拾いもの
肩を叩いても起きなかった。
頬に触れると、まぶたが震えて、それから急に開いた。
目が合った瞬間、娘は跳ね起きて、瓦礫に背中をぶつけた。
「――っ、」
声にならない声を上げて、両手で顔をかばう。目がまったく定まっていない。俺を見ているようで、見えていない。
俺は動かなかった。
こういう時に手を伸ばすと、余計に暴れる。獣も人も同じだ。
灯りを床に置いて、自分の顔が見える高さにする。杆を横に寝かせ、手を膝に置いて、そのまま待った。
娘の呼吸が、少しずつ落ちる。
やがて、震える声で何か言った。
言葉ではあった。抑揚があり、区切りがあり、語尾が上がった。訊いている。
だが、一語も分からない。
「……どこの言葉だ、それは」
娘の目が、今度は俺の口元を見た。同じ顔をしていた。分からない、という顔だ。
俺たちは、しばらく黙って見合っていた。
◇
結局、歩かせるしかなかった。
背負おうとしたら本気で抵抗されたので、諦めた。無理もない。
立たせて、歩かせて、後ろから見る。
足取りはしっかりしている。ふらついてはいない。壁に手をつくこともない。まる一日倒れていた人間の歩き方ではなかった。
倒れていた時間は、そう長くない。
だとすると、余計に分からなくなる。
俺がこの区画に降りてきたのは、朝だ。それから半日、この遺跡には俺しかいなかった。
石段を上がると、外はもう暮れかけていた。
娘が、空を見た。
そのまま動かなくなった。目を見開いて、口を半分開けて、夕焼けを見上げている。
夕焼けだ。ただの。
俺は先に立って歩き出した。三歩ほど行って振り返ると、娘は慌てて追ってきた。
野原の家々の間を抜けていく間、娘はずっと周りを見回していた。
沈んだ石組みを見て、遠くの丘を見て、また空を見る。そのたびに顔から血の気が引いていくのが、横目でも分かった。
俺は歩調を落とした。
途中で一度、娘が立ち止まった。
沈んだ石組みの一つ、階段が三段だけ地面から出ているところだった。
娘はそれを覗き込んで、しゃがんで、下の暗がりを見ていた。
そして、俺を振り返って、何か言った。
訊いている顔だった。「これは何」と訊いている顔だ。
「家だ」
通じないのは分かっている。俺は自分の指で四角を描いて、地面を指した。
娘は、しばらく考えていた。
それから、野原を見回した。点々と顔を出す石組みを、ひとつ、ふたつ、みっつと目で追って――その数の多さに気づいた顔をした。
この野原は、全部そうだ。
どこまで歩いても、足の下に誰かの家がある。
娘は立ち上がって、それきり何も訊かなかった。
旧市街を抜ける頃には、娘はもう何も言わなくなっていた。
◇
メルシアに着いたのは、夜も更けてからだ。
ギルドの窓には灯りが残っていた。フェイラが泊まりの当番だった日で、それは運が良かったのか悪かったのか、今でも分からない。
「拾った」
「――何それ」
フェイラが立ち上がった。
娘は俺の背中の陰に半分隠れて、部屋の中を見回している。
「サルカドの浅いところで倒れてた。怪我はない。言葉が通じない」
「どこの子?」
「分からん」
「服、変よ」
「分かってる」
フェイラが机を回って出てきて、娘の前でしゃがんだ。
娘は身を固くしたが、逃げはしなかった。相手が女だからだろう。
「……ちょっと、これ」
フェイラが袖の端をつまんだ。
「見て。裾の始末」
俺は覗き込んだ。
布の端が、折り返して縫い留めてある。それ自体は珍しくない。珍しいのは、その縫い目だ。
針目が、機械のように揃っている。長さも、間隔も。三寸ぶん数えても一つも乱れがない。
「うちの仕立屋がこれ縫えたら、王都で店出せるわよ」
「それを、普段着でやってる」
「そうなのよ」
フェイラが立ち上がって、腕を組んだ。
「貴族……ではないわね。生地が安い」
「安いのか」
「安いわ。触れば分かる。上等じゃない。上等じゃないのに、仕立てだけ異様にいい」
その組み合わせが、この町の常識には存在しない。
フェイラは帳面を開いて、それから閉じた。
「身元不明の保護、なら手続きはあるけど。……あんた、この子いくつだと思う?」
俺は娘を見た。
背は俺の胸くらいまで。顔つきが幼い。肩の細さも、手の小ささも。
「十三、四か」
「そのくらいよね」
フェイラが息を吐いた。
「引き取り手が出るまでは、どこかで預からないと。孤児院は今いっぱい。宿は……身元不明を泊めるとこ、この町にはないわ」
「役所は」
「明日にならないと開かない」
フェイラが俺を見た。
俺は天井を見た。
「……一晩だけだ」
「助かる」
彼女は本当に助かったという顔をして、それから小さく笑った。
「あんた、そういうとこあるわよね」
「ない」
「あるわよ」
◇
娘の荷物を、机に並べた。
こういう時、身元の手がかりを探すのは決まりごとだ。俺は測量士で、役人ではないが、誰も他にやる者がいなかった。
布の鞄。肩から斜めに掛ける型で、留め具が金属だ。
その留め具に、俺は最初に引っかかった。
押すと外れる。指一本で。戻すと、かちりと噛んで留まる。仕組みは単純だ。単純なのに、造りが異様に細かい。歪みも、削り残しも、鑢の目もない。
この町の錠前屋の仕事より、明らかに上等だ。
中身を出す。
筆記具らしきものが一本。細い管の先から、色のついた液が出る。振っても零れない。どういう理屈だ。
硬貨が数枚。銅でも銀でもない、軽い金属。縁がぎざぎざに刻んである。表に見たことのない文字。
一枚を指で弾いてみた。
澄んだ音がした。混ぜ物の音ではない。
同じ大きさのものを二枚並べて、重ねてみる。狂いがない。厚みも、直径も、縁の刻みの数まで同じに見えた。
鋳型で作れば、多少はばらつく。ばらつかない硬貨など、この世に流通していない。
――どこの国だ。
王都の鋳造所でも、こうはならない。俺は一度、仕事で見せてもらったことがある。あそこの職人が生涯かけて追いかけているのが、この精度だ。
それを、この娘は財布に無造作に放り込んでいる。
紐で束ねてもいない。数えてもいないのだろう。
紙の札が一枚。押し花のように薄い透明な膜に、紙が挟んである。娘の顔が――写っていた。
俺は手を止めた。
絵ではない。写し絵でもない。細かすぎる。まつ毛の一本一本が写っている。
娘が横から手を伸ばして、それを取り返した。
胸に抱えて、俺を睨む。俺は何も言わなかった。
最後に、黒い板が一枚。
掌に載るくらいの大きさで、片面が鏡のように磨かれている。厚みは指の腹ほど。角が丸めてある。
持ち上げて、灯りにかざした。
継ぎ目がない。
――どこの工房だ、これは。
指で押してみる。何も起きない。振ってみても、音がしない。裏返す。何も書いていない。
黒い、ただの板だ。
だが、こんなものを作れる工房を、俺は知らない。ここまで平らな面を出す方法を知らない。硝子でも、磨いた石でもない。
俺は板を灯りに近づけて、角度を変えた。
面に俺の顔が映る。歪まない。
これが一番おかしい。
鏡というのは、磨けば磨くほど歪みが出る。中心と端で厚みが変わるからだ。だから王都の鏡屋は、大きな鏡を作るのに何年もかける。何年もかけて、それでも端は少し歪む。
この板は歪まない。
端まで、まっすぐ映る。
指の腹で表面を撫でた。埃はつくが、傷が一本もない。掌に載る道具を毎日持ち歩いていて、傷が一本もつかないということが、あるだろうか。
裏返して、縁を爪でなぞる。
――継ぎ目がない。
二度目に、そう思った。今日、俺は同じことを二度思っている。
一度目は、あの遺跡の壁を触った時だ。
俺は板を置いた。置いて、少し離れた。
なぜ離れたのか、自分でも分からなかった。
娘が、それを見ていた。
俺の手の中にあった黒い板を、じっと見ていた。
その目には、俺には読み取れない何かが浮かんでいた。悲しいとも、怖いとも違う。何かを諦めた顔に近かった。
俺は板を机に戻した。
◇
(――ここは、どこ)
私は、その板を見ていた。
電源ボタンは押した。何度も押した。あの人が来る前に、目が覚めてすぐに押した。
うんともすんとも言わなかった。
充電が切れているんだと思う。昨日の夜、おばあちゃんの家を出るときに三十パーセントくらいだった。そこから何時間経ったのかも分からない。
目の前の男の人は、私の荷物を一つずつ手に取って、しばらく眺めて、丁寧に机に戻していく。
乱暴なことはされていない。
された方が、まだ分かりやすかったかもしれない。
私はさっきから、何度も同じことを考えている。
これは撮影で、どこかにカメラがあって、誰かが「はい、おしまい」と言いに来る。そういう可能性を、必死で探している。
でも、無理だった。
空だ。
遺跡から出たとき、空を見た。夕焼けだった。ただの夕焼けだった。太陽が沈むところだった。
その太陽が、私の知っている位置になかった。
方角の話じゃない。大きさだ。ほんの少しだけ、大きかった。
そんなの気のせいだと思いたかった。思いたかったのに、目が離せなかった。
言葉も通じない。文字も違う。硬貨も違う。建物も違う。
だけど、そのどれよりも、あの夕日が怖かった。
昨日の夜のことを、順番に思い出そうとする。
おばあちゃんの家にいた。夕ご飯を食べて、散歩に出た。この時期は星がよく見えるから、と言われて、丘のほうに歩いた。
村のはずれに、大きな石が輪になって並んでいる場所がある。子どものころから知っている。何のためのものか、誰も知らない。
その先で、道を間違えた。
暗くて、街灯もなくて、来た道が分からなくなって、少し怖くなって。
空を見上げたら、星が――
そこから、記憶が飛んでいる。
思い出そうとすると、頭の芯のあたりが白くなる。
何かを言った気がする。声に出して、何かを。
でも、それが何だったのか、どうしても出てこない。
(おばあちゃん)
喉の奥がつまった。
泣くな、と自分に言い聞かせた。
この人の前で泣いたら、たぶん、もっとどうしようもなくなる。
◇
夜、娘は部屋の隅で膝を抱えていた。
俺の家は、町外れの一軒だ。土間と、部屋がひとつ。それだけ。寝台は一つしかないので、俺は床に毛布を敷いた。
娘は寝台を使えという身振りを理解して、しばらく固まった後、小さく頭を下げた。
頭を下げる作法があるらしい。
俺は湯を沸かして、椀に注いで渡した。娘は両手で受け取って、湯気を吸い込むように顔を近づけた。
その時、初めて、少しだけ表情が緩んだ。
パンを割って、干し肉を添えて出した。
娘は一度俺の顔を見て、それから小さく手を合わせた。
何か短い言葉を言ってから、食べ始めた。
食う前に唱える。
俺は椀を持つ手を止めた。
こちらにも似た習わしはある。神に礼を言う地方、竈に礼を言う地方。だから珍しくはない。
珍しくはないのだが――意味も分からない言葉を、体が覚えていて、勝手に口が動く。
その感じを、俺は知っている。
石段の前で、毎年やっていることだ。
黒い髪が、俯いた顔にかかっている。
――この国では、まず見ない色だ。
なぜか、また目が留まった。
理由は自分でも分からない。分からないので、俺は土間へ立った。
◇
湯を捨てて戻ると、娘が窓辺に立っていた。
窓は開いている。夜風が入っている。
娘は空を見上げていた。
最初は、外を見ているのだと思った。町の灯りでも数えているのだろうと。
だが、動かない。
あまりに動かないので、俺も窓辺に寄って、同じ方を見上げた。
星が出ていた。
いつもの星だ。今夜は雲がない。〈天秤〉が東に傾いて、その下に〈猟犬〉の三つ星が並んでいる。あと半月もすれば〈環〉が昇ってくる。子どもの頃に覚えた並びだ。
測量士は星を読む。方位を取り、季節を数え、緯度を出す。師匠には、寝る前に必ず一度は空を見ろと言われた。
いい星回りの晩だな、と思っただけだった。
星回りが良ければ魔法もよく効く。市場の粉屋が「今夜は仕込みに向く」と言うのも、そういう話だ。理由は誰も知らない。空が良ければ地上も良い。それだけのことだと、みんな思っている。
娘の顔を見た。
血の気が、完全に引いていた。
目だけが動いている。ひとつの星から、次の星へ。何かを探すように、何度も、何度も。
唇が震えていた。
そして、聞き取れないくらいの小さな声で、何か言った。
やはり、一語も分からなかった。
――ただ、それが「なんで」という響きに聞こえたことだけは、なぜか分かった。




