焼けた家
その晩、俺たちは村の空き家に泊まらせてもらった。
婆さんが「使え」と言ったのだ。屋根はあるが、床が半分抜けている。
火を焚いて、干し肉を炙った。
「ハルト」
マリが、火を挟んで座っていた。
「かじ、って、なに」
「――家が燃えることだ」
「もえる」
「そうだ」
彼女は、しばらく火を見ていた。
「おかあさん、おとうさん、それで」
「らしい」
「らしい?」
「俺は覚えてない」
俺は肉を裏返した。
「十だった。走ったことしか覚えてない」
マリは頷いた。
それから、こう訊いた。
「だれか、たすけた?」
俺は手を止めた。
――そうだ。
誰かが、俺の手を引いた。
燃えている家から、俺だけが出てきたなら、誰かが出したということだ。
十の子どもが、自分で判断して逃げるとは限らない。
「……分からん」
「わからない」
「だが、たぶん、いた」
俺は火を見た。
「師匠じゃない。あの人は、俺を引き取ったのは翌年だと言っていた」
「よくとし」
「一年、俺はどこかにいたことになる」
言ってから、自分でぞっとした。
二十四年、考えたことがなかった。
十歳の一年。どこで、誰と、どうやって暮らしていたのか。
思い出せない。
思い出せないことを、俺は今日まで一度も不思議に思わなかった。
◇
(――それ、変だ)
私は、火を見ながら考えていた。
十歳って、けっこう覚えてる年齢だ。
私は十歳の時の担任の先生の名前も、給食の嫌いなメニューも覚えてる。
一年まるごと抜けるって、普通じゃない。
病気か、怪我か、それとも――
私は、そこで考えるのをやめた。
やめたのは、その先が、たぶんこの人にとって良くない話だからだ。
代わりに、私は別のことを訊いた。
「ハルト」
「なんだ」
「おかあさん、かみのけ」
彼が、こっちを見た。
「くろ?」
しばらく間があった。
「――黒だ」
「そう」
私は頷いた。
あの日、地面の下で、この人は絵を描いた。
塚を二つ描いて、その横に人を一人描いて、髪を黒く塗った。
あの時から、ずっと引っかかっていた。
この国では、黒い髪はほとんど見ない。
三か月歩き回って、私は一人も見なかった。市場でも、村でも、街道でも。
私だけだ。
――だから、拾ったんだ。
そう思ってしまって、私は少し嫌な気持ちになった。
嫌な気持ちの理由が、自分でも分からなかった。
◇
翌朝、俺は焼けた家の跡を見に行った。
場所は、婆さんが教えてくれた。
村の端の、小さな平地だ。
二十四年経って、そこにはもう何もなかった。草が生えて、石が転がっているだけだ。
俺は、しばらくそこに立っていた。
――測るか。
思いついて、自分で少し笑った。
俺にできることは、それしかない。
俺は杆を立てた。
石の並びを見る。基礎の跡だ。四角い。
歩数を数える。縦、八歩。横、六歩。
――狭い。
思っていたより、ずっと狭い。
この中に、三人で住んでいた。
俺は基礎の外周を回った。
回りながら、寸法を野帳に落とした。
なぜ書いているのか、自分でも分からない。
書かずにいられなかった。
◇
北側の角で、俺は手を止めた。
石が、他と違う。
基礎の石は、そこらの川原の石を積んだものだ。丸くて、大きさもばらばら。
だが、北の角に一つだけ、四角い石がある。
角が立っている。面が平らだ。
――切った石だ。
俺はしゃがんで、土を払った。
石の上面に、彫りがあった。
薄い。ほとんど消えかけている。
俺は指でなぞった。
――円。
同心円だ。
そこから、線が枝分かれしている。
◇
俺は、動けなかった。
カラン村の、地下の部屋の床。
狐の背中。
サルカドの、開いた壁の上。
そして――ここ。
俺が生まれた家の、基礎の石。
「ハルト」
マリの声がした。
いつの間にか、隣に立っていた。
彼女も、その石を見ていた。
「……おなじ」
「同じだ」
俺は立ち上がった。
立ち上がって、周りを見た。
村。丘。斜面の墓。
ここは、遺跡ではない。
ただの村だ。この石も、たぶん、どこかの遺跡から運んできたものだろう。
この辺の家は、遺跡の石をよく使う。切ってあるから、積みやすい。
――そう説明できる。
説明できるが、俺の親父は行商だった。
古いものを買い集めて、王都へ売りに行っていた。
遺跡に入っていた。
その男が、自分の家の基礎に、この石を使った。
角に。
一つだけ。
偶然、と言い切れるか。
俺は野帳を開いた。
開いて、書こうとして、手が止まった。
書けば、残る。
残れば、いつか誰かが読む。
――誰かが。
俺は、その言葉を頭の中で繰り返した。
書庫の百年ぶんの図面。
余白に同じ模様が描いてある、古い綴り。
名前のない依頼者。
全部、繋がっているかもしれない。
俺は、野帳を閉じた。
閉じてから、開き直して、書いた。
〈ヌイ村。旧宅基礎、北角。切石一。模様アリ。カラン床・狐背ト同ジ〉
書いた。
二十年で初めて、俺は理由の分からないものを、理由が分からないまま書いた。
――誰かが読む。
その誰かが、俺でなくてもいい。
◇
村を出る時、マリが訊いた。
「ハルト、かいた?」
「書いた」
「まえは、かかなかった」
「そうだな」
俺は馬車の荷台に杆を乗せた。
「書くことにした」
「なんで」
俺は、少し考えた。
考えて、正直に答えた。
「――分からんことを、分からんまま置いておくのが、そろそろ怖くなった」
マリは、しばらく俺を見ていた。
それから、頷いた。
「わたしも」
彼女は、そう言って、荷台に上がった。
◇
馬車が動き出してから、マリが訊いた。
「ハルト」
「なんだ」
「かじ、へん、って、ばあさん、いった」
「言ったな」
「なにが、へん」
「――火の始末がいい家だった、と」
俺は荷台の枠にもたれた。
「うちは、遺跡に入る家だった。今日それが分かった」
「うん」
「遺跡に入る人間は、火に厳しい」
俺は言った。
「灯りが消えたら死ぬ。油をこぼしたら死ぬ。だから、火の扱いだけは、絶対に雑にならない」
マリが、目を細めた。
「じゃあ」
「――ああ」
俺は、空を見た。
「その家が、夜に燃えた」
言葉にすると、はっきりした。
二十四年、俺は「火事だった」という一言で、それを終わりにしていた。
終わりにしていたのは、それ以上考えても仕方がないと思っていたからだ。
仕方がない、と思うことにしていた。
「ハルト」
「なんだ」
「しらべる?」
俺は、しばらく答えなかった。
「――分からん」
正直に言った。
「調べたら、たぶん、戻れない」
「もどれない」
「今の暮らしにだ」
俺は膝の杆を見た。
「測って、金をもらって、静かに暮らす。それが二十年の全部だ。……悪くなかった」
「わるくない」
「悪くない」
俺は、そこで少し笑った。
「悪くないんだが」
言葉が、途中で止まった。
止まった続きを、俺はまだ言えなかった。
――悪くない暮らしを、誰かが金を払って守ってくれていた。
その誰かが、俺には見えない。
見えないものの上に、二十年、平気で立っていた。
◇
馬車の揺れの中で、マリが眠った。
俺は、彼女の荷を膝に寄せてやった。
寄せてから、しばらくその寝顔を見ていた。
――幼く見える。
初めて会った日、俺は十三、四だと思った。フェイラもそう言った。
三月経って、まだ十三、四に見える。
だが、この娘は五十六件の記録を三日で写した。
周期を見つけた。地図を歩幅で描いた。
十三、四の子どもがやることではない。
いつか、訊かなければならない。
――訊けば、答えるだろうか。
この娘には、まだ言えないことがある。本人がそう言った。
俺にもある。
俺たちは、お互いに一つずつ抱えたまま、同じ荷台に乗っている。
馬車が石を踏んで、大きく揺れた。
マリが少しだけ身じろぎして、また眠った。
俺は空を見上げた。
昼の空だ。星は見えない。
見えないのに、俺はいつもの方向を目で追っていた。




