ヌイ村へ
三日、俺たちはほとんど口をきかなかった。
仕事はした。
縄は張られたし、灯りの位置もずれなかった。
ずれないことが、いっそう悪かった。
この娘は、腹を立てていても仕事の手を抜かない。
抜かないから、こちらは謝る糸口を掴めない。
◇
四日目の朝、俺は荷を作っていた。
マリが土間から見ていた。
「しごと?」
「いや」
俺は縄を袋に入れた。
「ヌイ村へ行く」
「ヌイ」
「北へ、馬車で一日半だ」
彼女は、しばらく黙っていた。
「しごと、ない」
「仕事じゃない」
「じゃあ、なに」
俺は手を止めた。
止めて、それから、正面を向いた。
「――俺が生まれた村だ」
マリの目が、少し開いた。
「墓がある」
俺は言った。
「親の墓だ。二十四年、行ってない」
彼女は、何も言わなかった。
「一緒に来い、とは言わん」
俺は荷を担いだ。
「だが、来てもいい」
◇
馬車に乗るまで、彼女は何も言わなかった。
乗ってからも、しばらく黙っていた。
半日ほど過ぎて、窓の外の景色が丘に変わった頃、マリが口を開いた。
「ハルト」
「なんだ」
「なんで、いく」
俺は、少し考えた。
嘘をつかない答えを、探した。
「――何かを思い出したいわけじゃない」
「うん」
「思い出せるほど、覚えてない。十だった」
俺は膝の上の杆を見た。
「ただ、この三月、自分の家のことばかり考えてる」
「うん」
「考えてるのに、俺は何も知らん」
俺は正直に言った。
「親父の名前は知ってる。母の名前も知ってる。それだけだ」
「なまえだけ」
「墓に行けば、少なくとも石はある」
マリは頷いた。
「いしは、なにも、いわない」
「言わないな」
「でも、ある」
「ある」
彼女は、そこで少しだけ笑った。
四日ぶりだった。
◇
ヌイ村は、思っていたより小さかった。
家が二十軒あるかどうか。丘の中腹に、へばりつくように並んでいる。
覚えていない。
二十四年ぶりに来て、まったく覚えていなかった。
――いや。
井戸の位置だけ、覚えていた。
村の入口から、右に折れて、坂を少し下ったところ。
俺は何も考えずにそこへ歩いて、井戸の前で立ち止まった。
「――ここだ」
「なにが」
「井戸だ」
俺は縁石に手を置いた。
「ここで、水を汲まされた。桶が重くて、半分こぼした」
言葉が、勝手に出てきた。
「怒られなかった。母が笑って、また汲みに行けと言った」
俺は、手を離した。
それだけだった。
思い出したのは、それだけだ。
母の顔は、出てこなかった。
◇
墓は、村の裏手の斜面にあった。
石が二つ。
どちらも小さい。名前が彫ってあるが、風化して半分読めない。
周りに草が生えている。刈られた跡はない。
俺はしゃがんで、草を抜いた。
マリも、隣にしゃがんで、抜き始めた。
二人で、しばらく無言で草を抜いた。
石が見えるまで、四半刻かかった。
◇
俺は、石の前に座った。
何を言えばいいのか、分からなかった。
祈る習慣がない。
この国には、死者に語りかける作法がある。俺は教わっていない。教わる前に、教える人間がいなくなった。
結局、俺は口の中で、いつものやつを唱えた。
――シャルカディ・オム・ネイア。
言ってから、自分でおかしくなった。
遺跡に入る前のまじないだ。墓の前で唱えるものではない。
だが、俺が親父から受け取ったのは、これしかない。
これしか、受け取っていない。
俺はしばらく、そのまま座っていた。
◇
村の年寄りに、話を聞いた。
俺のことを覚えている者は、一人だけいた。
八十近い婆さんで、耳が遠い。
「ああ、あの家か」
彼女は言った。
「よそから来た夫婦だったねえ。ここに五年ばかりいた」
「五年」
「そのくらいだ。子が一人いた。……あんたかい」
「そうです」
婆さんは、俺の顔をしげしげと見た。
「似とるね。母親に」
俺は、その一言で、少し息が詰まった。
「何をしていた家ですか」
「行商だったよ。古いもんを買い集めて、王都のほうへ売りに行っとった」
――遺跡の物か。
俺は訊いた。
「遺跡に入っていましたか」
「入っとったろうね。壺だの、金具だの、そういうもんを持って帰っとった」
婆さんは肩をすくめた。
「珍しくもない。この辺じゃ、みんなやる」
「亡くなった時のことは」
婆さんの顔が、少し曇った。
「――火事だった、と聞いとる」
「火事」
「わしは見とらん。夜だったからね。朝には焼けとった」
彼女は首を振った。
「変だと言う者もおったよ。あの家は火の始末がいい家だったから」
俺は、動かなかった。
「あんた、どうやって助かったんだい」
「――覚えていません」
それは、本当だった。
覚えているのは、走ったことだけだ。
誰かに手を引かれて、暗い中を走った。
その手が誰のものだったかも、覚えていない。
◇
婆さんの家を出ると、日が傾いていた。
マリが、少し離れたところで待っていた。
俺が近づくと、彼女は何も訊かずに歩き出そうとした。
「マリ」
俺は呼び止めた。
「うん」
彼女は振り返った。
俺は、しばらく言葉を探した。
探して、見つからなかったので、そのまま言った。
「――この前は、悪かった」
マリの目が、少し開いた。
「お前が悪いんじゃない」
俺は続けた。
「危ないと思ったのは本当だ。だが、あの言い方は違った」
「……うん」
「言えない理由がある」
俺は言った。
「話せば、お前を巻き込む。だから話さないと決めた。決めたのは俺だ」
風が吹いて、斜面の草が鳴った。
「――だが」
俺は、そこで一度、言葉に詰まった。
「まだ、うまく言葉にできないだけだ」
言った。
言ってから、自分でも、ずいぶん情けない言い訳だと思った。
マリは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「それで、いい」
「いいのか」
「いい」
彼女は頷いた。
「『かんけいない』は、いや。『まだ、いえない』は、いい」
俺は、その違いを、少し考えた。
考えて、なるほどと思った。
関係ない、は終わりの言葉だ。
まだ言えない、は途中の言葉だ。
「――覚えておく」
「おぼえて」
マリは、そこで初めて笑った。
ちゃんと笑った。
「わたしも、ある」
「何が」
「まだ、いえないこと」
彼女は、そう言って、先に歩き出した。
俺は、その背中をしばらく見ていた。
◇
斜面を降りながら、俺は考えていた。
――言い直すのに、四日かかった。
四日だ。
一言、言い方が悪かったと言えば済む話に、四日。
その四日、俺は仕事をして、飯を食って、寝た。普通に暮らした。
普通に暮らしながら、ずっと引っかかっていた。
引っかかったまま何もしなかったのは、言い直す機会がなかったからではない。
機会は毎日あった。朝も、昼も、夜も、同じ部屋にいた。
――怖かったのだ。
言い直せば、話が続く。
続けば、いつか核心に行き着く。
だから黙って、四日置いた。
置いた四日で、何が良くなったか。
何も良くならなかった。
俺は坂の途中で、少し立ち止まった。
――親父も、こうだったんだろうか。
うちは昔、王の家だった、と言って、俺に笑われて、それきり黙った。
あの人も、言い直す機会は毎日あったはずだ。
言い直さないまま、死んだ。
俺は歩き出した。
同じにはなりたくない、と初めて思った。
◇
村の入口で、マリが立ち止まった。
「ハルト」
「なんだ」
「ここ、うまれた、ところ」
「そうだ」
彼女は、村を見回した。
二十軒。畑。井戸。斜面。
「ちいさい」
「小さいな」
「メルシアより、ずっと」
「そうだ」
マリは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「わたしの、おばあちゃんの、むらも、ちいさい」
俺は横を見た。
「いえ、さんじゅうけん、くらい」
彼女は指で数える仕草をした。
「みせ、ひとつ。がっこう、ない。こども、いない」
「――子どもがいないのか」
「いない。みんな、まちに、いく」
マリは笑った。
少し寂しい笑い方だった。
「おばあちゃん、ひとり」
俺は、その言葉の重さを、しばらく考えた。
「――寂しくないのか、と訊いたことは」
「ある」
「なんて」
「『さびしくない』って」
マリは肩をすくめた。
「うそ」
「嘘だな」
「うそ」
彼女は頷いて、それから前を向いた。
「みんな、うそ、つく。やさしい、うそ」
俺は、何も言わなかった。
言わなかったが、その一言は、しばらく耳に残った。




