルシアへお戻りください。北はいけません」
「なぜ」
「あちらが、北にいます」
◇
四人が去った後、街道には俺たちだけが残った。
俺は、しばらく動かなかった。
風が吹いて、道の埃が流れた。
「ハルト」
マリの声が、後ろでした。
「――ああ」
「なまえ」
俺は振り返らなかった。
「呼ばれた」
「うん」
「知らん名だ」
俺は言った。
「知らん名なんだが」
言葉が、そこで止まった。
止まって、しばらく出てこなかった。
やがて、俺は自分の掌を見た。
「――呼ばれた時に、返事をしそうになった」
◇
その日は、来た道を半分戻ったところで泊まった。
宿を取った。野営はやめた。
部屋に入って、荷を下ろして、俺は椅子に座った。
座って、しばらく何もしなかった。
マリが、卓の向こうに座った。
黙って、待っていた。
この娘は、待つのが上手い。
俺が話し出すまで、絶対に急かさない。
――それが、一番こたえる。
◇
「マリ」
「うん」
「話しておきたいことがある」
彼女は頷いた。
俺は、卓の上で手を組んだ。
組んで、それから、ほどいた。
言葉が、なかなか出てこなかった。
二十四年、一度も口にしたことのない話だ。
口にするための言葉を、俺は持っていない。
だから、持っている言葉から始めた。
「――俺の家は」
声が、思ったより掠れた。
「百年、サルカドを測ってる」
「うん」
「依頼票に、金を出した者の名がない」
「うん」
「入る前に、意味の分からん言葉を唱える」
「うん」
「その言葉で、壁が開いた」
「うん」
マリは、一つずつ頷いた。
全部、彼女が知っていることだ。
全部、この三月で、二人で見てきたことだ。
俺は、そこで一度、息を吸った。
「親父が言ってた」
俺は言った。
「うちは昔、王の家だったと」
「うん」
「俺は笑った。行商の家だぞ、と」
俺は、掌を見た。
「今日まで、そう思ってた」
部屋が、静かだった。
外で、馬が鼻を鳴らす音がした。
俺は顔を上げた。
マリが、こちらを見ていた。
まっすぐに。
俺は言った。
「――俺の家は」
喉が、ひどく渇いていた。
「本当は、測量士の家系じゃない」
◇
言い終えて、俺はしばらく動かなかった。
言葉が、部屋の中に残っている気がした。
マリは、何も言わなかった。
驚きもしなかった。
彼女はただ、少しだけ息を吐いて――
そして、こう言った。
「……しってた」
俺は顔を上げた。
「しってた、じゃ、ない」
彼女は言い直した。
「そう、おもってた」
「――いつから」
「かべが、あいた、とき」
マリは、卓の上で指を組んだ。
「あのとき、わたし、ひかったの、みた」
「……ああ」
「ハルト、みなかった。『つかれてる』って、いった」
彼女は、少し笑った。
「わたし、そのとき、おもった。『このひと、しらないんだ』って」
俺は、何も言えなかった。
「しらないのに、あく」
マリは言った。
「それ、いちばん、こわい」
――そうだ。
この娘は、あの日から知っていた。
俺が知らないことを、知っていた。
三月、それを黙って持っていた。
「マリ」
「うん」
「なぜ、言わなかった」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、正直に言った。
「いったら、ハルト、しらべる」
「……ああ」
「しらべたら、あの、かべの、むこう、いく」
彼女は、自分の手を見た。
「わたし、いってほしく、なかった」
俺は、その言葉を、しばらく飲み込めなかった。
「――なぜ」
「あぶない」
マリは言った。
それから、顔を上げた。
「わたしの、ため、じゃ、ない」
彼女は、はっきり言った。
「ハルトの、ため」
◇
俺は、椅子の背にもたれた。
――同じことをしていた。
俺は、この娘を巻き込まないために黙った。
この娘は、俺を行かせないために黙った。
どちらも、相手のためだと思って黙った。
その結果、三月が過ぎて、四人組が家の通りを歩いている。
「マリ」
「うん」
「黙るのは、たぶん、下手なやり方だ」
彼女は頷いた。
「わかってる」
「分かってて、やった」
「やった」
彼女は、少し笑った。
「ハルトも」
「俺もだ」
俺は天井を見た。
――守るというのは、難しい。
獣から守るのは簡単だ。杆一本で足りる。
言葉から守るのは、どうすればいいのか、俺は知らない。
知らないまま、二十四年やってきた。
やってきた結果が、これだ。
◇
俺は、そのまま、しばらく座っていた。
灯りが、じりじり燃えていた。
やがて、俺は口を開いた。
「――マリ」
「うん」
「言わなきゃならんことが、まだある」
「うん」
「たぶん、これから、もっと増える」
俺は言った。
「一つずつでいい。時間はかかる」
「かかる」
「途中で、また言えないことが出るかもしれん」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
「その時は――『まだ言えない』と言う」
マリの目が、少し大きくなった。
それから、彼女は笑った。
三月と少し、俺が見た中で、一番はっきりした笑い方だった。
「うん」
彼女は言った。
「わたしも、そうする」
◇
その夜、俺は久しぶりに、よく眠った。
眠る前に、窓から空を見た。
癖だ。
〈環〉が、東に低く出ていた。
あと少しで昇りきる。
――十一年。
ふと、そんなことを考えた。
人が消える周期。
この娘が現れた年。
まだ、繋がっていない。
繋がっていないが、そう遠くない気がした。
俺は窓を閉めた。
閉めて、寝台に入った。
――名を、呼ばれた。
オルソ・サルカディア。
知らない名だ。
知らない名なのに、体が返事をしようとした。
俺は目を閉じた。
閉じる前に、一つだけ思った。
あの名を、いつか自分から名乗る日が来るなら。
その時は、たぶん、逃げるためではない。
◇
翌朝、俺たちはメルシアへ向かって歩いていた。
北はいけない、とあの男は言った。
言われた通りに動くのは癪だが、他に材料がない。
材料がない時に勘で動くと、死ぬ。
それは、遺跡で覚えた。
「ハルト」
道の途中で、マリが言った。
「なんだ」
「あのなまえ」
「――ああ」
「もういちど、いって」
俺は足を止めた。
「なぜ」
「おぼえる」
彼女は、真面目な顔で言った。
「わすれたら、こまる」
俺は、しばらく黙っていた。
それから、口に出した。
「――オルソ・サルカディア」
自分で言うのは、初めてだった。
言ってみると、思ったより、何も起きなかった。
体が返事をしようとすることも、なかった。
他人に呼ばれた時とは、まるで違った。
マリは、それを二度、繰り返した。
二度目で、発音がほぼ合った。
この娘は、音を拾うのが異常に早い。
「おぼえた」
「早いな」
「ハルトの、なまえ」
彼女は、そこで少し笑った。
「ふたつ、ある。……ずるい」
「ずるいか」
「ずるい。わたし、ひとつ」
俺は、少し笑った。
笑ってから、前を向いた。
道の先に、メルシアの丘が見えていた。
三月と少し前、俺はあの町から、荷を背負って一人で出た。
今は、二人で戻ろうとしている。
――ここからは、たぶん、楽ではない。
名を知られた。連中は待っている。北には別の何かがいる。
それでも、足は前に出た。
俺は歩幅を確かめた。
二尺三寸。
乱れていなかった。




