数字は通じる
朝になっても、言葉は通じないままだった。
水、と言って椀を指した。娘は真似をした。発音は悪くない。だが、次に俺が違う物を指すと、また同じ言葉を返してきた。
通じていない。音を返しているだけだ。
こちらも同じことをやっている。娘が何か言うたび、俺は頷いてみせるが、意味は一つも取れていない。
試しに、こちらから並べてみた。
椀を指して「わん」。卓を叩いて「つくえ」。窓を指して「まど」。
娘は三つとも繰り返した。それから、自分で窓を指して「まど」と言った。
通じた、と思った。
次に俺が扉を指すと、娘は「まど」と言った。
窓と扉の区別がついていない。当たり前だ。四角い枠に見えるものは、彼女にとってまだ全部同じ物だ。
言葉というのは、案外もろい。
一つ覚えるたびに、それが何と何を分けるための言葉なのかを、別に覚えなければならない。名前だけ集めても意味にならない。
俺は椅子に座って、しばらく考えた。
それから、机の上の図面を広げた。
◇
昨日サルカドで引いてきた、清書前の下図だ。
線と数字しかない。壁、通路、段差、崩落。方位。それだけの紙を、俺は娘の前に置いた。
伝わるとは思っていなかった。
娘が身を乗り出した。
紙の端に手を添えて、じっと見た。目が、線を辿っている。上から下へ、右から左へ。順を追って動いている。
そして、迷いなく、一点を指した。
崩落で塞がった脇道。その手前。
――昨日、彼女が倒れていた場所だった。
俺は息を止めた。
この図面は、絵ではない。上から見た形を、寸法通りに縮めて線にしたものだ。実物とは似ても似つかない。読めるようになるまで、見習いは半年かかる。
それを、この娘は初めて見て読んだ。
俺は筆を取って、その地点に丸を書いた。娘を指す。娘は頷いた。
次に、石段の位置に丸を書いて、自分を指した。娘はまた頷いた。
通じた。
念のため、試した。
紙の裏に、別の図を描く。この家の間取りだ。土間、部屋、寝台、窓、竈。線だけで、十数える間に引ける程度のものを。
置いて、娘の顔を見る。
娘は図を見て、部屋を見回して、それから寝台の位置を指した。
合っている。
俺は竈の位置に×を書いて、そこを指した。娘は立ち上がって、竈まで歩いて、振り返った。
合っている。
――誰かに教わっている。
この読み方は、生まれつき身につくものではない。上から見た形という考え方そのものを、どこかで習っていなければこうはならない。
この娘は、どこかの学校に通っている。
言葉も通じない、どこから来たかも分からない娘が、俺と同じ図の読み方を教わっている。
俺はそのことを、しばらく飲み込めなかった。
◇
そこからは早かった。
俺が壁を叩いて「かべ」と言い、図面の線を指す。娘が繰り返す。今度は、目が違った。分かって言っている目だ。
数を数えた。指を三本立てて、紙に「三」と書く。娘は自分の指を三本立てて、紙の隅に別の形を書いた。
俺の知らない字だった。
だが、四本立てれば違う字を書き、七本立てればまた違う字を書いた。ずれない。三十を過ぎても、法則が崩れない。
十で桁が変わる。俺たちと同じだ。
――同じ、なのか。
筆が一瞬止まったが、その時は深く考えなかった。数の数え方など、どこの国でも似たようなものだろうと思った。
最後に、俺は自分の胸を指した。
「ハルト」
娘が、しばらく俺の顔を見て、それから自分の胸を指した。
「……マリ」
マリ。
繰り返すと、娘は――マリは、小さく頷いた。
意味のある言葉なのかは分からない。
俺の家に伝わるまじないの言葉と同じだ。音だけがあって、意味は誰も知らない。それでも、そう呼べば返事がある。
名前なんて、そんなもので足りるのかもしれない。
◇
役所は、あっさりしていた。
身元不明者の記録を作り、聞き取りをして――言葉が通じないので、聞き取りにならなかった――記録は「不明」で埋まった。
引き取り手の届けは、この三年で一件も出ていないという。
「北から流れてきた子ではないですかね」
窓口の男は、書きながらそう言った。
「言葉の違う土地もありますから。落ち着いたら、そのうち思い出すでしょう」
思い出すも何も、忘れているわけではないだろう。
そう言おうとして、やめた。言っても記録は変わらない。
紙には、こう書かれた。
――身元不明。保護者:測量士ハルト(暫定)。
「暫定?」
「引き取り手が出るまでです」
「出なかったら」
「出るまでです」
役人というのは、そういう言い方をする。
帰り道、マリはその紙を持たされていた。
自分の名前が書いてある――と、思っているのだろう。実際には「不明」としか書いていない。
俺は説明できなかった。説明する言葉がなかった。
彼女は紙を丁寧に畳んで、鞄にしまった。
◇
その足で、俺は古着屋に寄った。
あの服のままでは目立ちすぎる。町を歩くたびに人が振り返る。振り返られるのは、俺が一番避けたいことだ。
店の婆さんが、マリを上から下まで見た。
「どこの子だい」
「拾った」
「あんたが?」
「他にいなかった」
婆さんは鼻を鳴らして、棚から何枚か引き出してきた。
仕立ての悪い、丈夫なだけの服だ。それでいい。
着替えて出てきたマリは、自分の袖を摘まんで、しばらく見ていた。
それから、たたんだ元の服を、鞄の一番下にしまった。
しまい方が、丁寧だった。
――帰るつもりでいる。
俺はそう理解した。
◇
問題は、飯だった。
人が一人増えると、食う量が増える。それは当たり前だ。
当たり前なのだが、俺は三十四年、自分の分しか計算したことがない。
ギルドの掲示板の前で、俺は依頼票を眺めていた。マリが横に立って、同じように掲示板を見上げている。
字は読めないはずだ。それでも、見ている。
視線が、板の右端で止まった。
階級表だ。
見習い、一般、熟練、特級。四段。それぞれの隣に、標準日当が銅貨で刻んである。百、三百、八百、二千。
マリは、その四段を上から下へ、指で追った。
そして、何か短く言った。
俺には分からなかった。分からなかったが、その言い方には、驚きよりも――何と言えばいいのか、「知っている」に近い響きがあった。
◇
(――ランク制だ)
私は、その板を見上げていた。
文字は読めない。でも、四段に分かれていて、下に行くほど数字が大きくなる看板なんて、意味は一つしかない。
ランクだ。等級。それに応じた報酬額。
(……なんかゲームみたい)
思った瞬間、自分で自分に腹が立った。
こんな状況で、何を考えているんだろう。
でも、そう思うことでしか、目の前のものを飲み込めなかった。
昨日から、私はずっと、知っている形を探している。
道の作り方。屋根の勾配。パンの匂い。硬貨に縁のぎざぎざがあること。人が頭を下げること。
全部が違うわけじゃない。
全部が違ったら、私はたぶん、もう立っていられなかった。
◇
俺はマリを連れてフェイラの前に立った。
「助手として雇う」
フェイラが顔を上げた。
「……本気?」
「日当は俺の取り分から出す。見習いの半分でいい。飯代が出れば足りる」
「言葉、通じないのよ」
「図面は読める」
フェイラの手が止まった。
「読めるの?」
「読めた」
彼女は、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、はっきりため息をついた。
「あんた、そういうとこあるわよね」
「ない」
「あるわよ」
書付には、こう書かれた。
――測量助手(見習前)、日当五十レン、雇用主ハルト。
紙を受け取ったマリは、しばらくそれを見て、それから両手で持ち直して、深く頭を下げた。
この娘は、意味の分からない紙を渡されて、頭を下げるほうを選んだ。
◇
最初の仕事は、旧市街の浅い一軒だった。
階段が三段、部屋が二つ。子どもでも一日で測れる規模だ。
縄の端を持たせた。撓ませるな、と身振りで示す。
マリは真剣な顔で縄を張った。撓ませなかった。ずっと張っていた。腕がぷるぷるしていたが、緩めなかった。
見習い二人組より、よほどましだ。
部屋の寸法を取り、野帳に落とす。
書きながら、記号を一つずつ見せた。丸に線は崩落。三角は段差。二重丸は水。
マリは覗き込んで、指で空に同じ形をなぞった。それから、部屋の隅の水溜まりを指して、二重丸を描く仕草をした。
俺は頷いた。
三つ目の記号で、もう自分から先に言うようになった。
――覚えが早い。
早すぎる、と言ってもいい。ギルドで半年かけて教えることを、この娘は一刻で拾っている。
悪い気はしなかった。
ただ、拾える人間だと分かってしまうと、こちらも雑には教えられなくなる。
俺は縄を張り直して、正しい張り方をもう一度やって見せた。
◇
――そう思った矢先だった。
奥の部屋の暗がりで、何かが動いた。
「下がれ」
言葉が通じないのは分かっていたが、声は出た。
マリが縄を落として、後ろへ跳ねた。それでいい。
出てきたのは、岩鼬だった。
若い個体だ。胴が細く、爪もまだ短い。それでも十分に速い。低く伏せて、こちらの足を狙って地を這ってくる。
俺は右足を半歩引いた。
杆を前に出す。突かない。石突きを床すれすれに寝かせて、通り道に置くだけだ。
岩鼬は自分から突っ込んで、鼻先を鉄に打ちつけた。
一瞬、動きが止まる。
その一瞬で、俺は杆を立てて回し、握りの側で首の付け根を打った。
鈍い音がして、岩鼬が横倒しになった。
もう一度、確かめるように打った。動かなくなった。
息を整えて、俺は杆の石突きを床に置いた。
――五つ数えるほどの時間だった。
振り返ると、マリが壁に張りついたまま、俺を見ていた。
目が丸くなっていた。口も開いていた。
俺は肩をすくめて、杆の泥を布で拭いた。
「仕事道具だ」
通じるはずのない言葉を、なぜか言った。
マリは、俺の手元をずっと見ていた。
布で拭いて、石突きを検め、握りの革の巻きが緩んでいないかを確かめる。それだけの手順を、瞬きもせずに見ている。
それから、床の岩鼬に目を移した。
しゃがんで、少し離れたところから覗き込む。怖がってはいる。それでも見る。
――こういう見方をする人間は、少ない。
冒険者の若いのは、勝った獲物を見ない。見るのは金になる部位だけだ。
この娘は、相手そのものを見ている。
やがて顔を上げて、俺に何か言った。短い一言だった。
声の調子から、たぶん礼だった。
俺は杆を担ぎ直して、部屋の奥を指した。まだ半分残っている。
マリは立ち上がって、縄を拾った。
◇
夕方、ギルドに戻って報告を出した。
図面を提出し、日当を受け取り、マリの分の五十レンを別に受け取って、彼女の手に載せた。
マリは、その四枚の銅貨を、掌の上でじっと見ていた。
それから、握った。
――と、フェイラが奥から出てきた。
いつもの顔ではなかった。書付を一枚持っている。
「ハルト。指名依頼」
「今日はもう」
「明日でいい。……でも、これは先に見て」
差し出された紙を、俺は受け取った。
サルカド遺跡。一次測量。
一次、というのは、まだ誰も測っていないという意味だ。
俺は目を上げた。
「あそこに、一次はもう出ない」
百年ぶん測ってある。図面は全部埋まっている。新しく測るところなど、あの遺跡には残っていない。
フェイラが首を振った。
「先週の地揺れで、奥が抜けたの」
紙の下の方に、走り書きが添えてあった。
――新規区画。下方向。深さ不明。




