噂
カラン村の報告書を出したのは、帰った翌日だった。
フェイラは十四枚の図面をめくって、途中で手を止めた。
「……多くない?」
「多い」
「依頼は『魔獣被害の原因調査』よ。獣道三つ塞いで終わり。図面十四枚って何」
「ついでだ」
「ついでで十四枚も引く人、いないから」
彼女は溜息をついて、それでも全部に判を押した。
最後の三枚――床の模様の図――のところで、少しだけ目が止まった。
止まったが、何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
◇
その日の午後、俺は市場でパンを買っていた。
背中に、視線があった。
振り返ると、誰もいない。
――気のせいだ。
そう思って、二軒先の油屋へ寄った。
油屋の親父が、桶を拭きながら言った。
「なあハルト。あんた、身内はいるかい」
俺は手を止めた。
「いない」
「そうか」
「なぜ訊く」
「いや」
親父は桶を置いた。
「一昨日な、妙なのが来た。あんたのことを訊いてったよ」
「――妙なの、というのは」
「王都のほうの言葉を使うやつだ。三人。物腰は丁寧だった」
油屋の親父は、俺の顔を見た。
「測量士のハルトはどこの生まれか、って。俺は知らんと答えた」
「それだけか」
「それだけだ。金は置いていった」
親父は苦笑した。
「訊かれて答えなかったのに、金だけ置いてった。……気味が悪くてな。あんたに言っといたほうがいいと思った」
俺は礼を言って、油を受け取った。
◇
その晩、俺は家の戸締まりを確かめた。
二十四年、一度もやったことがない。
この町の戸に、まともな錠はない。閂を落とすくらいだ。
落としてから、俺は自分の手を見た。
――何をやっている。
噂だ。訊かれただけだ。役人か、遠縁の相続の話か、そんなところだろう。
金を置いていったなら、なおさら悪い話ではない。
「ハルト」
マリが土間から顔を出した。
「かんぬき」
「落とした」
「はじめて」
「そうだな」
彼女は、しばらく閂を見ていた。
それから、何も訊かずに奥へ戻った。
――訊かないほうが、こたえる。
俺はそう思った。
◇
三日後、フェイラが俺を奥へ呼んだ。
ギルドの奥、普段は使わない部屋だ。
中に、老人が座っていた。
トバスではない。
でっぷりした男で、髪はほとんどない。上着は上等だが、着崩している。
「ダウムだ」
男は名乗った。
「知ってます」
ギルドマスターだ。この町の測量士の登録と、依頼の差配と、金の管理を全部握っている。
顔は知っていた。話したことは、五年で二度しかない。
「座れ」
俺は座った。
「カランの図面、見た」
「はい」
「十四枚。うち三枚が、依頼と関係ない床の模様」
ダウムは指を組んだ。
「あれを、書庫の一般棚に置いておくのはやめておいた」
俺は動かなかった。
「どこへ」
「わしの手元だ」
彼は椅子の背に体重を預けた。
「一つ訊く。あの模様、どこで見た」
「カランです」
「他は」
俺は答えなかった。
ダウムは、しばらく待った。
待って、それから頷いた。
「答えんでいい」
「――なぜ訊いたんです」
「同じものが、書庫の古い綴りにも入っとるからだ」
俺は顔を上げた。
「百年より前の図面だ。誰が引いたか分からん。紙が違うから、古いのは分かる」
ダウムは指で卓を叩いた。
「その図面の余白に、同じ模様が描いてある。説明は一つもない」
俺は口を開いて、閉じた。
「見せてもらえますか」
「見せん」
あっさりした返事だった。
「なぜ」
「見たら、お前は調べるだろう」
ダウムは、俺を見た。
目だけが、まったく笑っていなかった。
「調べる人間は、目立つ」
◇
部屋を出るまでに、俺は二度、口を開きかけた。
二度とも、閉じた。
戸に手をかけたところで、ダウムが言った。
「ハルト」
「はい」
「町に、よそ者が来とる」
俺は振り返らなかった。
「王都の言葉を使う連中だ。三人か、四人。宿には泊まっとらん。どこで寝とるか分からん」
「――何を訊いて回ってるんです」
「昔の家系の話だ」
ダウムは、そこで少し間を置いた。
「滅んだ王国の、生き残りを探しとるらしい」
俺の背中が、冷えた。
「よくある与太話だ」
ギルドマスターは続けた。
「十年に一度は流行る。宝探しの類だな。滅んだ国の王家の血を引く者を見つけて、隠し財産を掘り当てようっていう」
「……それで」
「それだけだ」
俺は戸を開けた。
開けてから、ダウムがもう一言足した。
「お前んとこの家は、百年サルカドをやっとる」
「はい」
「百年、一度も依頼票を切らずにな」
俺は振り返った。
「切らずに、というのは」
「金の話だ」
ダウムは、指で輪を作った。
「依頼というのは、誰かが金を出す。出した者の名が票に残る。それがギルドの仕組みだ」
「知ってます」
「サルカドの定期には、出した者の名がない」
俺は、動けなかった。
「百年、誰が金を出しとるのか、帳面のどこにも書いとらん。それでも金は毎年入る」
ダウムは手を下ろした。
「わしがマスターになって十八年。ずっと不思議に思っとった」
「……なぜ、今それを」
「よそ者が来たからだ」
彼は、それだけ言った。
「行っていい」
◇
◇
俺は、階段の途中で足を止めた。
――今の話を、順番に並べ直す。
一つ。書庫の古い綴りに、あの模様が描かれている。百年より前の図面だ。
二つ。サルカドの定期には、金を出した者の名がない。
三つ。町に、王家の生き残りを探す連中が来ている。
三つとも、ダウムは「わしは不思議に思っとった」という顔で話した。
だが、この男は十八年マスターをやっている。
十八年、不思議に思いながら、一度も俺に言わなかった。
なぜ今日、言った。
――よそ者が来たからだ、と本人は言った。
それは、たぶん本当だ。本当だが、全部ではない。
あの部屋で、ダウムは一度も俺の目を見なかった。
卓を見て、指を見て、天井を見た。
人が目を合わせないのは、嘘をつく時か――言いたくないことを、それでも言おうとしている時だ。
俺は、ギルドの階段を降りた。
降りながら、頭の中で数字が回っていた。
日当二千レン。年に四度。百年。
誰が、それを払っている。
俺は今まで、一度も考えたことがなかった。
――当たり前だと思っていたからだ。
昔からの客だ、と親父は言った。
俺はそれを、そのまま受け取って、二十年働いた。
外へ出ると、日が傾いていた。
通りの向こうに、マリが立っていた。
買い物袋を抱えて、こちらを見ている。
俺の顔を見て、彼女の表情が変わった。
「ハルト」
「なんでもない」
言ってから、俺は自分の口を呪った。
この三月で、何度目だ。
マリは、それ以上訊かなかった。
訊かずに、袋を持ち直して、隣に並んだ。
二人で家まで歩いた。
途中、俺は二度、後ろを見た。
二度とも、誰もいなかった。
――誰もいないことを、二度も確かめている。
昨日までの俺は、一度も確かめなかった。
人は、こんなに簡単に変わる。
噂を一つ聞いただけで。
家に着いて、俺は閂を落とした。
落としてから、竈に火を入れた。
火が起きるまでの間、俺はずっと同じことを考えていた。
――百年、誰が金を払っている。
その誰かは、味方なのか。
二十年、俺はその金で飯を食ってきた。
味方だと思っていたわけではない。
考えたことすらなかった。
考えたことのないものに、二十年守られていた。
守られていたのだとしたら――
なぜ、親父は守られなかった。




