関係ない
それから四日、何も起きなかった。
何も起きないのが、一番きつい。
俺は短い仕事を選び続けた。マリは何も言わなくなった。
言わなくなったのは、納得したからではない。
言っても変わらないと分かったからだ。
◇
五日目の夜だった。
マリが、自分の帳面を持って卓に来た。
「ハルト」
「なんだ」
「これ、みて」
開かれた頁に、文字が並んでいた。
この国の文字だ。彼女が書いたにしては、形が整っている。
「――写したのか」
「うつした」
彼女は頷いた。
「きょう、まちで、きいた。ひとが、はなしてた。おなじ、ことば、なんかい、でた」
俺は文字を見た。
写しは正確だった。彼女は意味を知らないまま、音でも形でもなく、見た通りに写している。
書いてあるのは、二つの言葉だった。
――〈王家〉
――〈生き残り〉
俺は、帳面を持つ手が止まった。
「これ、なんて、よむ」
マリが訊いた。
俺は答えなかった。
「ハルト」
「……どこで聞いた」
「いちば」
「誰が話してた」
「しらない、ひと。ふたり」
彼女は正確に答えた。
「わたしのこと、みた。それから、こえ、ちいさく、した」
俺は帳面を閉じた。
「もう、市場には一人で行くな」
「え」
「一人で出るな。買い物は俺が行く」
マリが立ち上がった。
「なんで」
「危ないからだ」
「なにが」
俺は答えなかった。
「ハルト。なにが、あぶない」
「――言えん」
「なんで」
「言えんからだ」
声が、少し大きくなった。
自分でも分かった。分かったが、止まらなかった。
「マリ」
「うん」
「その言葉は、二度と写すな」
彼女の顔が、変わった。
「……なんで」
「危ないと言ってる」
「わたし、しりたい」
「知らなくていい」
「なんで」
「――お前には関係ない」
◇
言った瞬間に、部屋の空気が死んだ。
マリは、口を開いたまま止まっていた。
俺は、自分が何を言ったか、二呼吸ぶん遅れて理解した。
お前には関係ない。
――事実だ。
この娘は、俺の家の話に何の関係もない。
俺の親父が誰で、なぜ死んで、なぜ噂が流れているのか。
全部、この娘には関わりのないことだ。
だから、巻き込みたくない。
その意味で言った。
その意味で言ったつもりだった。
だが、口から出た形は、そうではなかった。
マリの手が、帳面の端を握っていた。
握って、それから、ゆっくり離した。
「……そう」
彼女は、それだけ言った。
「かんけい、ない」
俺は口を開いた。
「マリ、違う」
「ちがわない」
彼女は帳面を胸に抱えた。
「ハルト、いま、そう、いった」
声が、いつもと同じ調子だった。
それが、かえって悪かった。
泣かれたほうが、まだよかった。
「わたし、しごとの、ひと。それは、しってる」
「――そうじゃない」
「にちとう、ごじゅうレン。もらってる。しごと、してる」
マリは、まっすぐ俺を見ていた。
「かぞく、ちがう。ともだち、ちがう。ハルトの、いえのこと、きく、けんり、ない」
彼女は、そこまで言って、少し息を吸った。
「わかってる。ずっと、わかってた」
「マリ」
「でも」
彼女は、初めて視線を落とした。
「……いっしょに、あなの、なかに、いた」
俺は、何も言えなかった。
「よっか。ごはん、はんぶん。みず、はんぶん」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「あのとき、かんけい、あった」
◇
彼女は帳面を持って、寝台のほうへ行った。
背を向けて、毛布をかぶった。
俺は椅子に座ったまま、動けなかった。
灯りが、じりじりと燃えていた。
――言い直せばいい。
そう思った。
立ち上がって、肩を叩いて、「言い方が悪かった」と言えばいい。
簡単なことだ。
簡単なことが、できなかった。
言い直すには、なぜそう言ったのかを説明しなければならない。
説明するには、噂の中身を話さなければならない。
噂の中身を話すには――
俺は、そこで止まった。
止まった先に、何があるのかは分かっていた。
俺の家は、たぶん、ただの測量士の家ではない。
百年、名前のない誰かが金を払い続けている家だ。
まじないを唱えると壁が開く家だ。
それを話すということは、この娘を、その中に引き込むということだ。
――巻き込みたくない。
だから黙る。
黙るために、あんな言い方をした。
俺は灯りを消した。
消してから、暗がりで、自分に言った。
――守っているつもりで、傷つけた。
それは、守ったことにならない。
◇
(――泣かない)
私は、毛布の中で目を開けていた。
泣くのは、違うと思った。
だって、あの人は間違ったことを言っていない。
私は雇われてるだけだ。家族でも、友達でも、恋人でもない。
拾われて、仕事をもらって、ご飯をもらって、言葉を教えてもらっている。
それだけの関係だ。
――それだけの関係で、四日間、地面の下にいた。
私は毛布を握った。
あの四日間で、私はこの人のことを、勝手にたくさん知った。
パンを半分にする人だってこと。
櫛を元の場所に戻す人だってこと。
寝る前に必ず空を見る人だってこと。
でも、この人は、私に何も言わない。
私が知ってることは、全部、勝手に見て取ったことだ。
――言葉が通じるようになって、かえって遠くなった。
通じなかった頃は、絵を描いた。
絵を描けば、伝わった。
今は、言葉がある。
言葉があるから、この人は「なんでもない」が言える。
(……ずるい)
私はそう思って、それから、思い直した。
私も同じだ。
あの土偶のことを、まだ言っていない。
三月ずっと、言っていない。
言えるようになったのに、言っていない。
同じだ。
同じだと分かっているのに、悔しかった。
◇
私は、毛布の中で、この三か月を数えた。
最初の一週間。何も分からなくて、ただ怖かった。
次の一か月。言葉を覚えて、市場に行けるようになった。
次の一か月。仕事ができるようになった。日当をもらった。
この一か月。記録保管所に通って、五十六人を見つけた。
――全部、前に進んでる。
進んでるはずなのに、今日、はっきり分かったことがある。
私はまだ、この人の何も知らない。
名前は知ってる。仕事は知ってる。手の癖も、歩幅も、寝る前に空を見ることも知ってる。
でも、この人がどこから来て、何を抱えてるのかを、一つも知らない。
知らないまま、私はこの人の家に住んで、この人のお金でご飯を食べてる。
(――どっちが、関係ないんだろう)
私は毛布を引き上げた。
そう考えると、あの人の言ったことは、たぶん正しい。
正しくて、それでも痛い。
正しいことは、痛くないわけじゃない。
私はそのことを、日本にいた頃から知っていた。
◇
朝になって、私たちは普通に起きた。
普通に、パンを焼いた。
普通に、二人で食べた。
一言も、昨日の話はしなかった。
仕事にも出た。旧市街の浅い家。半日の仕事。
私は縄を張った。撓ませなかった。
彼は測った。歩幅が一歩も乱れなかった。
――ちゃんとしてる。
二人とも、ちゃんとしてる。
ちゃんとしてるのが、いちばん、まずいと思った。
喧嘩したのに、次の日から普通に働ける関係。
それは、仕事の関係だからだ。
仕事の関係は、感情が壊れても回る。
回ってしまうから、直さなくても済んでしまう。
私は縄を巻き取りながら、そう思った。
思って、少し怖くなった。
このまま、直さないまま、何か月も過ぎるかもしれない。
過ぎたら、たぶん、そういう関係で固まる。
――それは、いやだ。
私は、はっきりそう思った。
思ったけど、言い出せなかった。
言い出す言葉が、まだ足りなかった。




