紋章
メルシアに戻って二日目、男が訪ねてきた。
市場の裏の路地で、俺の肩を叩いた。
「測量士のハルトさん」
小柄で、目が細い。四十くらい。外套の下に、荷を吊るしている。
行商人の格好だが、荷が軽すぎる。
「誰だ」
「ゼルと言います」
男は笑った。
「物を売る仕事じゃない。話を売る仕事です」
――情報屋か。
この町にもいるとは知っていた。会ったのは初めてだ。
「買わん」
「まだ値も言ってませんよ」
「値を聞いたら買うことになる」
俺は歩き出した。
ゼルは、ついてきた。
「王家の紋章の話です」
足が止まった。
止めたくなかった。止まってしまった。
ゼルは、それを見ていた。
「……三百レンで」
◇
安酒場の隅で、俺は椀を二つ頼んだ。
ゼルは礼を言って、半分飲んでから話し始めた。
「町に、よそ者が来てる。ご存知でしょう」
「聞いてる」
「あれ、王家の生き残りを探してる、って噂が立ってますね」
「立ってる」
「その噂、半分は本当で、半分は違います」
ゼルは椀を置いた。
「あの連中が探してるのは、人じゃない」
「――何を」
「紋章です」
俺は、椀を持つ手を止めた。
「正確には、紋章の彫られた石。あるいは物」
ゼルは指を組んだ。
「三月前から、あちこちで訊いて回ってる。古物商、遺跡帰りの冒険者、村の年寄り。『こういう彫りのある物を見たことがないか』と」
「見せて回ってるのか」
「絵を持ち歩いてます」
俺は、口の中が乾くのを感じた。
「その絵を、あんたは見たのか」
「見ましたよ」
ゼルは笑った。
「そのために近づいたんですから」
彼は懐から、小さな紙を出した。
卓の上に置いて、こちらへ滑らせる。
「写しです。値のうちに入ってます」
俺は紙を開いた。
◇
同心円。
中心から、枝分かれする線。
――同じだ。
俺は、紙を持つ手が動かなくなった。
カラン村の床。
狐の背中。
サルカドの壁の上。
ヌイ村の、基礎の角の石。
そして、この紙。
「ご存知の顔ですね」
ゼルが言った。
俺は紙から目を上げた。
「知らん」
「そうですか」
男は、それ以上追及しなかった。
追及しないところが、逆に嫌だった。
「これが王家の紋章だと、誰が言ってる」
「あの連中が、そう言って回ってます」
「根拠は」
「知りません。訊いたら『古い記録にある』と」
ゼルは肩をすくめた。
「まあ、この手の話に根拠を求めても仕方がない。大事なのは、あの連中がこれを探してるという事実です」
「――なぜ探す」
「そこが面白いところで」
ゼルは声を落とした。
「あれ、宝探しじゃないんですよ」
俺は男を見た。
「宝探しなら、金の話が出る。『見つけたら分け前を』とか、『買い取る』とか。あの連中は一度も金の話をしない」
「では、何を」
「場所です」
ゼルは指で卓を叩いた。
「『どこで見たか』しか訊かない。物そのものは要らないらしい」
俺は、その意味を考えた。
――地図を作っている。
この模様がどこにあるか。それを集めて、並べている。
俺と、同じことをしている。
俺は野帳の中に、四つの点を持っている。
サルカド。カラン。ヌイ村。それに、狐。
あの連中は、何点持っている。
◇
「もう一つ、おまけを」
ゼルは椀を空にした。
「あの連中、揃いの外套を着てます」
「見た」
「あれ、王都の学士院じゃありません。軍でもない。商会でもない」
「じゃあ何だ」
「分かりません」
男はあっさり言った。
「分からない、というのが答えです。この国の組織で、揃いを着るところは全部知ってる。あれはどれでもない」
彼は立ち上がった。
「どこにも属してないのに、揃いを着てる。……そういう連中を、俺は一度だけ見たことがあります」
「どこで」
「王都です。二十年前」
ゼルは外套の前を合わせた。
「その時も、古い彫り物を探してました」
俺は顔を上げた。
「二十年前」
「ええ。あの時は、南のほうを回ってた」
男は、思い出すように天井を見た。
「――ヌイ村とか、あのあたりでしたかね」
◇
俺は、しばらく動けなかった。
ゼルは扉のところで振り返った。
「ハルトさん」
「……なんだ」
「三百レン、確かに」
彼は銅貨を掌で鳴らした。
「一つ、ただで言っておきます」
「なんだ」
「あの連中、昨日から、あんたの家の通りを歩いてます」
俺は椅子から立ち上がった。
「いつからだ」
「昨日の夕方から。日に二度」
ゼルは笑った。
「何もしませんよ、まだ。ただ、歩いてるだけです」
「なぜ、それを俺に」
「商売ですから」
男は肩をすくめた。
「今日ただで教えたぶん、次に何か訊きたくなったら、俺のところに来る。……そういう仕組みです」
彼は扉に手をかけて、そこで少し考える顔をした。
「……いや。正直に言いましょうか」
「言え」
「あんた、俺の兄貴分の恩人なんですよ」
俺は眉を寄せた。
「知らんぞ」
「知らんでしょうね。四年前、東の坑で崩落があった」
男は言った。
「あの時、あんたが図面を出した。どこが抜けてて、どこなら掘れるかを、半刻で書いたそうです」
――覚えている。
ギルドに呼ばれて、鉱山の古図から抜けた区画を割り出した。あれは仕事だった。金ももらった。
「三人、生きて出ました。うちの一人が、俺の兄貴分です」
ゼルは肩をすくめた。
「あんたは覚えてないでしょう。当たり前だ、仕事ですから」
「――覚えてない」
「そういうもんですよ」
彼は笑った。
「だから今日は、おまけを多めにつけました。次からは金を取ります」
「商売人だな」
「商売人です。恩は、返せるうちに返しておく」
ゼルは扉を開けた。
「ああ、それと」
最後に、こう言った。
「助手のお嬢さん。髪が目立ちます」
俺は動きを止めた。
「この国じゃ珍しい色だ。……人を探してる連中にとっては、覚えやすい」
ゼルは出ていった。
◇
俺は、酒場を出て、まっすぐ家へ帰った。
途中、二度、後ろを見た。
誰もいなかった。
家の戸を開けると、マリが竈の前にいた。
振り返って、俺の顔を見て――彼女は火から手を離した。
「ハルト」
「マリ」
俺は戸を閉めた。
閂を落とした。
「――話しておきたいことがある」
言った。
言ってから、自分の声が思ったより落ち着いていることに、少し驚いた。
◇
落ち着いていた理由は、たぶん一つだ。
もう、迷っていないからだ。
ヌイ村へ行くまで、俺は迷っていた。
調べるか、調べないか。話すか、話さないか。
基礎の角の石を見て、それが終わった。
――俺の親父は、あの模様を知っていた。
知っていて、家の角に据えた。
二十四年、俺はそれを知らずに生きて、今日、他人から絵を買った。
三百レンで。
自分の家の紋章を、三百レンで買った。
――間抜けにも程がある。
その間抜けさが、かえって腹をくくらせた。
これ以上、知らないままでいるのは、金の無駄だ。
俺は、そう思うことにした。
情けない理屈だが、動く理由としては十分だった。
◇
卓に、ゼルから買った紙を置いた。
マリが、それを覗き込んだ。
覗き込んで――彼女の顔が、変わった。
「ハルト」
「見たな」
「みた」
彼女は紙を指した。
「カラン。ゆか」
「そうだ」
「きつね。せなか」
「そうだ」
「かべ。あいた、ところ」
「――そうだ」
三つとも、この娘は覚えていた。
俺が野帳に書いたから覚えている、のではない。
この娘は野帳を読めない。
自分の目で見て、覚えていた。
「よっつ、め、ある」
俺は顔を上げた。
「ヌイ村だ」
俺は言った。
「俺が生まれた家の、基礎の角」
マリは、しばらく紙を見ていた。
それから、静かに言った。
「……ハルトの、いえに、あった」
「あった」
彼女は、紙から目を離さずに続けた。
「じゃあ、あのひとたち」
「ああ」
「ハルトの、いえ、さがしてる」




