本当の名
北へ向かう街道は、思ったより空いていた。
収穫の前で、行商が動かない時期だ。
俺たちは二日歩いて、宿場町の手前で野営した。
火を焚かなかった。
煙は上へ行く。上に何がいるか分からない場所で、自分の居場所を知らせる理由はない。
――遺跡と同じだ。
街道が遺跡になった、と思った。
◇
「ハルト」
毛布にくるまったマリが言った。
「あのひと、なんで、まえに、でた」
「俺のことか」
「ハルトのこと」
俺は、しばらく黙っていた。
「――あいつが、お前のほうへ回ったからだ」
「うん」
「それだけだ」
「それだけ」
マリは繰り返した。
「じゃあ、わたしが、いなかったら」
彼女は、暗がりで言った。
「ハルト、さがった?」
俺は答えなかった。
――下がっただろう。
下がって、話を聞いて、はぐらかして、帰った。
二十四年、そうやって生きてきた。
目立つな。腕一本で食え。何も持つな。
持てば、守るものができる。守るものができれば、下がれなくなる。
師匠は、そこまで言わなかった。
だが、たぶん、そういう意味だった。
「マリ」
「うん」
「――お前がいるから、下がれなかった」
言った。
言ってから、これは責めている言い方だと気づいた。
「そうじゃない」
俺は言い直した。
「お前のせいだ、という話じゃない。俺の話だ」
「わかってる」
マリは、あっさり言った。
「わかってる」
◇
三日目の昼、彼らは道の真ん中に立っていた。
四人。同じ顔ぶれだ。
溝に落ちた男も、肩を吊っていない。
「またお会いしましたね」
先頭の男が言った。
「北へ行かれるとは伺っていませんでしたが」
「言ってない」
「ええ。ですから、追いました」
男は微笑んだ。
俺は道の幅を測った。
――広い。
街道だ。九尺ある。四人が横に並べる。
塀もない。溝もない。
――ここでやるのは、まずい。
「話をしましょう」
男は言った。
「今度は、こちらから差し上げる話です」
俺は動かなかった。
「二十四年前」
男は言った。
「ヌイ村で、家が一軒焼けました」
俺の指が、杆の柄を握り込んだ。
「夫婦が二人、亡くなった。子どもが一人、行方不明になった」
男は、丁寧な口調のまま続けた。
「その火事は、事故として処理されています。記録上は」
「――記録上は」
「はい」
男は頷いた。
「我々の記録では、違います」
俺は、その言葉を、二呼吸ぶんかけて飲み込んだ。
「……何の記録だ」
「古い記録です」
男は、それだけ言った。
「あなたのお父上は、ある夜、遺跡で言葉を唱えた。そして、扉が開いた」
俺は、動けなかった。
「その報せが、我々のもとに届いた」
男の声は、変わらなかった。
「届くのに、三月かかりました。我々が村に着いた時には、家はもう焼けていた」
――待て。
俺は、頭の中で、話の順番を組み直した。
この男は今、こう言った。
俺たちが着いた時には、もう焼けていた。
「……お前らが、やったんじゃないのか」
「違います」
男は、はっきり言った。
「我々ではない」
「なら誰だ」
「分かりません」
男は、初めて、少しだけ表情を動かした。
「二十四年、分かっていません。だから、今も探している」
◇
俺は、杆を持つ手が汗ばむのを感じた。
――嘘か。
嘘かもしれない。この男は、最初から丁寧に嘘をつく男だ。
だが、嘘なら、もっと分かりやすい嘘をつく。
「我々ではない」と言って、こちらが疑うことは、この男には分かっている。
分かっていて言った。
「お連れの方には、聞かせたくないお話でしたら」
男が言った。
「――続けろ」
「よろしい」
彼は頷いた。
「火事の翌年、子どもは遠縁の測量士に引き取られました。名を変えて」
俺は動かなかった。
「その測量士は、サルカドの定期を引き継いだ。前の代から」
「――」
「前の代というのは、焼けた家の主です」
男は言った。
「行商人ではありません。彼もまた、測量士でした。表向きは、行商でしたが」
俺の中で、何かが噛み合った。
――だから、家の基礎に紋章の石があった。
――だから、遺跡に入っていた。
――だから、まじないを唱えた。
全部、繋がる。
「その家は」
男は続けた。
「百年、名前を変えながら、サルカドを測り続けてきた。記録に残らない依頼で」
俺は、口を開いた。
「……なぜ」
「守るためです」
「何を」
「それを、我々も知りたい」
◇
男は、そこで一歩前へ出た。
俺は杆を上げた。
彼は止まった。
止まって、両手を軽く開いた。
「争いに来たのではありません」
彼は言った。
「お伝えに来ました」
「――何を」
「あなたが、誰であるかを」
男は、俺を見た。
目が、初めて笑っていなかった。
そして、彼はゆっくりと、頭を下げた。
深く。
部下の三人も、同時に頭を下げた。
四人が、街道の真ん中で、俺に向かって頭を下げていた。
男が、顔を上げずに言った。
その名を。
「――お迎えに参りました。オルソ・サルカディア様」
◇
俺は、その名を知らなかった。
知らないはずだった。
なのに、耳から入った瞬間、体のどこかが、それを知っていた。
喉の奥が、勝手に動いた。
昔、誰かがそう呼んだ。
子どもの頃に。
何度か。
――思い出せない。
思い出せないのに、体は覚えている。
俺は、杆を握ったまま、動けなかった。
◇
(――え)
私は、その言葉を聞いた。
ほとんど分からなかった。長いし、聞いたことのない発音だった。
でも、一つだけ分かった。
名前だ。
あの人たちは、名前を呼んだ。
そして、ハルトさんが、動かなくなった。
私は、彼の背中を見た。
いつも、まっすぐ立っている人だ。
歩幅が一歩も乱れない人だ。
その人が、いま、少し傾いている。
(――ハルトって、名前じゃないんだ)
私は、その事実だけを、はっきり理解した。
三月と少し、私はこの人を「ハルト」と呼んできた。
それが、本当の名前じゃなかった。
私は、両手を握った。
悲しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。
ただ、一つだけ思った。
(――言ってくれれば、よかったのに)
言えなかったんだ、とも思った。
だって、この人は今、初めて聞いた顔をしている。
◇
私は、その名前を、頭の中で繰り返した。
オルソ・サルカディア。
――サルカディア。
サルカド、に似てる。
私は、はっと顔を上げた。
サルカド遺跡。
この人が、代々測ってきた遺跡。
あの名前と、この名前が、似ている。
似てるっていうか、たぶん、同じ言葉から来てる。
日本語でも、そういうのはある。地名と苗字が同じなのは、珍しくない。その土地の名前を、家が名乗る。
でも、順番はどっちだろう。
その家がいたから、土地がそう呼ばれたのか。
その土地にいたから、家がそう名乗ったのか。
私は、そこまで考えて、背中が冷たくなった。
――どっちでもいい。
どっちにしても、この人の家と、あの遺跡は、名前で繋がってる。
百年、その家がその遺跡を測ってきた。
偶然じゃない。
最初から、そういうことだったんだ。
私は、彼の背中を見た。
この人は、たぶん、まだそこまで気づいていない。
言おうか、と思った。
思って、やめた。
――今じゃない。
今この人に必要なのは、新しい謎じゃない。
私は口を閉じて、彼の隣に立った。
◇
立ってから、私はもう一つ思い出した。
あのおまじない。
シャルカディ・オム・ネイア。
――シャルカディ。
サルカディア。
サルカド。
全部、似てる。
私は、口の中で三つを並べてみた。
似てるどころじゃない。
最初の音が、ほとんど同じだ。
私は日本語しか知らない。英語は苦手だった。言語学なんて何も知らない。
でも、これくらいは分かる。
――同じ言葉から、枝分かれしてる。
「東京」と「東」と「東の人」みたいに。
だとしたら。
あの人が毎回唱えている、意味の分からない言葉。
あれは、意味が分からないんじゃなくて。
――誰も、意味を教えなかっただけだ。
私は、自分の腕をさすった。
鳥肌が立っていた。
三月ずっと聞いてきた言葉が、急に別のものに見えた。




