測る男
遺跡には、攻める者と測る者がいる。
攻める者は剣を持ち、宝を探し、名を上げる。酒場で武勇伝を語り、若い連中に酒をおごり、そして時々、帰ってこない。
測る者は杆を持ち、寸法を記し、図面を引く。語ることは何もない。その代わり、たいてい帰ってくる。
俺は後者だ。
◇
メルシアの朝は、鐘より先に荷車の音で始まる。
王都から見れば辺境も辺境、地図の端にちんまり載っているだけの町だ。それでも、遺跡が近いというだけで人は集まる。測量士ギルドの本部がここにあるのも、そういう理由だった。
俺が扉を押すと、受付のフェイラが顔も上げずに帳面をめくった。
「サルカド、定期。今年もあんたね」
「他に誰がいる」
「いないから訊いてるの」
彼女は書付に判を押し、こちらへ滑らせてくる。依頼票。日当二千レン、三日ぶん前払い。町でパンが一つ五レン、酒場の定食が二十から三十レン。宿が素泊まりで五十レン。悪くない、どころではない。
この日当は腕の値段だ。
このギルドには四つの階級がある。見習い、一般、熟練、特級。見習いが百レン、一般が三百、熟練で八百。そこから先が跳ね上がるのは、深い場所へ入れる人間が急に減るからだ。
特級は、この町に二人しかいない。もう一人は八十を超えていて、五年前から潜っていない。
「去年の崩落、まだ塞がったまま?」
「塞がったままだ。石をどける依頼が出れば別だが」
「出ないわねえ。誰も困ってないもの」
困っていないから直さない。この町はだいたいそれで回っている。
フェイラが顎で示した先、掲示板には依頼票が層になって貼られている。半分は冒険者向けだ。討伐、護衛、素材の採取。残りが俺たちの仕事――区画の再測量、崩落後の確認、新規の一次測量。
その隅に、若いのが三人ほど集まっていた。見習いの徽章をつけている。
「――だから、王都の書庫にあるんだって。誰も読めない本」
「公然の秘密ってやつだろ。俺の兄貴も言ってた」
「あれがあったから、みんな遺跡に潜り始めたって話だぞ。中身が分からないのに、あれは高価いもんだって、見りゃ分かったんだと」
俺は聞き流して通り過ぎた。
誰も読めない本が王都の禁書区画にある。建国のころ、逃げてきた連中が沈んだ家々を漁っていて掘り当てた。読めないが、明らかに只者の品ではない。だからあそこには値打ちのあるものが眠っている――そう思った人間が増えて、この商売が生まれた。
要するに、俺たちの飯の種の起源だ。子どもでも知っている。
知っているだけで、誰も本物を見たことがない。
「なあ、鉄狐って本当にいると思う?」
別の一人が話を変えた。俺は荷を担ぎ直す手を止めずに聞く。
「遺跡に棲んでる、ちっちゃい狐だろ。見たやつは金持ちになるってやつ」
「見たって言い張る爺さんなら、うちの村にいたぞ。金持ちにはなってなかったけど」
三人が笑った。
守り神の使いだの、無事に帰してくれるだのと、遺跡には縁起の話が山ほどある。石段の一段目を右足で踏めだの、図面を裏返しに置くなだの。
俺も一つ持っている。人には言わない。
◇
町を出て、街道を東へ。
半日と少し歩くと、草の高さが変わる。
地面の下に石があると、草は伸びきらない。だから知っている者には一目で分かる。ここから先が旧市街だ。
なだらかな野原に、崩れた石組みが点々と顔を出している。ひとつ、またひとつ。丈の低い草の下に、四角い輪郭が沈んでいる。
家だ。
ずっと昔、ここには町があった。いつの町かは誰も知らない。分かっているのは、それが尋常な町ではなかったということだけだ。
石組みの一つに寄ってみる。階段が三段、下へ続いて、そこで土に埋もれている。掘れば部屋が二つか三つ。それで終わりだ。子どもでも一日で測れる。
もう少し先の、大きめの一つ。こちらは階段が長い。降りれば六部屋、下に一層。一般の測量士が二日かけて図面にする程度の規模だ。
浅い一つに、先客がいた。
若い二人組が、掘り出した階段の脇に縄を張って、片方が野帳を構えている。見習いの徽章。もう一人が縄の端を持って、歩幅を数えているのが遠目にも分かった。
俺に気づいた方が、慌てて背筋を伸ばした。
「あっ。……お、お疲れさまです」
もう一人も、つられて頭を下げる。手が止まっている。縄が緩んでいる。
「縄が撓んでる」
「えっ、あ、すみません!」
慌てて張り直した。俺は頷いて、そのまま通り過ぎた。
背中で、小さく囁く声が聞こえた。
「……今の、特級だぞ」
「サルカドの?」
「サルカドの」
悪い気はしない。そこは正直に認める。
ただ、こういう時に立ち止まって助言などしてしまうと、その日のうちに町中に「あの人は話しかけやすい」と広まる。それは困る。
偉い者の家ほど、深かった。
そういう言い伝えがある。根拠はない。ただ、掘れば掘るほどその通りになるので、誰も疑わなくなった。身分が高ければ広い家に住む。それはどの時代でも同じだ。
なら、この野原で一番深い家に住んでいたのは誰か。
俺は野原を突っ切って歩く。
その一番深い家の入口が、丘の陰に口を開けている。
誰が呼び始めたのか、サルカドと言う。
土地の古い呼び名がなまったのだろう、というのが通説だ。それ以上を気にする者はいない。町の連中には「あの遺跡」で通じる。それで足りている。
◇
俺の家は代々、ここの定期測量を請け負ってきた。
理由は知らない。昔からの客だ、と親父は言っていた。証文が残っているわけでもない。ただ、季節がひと巡りするたびに誰かが降りて、崩れた場所を測り、図面を直す。それが百年以上続いている。
ギルドの書庫には、その百年ぶんが綴じてある。
紙の色が層になっていて、めくるたびに筆跡が変わる。几帳面な字、雑な字、線の細い字。会ったこともない誰かが、俺と同じ場所に杆を立てて、同じ数字を書いている。
一枚だけ、俺は親父の字を知っている。角の丸い、妙に子どもっぽい書き癖だ。
その次の年が、抜けている。
誰も測りに来なかった年が、一年だけある。理由は書いていない。ギルドの記録にも「欠」とだけある。
その次の年からは、師匠の字になる。
俺を引き取った、遠縁の爺さんの字だ。もう十年前に死んだ。
◇
石段の前で荷を下ろした。
測量杆の石突きを地面に当て、革を巻いた握りに手をかける。鉄の柄はとうに俺の手の形に馴染んでいて、握った瞬間に指の位置が決まる。師匠が使っていた頃からの傷が、ちょうど親指の腹に当たる。
柄には短い銘が刻んである。
読めない。師匠も読めなかった。どこかの職人の癖字だろうと言っていたが、たぶん違う。文字にしては規則が整いすぎている。同じ形が、決まった間隔で繰り返されている。癖字はそういうふうにはならない。
先端の球体を軽く回して外し、掌に載せた。
硝子玉の中に真鍮の輪が三重に組まれていて、その中心に細い針が浮いている。掌を傾けても、輪と針だけは水平と北を保つ。師匠はこれを「星見の玉」と呼んでいた。夜には星の高さを測り、昼には方位を取る。どちらも測量士の基本だ。
――もっとも、ここまで手の込んだ玉を持っている測量士を、俺は他に見たことがない。
針が落ち着くのを待って、方位を控える。球体を杆に戻し、締めた。
石段の一段目、右寄りが窪んでいる。
人が立ち止まる場所は決まっている。百年ぶんの誰かが、ここで同じように荷を下ろして、同じように空を見上げたのだろう。
その窪みに足を置いて、俺は口の中で短く唱える。
――シャルカディ・オム・ネイア。
意味は知らない。
親父が唱えていて、その親父も意味を知らなかった。危ない場所に入る前に唱えろ、とだけ言われた。まじないの類だ。効き目があると思ったことは一度もない。
それでも、唱えないと収まりが悪い。
◇
浅層は、退屈なくらい安全だ。
左手に野帳、右手に杆。歩きながら、歩数を数える。
俺の一歩は二尺三寸。十年かけて、そうなるように歩き方を固めた。歩幅が揃わない測量士は、どれだけ目がよくても使い物にならない。数を数え、腰の高さを保ち、疲れても崩さない。それだけのことに、若い連中の大半が音を上げる。
野帳には記号で書く。丸に線が崩落、三角が段差、二重丸が水。文字で書いていたら日が暮れる。
三十歩ごとに立ち止まり、杆を立てて天井高を測る。八尺二寸。
控える。次の区画で、また八尺二寸。
当たり前だ。遺跡は動かない。
動かないものを毎年測る意味があるのか、と若い頃は思った。今は思わない。動かないはずのものが動いていた時、それが分かる。それだけのために百年ぶんの紙がある。
通路幅、四尺五寸。
……この寸法も、前回と同じ。
筆が止まった。いや、当たり前だ。何を確かめている。
自分の手癖に苦笑して、先へ進む。
壁に触れる。
入口の近くは、石を積んである。継ぎ目に指がかかる。苔が生え、水が滲み、ところどころ崩れて積み直した跡がある。ふつうの、古い建物の壁だ。
だが、奥へ行くほど目地が細くなる。
石が大きくなるのではない。石と石の隙間そのものが、詰まっていく。
これも毎年書いている。三十年前の図面にも、四十年前の図面にも、同じことを書いた誰かがいる。書いてあるだけで、誰も理由を書いていない。
書けなかったのだろう。俺も書けない。
◇
突き当たりの広間で、荷を下ろした。
昼を食う。硬い黒パンと干し肉、それだけだ。革袋の水で流し込む。遺跡の中で火を使う測量士はいない。煙は上へ行く。上に何がいるか分からない場所で、自分の居場所を知らせる理由はない。
壁に背を預けて、天井を見上げた。
静かだった。
外の音は届かない。風も入らない。自分の呼吸と、時々どこかで落ちる水滴の音だけがある。
この静けさが嫌いではない。
町にいると、誰かが必ず何かを訊いてくる。あんたどこの出だ、家族はいるのか、なぜ結婚しない。悪気があるわけではない。答えたくないだけだ。
ここでは誰も何も訊かない。数字だけがある。数字は嘘をつかないし、こちらの素性も訊いてこない。
――どこかで、小さく金属が鳴るような音がした。
顔を上げる。灯りを向ける。何もいない。
鉄狐、と一瞬だけ頭をよぎって、自分で呆れた。三十四にもなって、ギルドで小僧が話していたことを引きずっている。
水滴の音だ。そう決めて、俺は立ち上がった。
◇
三つ目の曲がり角で、足を止めた。
床に浅い引っかき傷がある。三本。指の間隔から見て、大型ではない。傷の縁がまだ白い。古いものじゃない。
膝をついて、匂いを嗅ぐ。獣の臭みに、鉄気が混じっている。
岩鼬だ。
石の割れ目に巣を作る。胴は犬ほどだが、前肢の爪が異様に長く、石を掻いて穴を広げる。人を襲うというより、通り道にいるものを片付ける習性がある。動きが速い。狭い通路では、避ける場所がない。
灯りを絞った。
杆を持ち替える。石突きを前に、握りを腰の高さに。槍のように――と言うと聞こえがいいが、実際はただ、細長い鉄の棒を構えているだけだ。武器ではない。仕事道具だ。
息を殺して、待つ。
傷を目で追う。三本の筋が、通路の奥へ向かって続いている。戻ってきた跡はない。奥にいる。
鼓動が耳の内側で鳴っている。それを数えて、落ち着かせる。
通路の奥で、何かが身じろぎする音がした。爪が石を掻く音。長く、ゆっくり。それきり動かない。
――寝ている。
腹が満ちているのだろう。だから傷が新しい。何かを食った後だ。
起こさなければ、それでいい。
俺は爪先から重心を移して、後ろへ下がった。
迂回すれば半刻余計にかかる。それだけの話だ。冒険者なら踏み込むだろう。斃せば素材が金になるし、酒場で話せる。
俺の場合、斃しても図面は一寸も埋まらない。
迂回路を測りながら、頭の中で図面を組み立てていく。
紙に引くのは町へ帰ってからだ。歩きながら数字を積み、頭の中で線を引く。曲がり角の角度、傾斜、段差の高さ。特級の測量士は一度潜った遺跡なら目をつぶって歩ける、とギルドの連中は言う。
半分は本当だ。もう半分は、そう思われていた方が仕事が来る。
◇
迂回路の途中で、俺は壁に手を当てた。
ここから先は、爪が入らない。
石は積んである。継ぎ目は、目を近づければ確かに見える。だが指では拾えない。刃物の刃を当てても、たぶん入らないだろう。
図面には、この境目に線が引いてある。
俺が引いたのではない。親父の字だ。角の丸い書き癖で、線の脇にこう添えてある。
――〈此ヨリ奥、目地一分未満〉
それだけだ。理由も、考えも書いていない。ただ、境目がどこかを測って、線を引いてある。
俺は毎年、その線が正しいかどうかを確かめている。
正しい。ずれていない。
毎年ずれていないことを確かめて、毎年同じ言葉を書き足すだけだ。〈相違無シ〉。それを二十年やっている。
二十年やって、一度も、なぜかを書いた者はいない。
測量士は理由を書かない。書くのは寸法だけだ。理由を書き始めたら、それはもう図面ではなくなる。
――そう教わった。
だが時々思う。
百年ぶんの誰かが、みんなここで手を止めて、同じことを考えたんじゃないか。考えて、書かないことにしたんじゃないか。
俺は手を離し、歩き出した。
◇
図面を埋め終えたのは、外がもう夕方だろうという頃だった。
荷をまとめ、石段へ向かう。
最後に一つ、崩落で塞がった脇道を確かめておこうと足を向けた。
去年の落石でこの先は通れない。天井が抜け、瓦礫が通路を胸の高さまで埋めている。図面には「不通」と朱を入れてある。
念のためだ。念のために見る。それが仕事だ。
瓦礫の手前に、人が倒れていた。
俺は動きを止めた。
小柄だ。俯せに、片腕を投げ出すようにして倒れている。息はある。肩がゆっくり上下している。
髪が黒い。
――この国では、まず見ない色だ。
なぜか、その一点に目が留まった。理由は自分でも分からない。
服は見たことのない仕立てだった。染めの色が均一すぎる。糸の目が細かすぎる。縫い目に至っては、指でなぞっても山が立たない。どこの工房だ、これは。
足元に、布の鞄がひとつ落ちている。
俺は膝をついた。
まず首筋に指を当てる。脈はある。速いが、乱れてはいない。肌は冷えているが、凍えるほどではない。
手足を見る。折れてはいない。血も出ていない。掌に細かい擦り傷が二つ、それだけだ。転んで手をついた程度の傷でしかない。
妙だ。
崩落に巻き込まれたのなら、こんな綺麗な倒れ方はしない。かといって、自分の足でここまで来て力尽きたのなら、もっと汚れている。靴を見た。
――底が減っていない。
新しい靴、ということではない。踵の潰れ方からして、それなりに履き込んである。だが、この遺跡の砂と埃がついていない。石段を降りてきた人間の靴ではなかった。
声をかけようとして、やめた。
顔を上げ、通路を見る。
瓦礫。天井から落ちた石。その向こうは去年から塞がっている。上に抜ける穴もない。
振り返る。俺が降りてきた石段。すれ違ってはいない。降りる前に杆を立てて方位を取る間、あの石段はずっと俺の視界の中にあった。
この区画に、入口はもうない。
「……どこから入った?」
答える者はいなかった。




