見えない目
見えない目
仕事は、それで終わりだった。
獣道は三つとも塞いだ。積み方は俺が見た。村の男たちは、思ったより丁寧に仕事をした。
東の遺跡の図面は、全部で十四枚になった。
三つ目の部屋の床の模様は、そのうちの三枚を占めた。
最後の一枚を清書し終えて、俺は筆を置いた。
――さて。
この図面を、ギルドに出す。
出せば、書庫に綴じられる。誰かが読む。学士院が読むかもしれない。
俺は、床の模様の図を見た。
同心円。枝分かれする線。
これを見て、ドルスなら何と言うだろう。
――装飾ですね、と言うだろう。
意味はありません。反復による荘厳の演出です。
そして、それで話は終わる。
俺は三枚を綴りの一番下に入れて、上から他の図面を重ねた。
隠したわけではない。
順番を変えただけだ。
――二度目だ。
サルカドの報告書で、俺は扉のことを書かなかった。
今度は、模様の図を下に入れた。
どちらも、嘘は書いていない。書かなかっただけだ。
測量士は、書いたことに責任を持つ。書かなかったことには、持たない。
そういう建前でやってきた。
建前だと分かっていて、二十年使ってきた。
俺は綴りを紐で縛った。
縛りながら、少しだけ考えた。
――俺は今、何から逃げている。
答えは、たぶん一つしかない。
あの壁が、俺の言葉で開いたことだ。
あれを認めると、次に来る問いが決まってしまう。
なぜ俺の言葉で開く。
その次は――なぜ、俺の家に、その言葉が伝わっている。
俺は紐を結んだ。
結び目が、いつもより固くなった。
◇
村を出る朝、ハルマが門まで来た。
干した肉と、瓜と、大きな麻袋を持たせようとした。
「要りません」
「持っていきな」
「荷になる」
「じゃあ、この子に持たせな」
マリが素直に受け取った。
俺は諦めた。
「測量士さん」
ハルマが言った。
「また来るかい」
「依頼があれば」
「依頼がなくてもいいよ」
彼女は笑った。
「うちの村は、あんたに借りがある。冒険者は三度来て、三度とも『掃討した』と言って帰った。あんたは『殺さない』と言って帰る」
「殺していないので」
「そう言うだろうと思った」
ハルマは、俺の背中を叩いた。
力が強かった。
◇
麻袋の中身は、カラン草だった。
乾したのが、両手で抱えるほど。
道中でそれを知ったマリの顔が、見物だった。
「これ、ぜんぶ」
「全部だ」
「……いらない」
「くれると言うものは、もらうものだ」
「にがい」
「苦い」
俺は少し笑った。
「だが、あれがなかったら、あの四日は保たなかった」
マリは口を閉じた。
それから、麻袋を抱え直して、担ぎ方を変えた。
しばらく歩いてから、彼女は言った。
「ハルト」
「なんだ」
「わたし、いま、たすかってる」
俺は横を見た。
「たすけてもらってる、じゃなくて」
彼女は、少し言葉を探した。
「……いま、しごと、してる。おかね、もらってる。ごはん、たべてる。ことば、おぼえてる」
「そうだな」
「まえは、なにも、なかった」
彼女は前を見たまま言った。
「あさ、おきて、なにも、ない。ずっと。……こわかった」
俺は何も言わなかった。
「だから、いま、たすかってる」
彼女は、そこで初めてこちらを見た。
「ありがとう」
――言い返す言葉が、なかった。
俺は前を向いて、歩調を落とさずに言った。
「日当は払ってる」
「はらってる」
「なら、仕事だ」
「しごと」
マリは、少し笑った。
「そう。しごと」
彼女は、それ以上言わなかった。
俺も言わなかった。
言わなかったが、その日の午後、俺は妙に足取りが軽かった。
◇
(――言えた)
私は、荷を担ぎ直しながら思っていた。
三か月かかった。
「ありがとう」の一言を、ちゃんと言うのに。
言葉を覚えたからじゃない。「ありがとう」なんて、二週目には言えた。
そうじゃなくて。
助けてもらってる立場から、一緒に働いてる立場に変わるまでに、三か月かかったってことだ。
この人は、たぶん、一生それを口にしない。
「日当は払ってる」で終わらせる。
でも、私は知ってる。
あの四日間、地面の下で、この人は自分のパンを半分にした。
三万レンが入った日に、買ったのは私の手袋と、私の縄と、私の帳面だった。
自分のものは、何も買わなかった。
(――変な人)
私は、少し先を歩く背中を見た。
測量杆を担いで、荷を背負って、まっすぐ歩いている。
歩幅が、一歩も乱れない。
◇
その日の夕方、俺は一度だけ振り返った。
癖だ。
村を出る時、山を越える時、峠に立った時。振り返って、来た道を見る。
地形を頭に入れるためだ。帰り道は、行きと景色が違う。
丘の上から、カラン村が見えた。
塀が、新しい石で継ぎ足されている。
その手前、街道の脇。
――人がいた。
四人。
馬を降りて、こちらを見上げている。
距離は五百歩ほど。顔は分からない。
俺は目を細めた。
商人ではない。荷がない。
冒険者でもない。装備の形が違う。
全員が同じ外套を着ている。同じ形の、同じ色の。
旅人が偶然揃うことはない。
――揃いの外套を着る連中は、どこかに属している。
俺は視線を外した。
外して、そのまま歩き出した。
「ハルト?」
「なんでもない」
「……ひと、いた」
「見たか」
「みた」
マリは、こちらを見上げた。
「みてた。わたしたち、みてた」
俺は歩調を変えなかった。
変えないほうがいい。
こちらが気づいたことを、向こうに気づかせないほうがいい。
――なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、腹の底が、冷たかった。
この感覚を、俺は知っている。
遺跡で、寝ている獣の傷跡を見つけた時と同じだ。
「マリ」
「なに」
「歩幅を変えるな。振り返るな」
彼女は、一瞬だけ息を止めた。
それから、まっすぐ前を向いて歩いた。
乱れなかった。
――この娘は、いつからこんなに勘が良くなった。
背後で、馬の鼻を鳴らす音が、一度だけ聞こえた。
◇
峠を越えるまで、俺は一度も振り返らなかった。
越えてから、木立の陰に入って、初めて足を止めた。
街道を見下ろす。
――いない。
馬も、外套の四人も、どこにもいなかった。
追ってきてはいない。
俺は息を吐いた。
「ハルト」
「なんでもない」
「なんでもない、じゃ、ない」
マリが正面に回り込んできた。
この娘は、こういう時に引かなくなった。三月前は、俺が黙れば黙った。
「あの、ひとたち、だれ」
「知らん」
「ほんとう?」
「本当だ」
俺は杆を担ぎ直した。
「知らん。だが、揃いの外套を着てた。同じ形の、同じ色の」
「それ、どういう、いみ」
「どこかに属してるってことだ」
俺は歩き出した。
「軍か、商会か、学士院か、寺か。……属してる連中は、揃いを着る」
「わるい?」
「悪いとは限らん」
俺は前を向いたまま言った。
「悪いとは限らんが、俺たちを見上げてた」
マリが、少し黙った。
「わたしたち、なにも、してない」
「してない」
「じゃあ、なんで」
俺は答えなかった。
答えられなかった、が正しい。
カラン村での仕事は、獣道を三つ塞いだだけだ。
それを見に来る組織は、ない。
――遺跡の外に、家を掘り当てた。
――北の壁を、先に叩いた。
――床の模様の上で、板が光った。
その全部を、俺は報告書に書いていない。書いていないものを、外の人間が知る術はない。
だから、あの連中は俺の仕事を見に来たのではない。
俺を見に来た。
――なぜ。
考えても、答えは出なかった。
答えの出ない考えを追いかけると、翌日の仕事に響く。
俺はそう自分に言って、歩調を戻した。
戻したが、その夜は、また眠れなかった。
◇
メルシアに着いたのは、三日後の夕方だった。
町の匂いがした。パンと、家畜と、井戸の水の匂い。
マリが、門をくぐったところで足を止めた。
「かえって、きた」
「帰ってきたな」
「……へん」
「何が」
彼女は、少し困った顔をした。
「メルシア、わたしの、まちじゃ、ない」
「そうだな」
「でも、いま、かえってきた、って、おもった」
俺は荷を担ぎ直した。
何と言えばいいのか、分からなかった。
三月前、この娘は俺の家の隅で膝を抱えていた。
今、この娘は町の門で「帰ってきた」と言っている。
それが良いことなのか、悪いことなのか、俺には判断がつかなかった。
この娘には、帰りたい場所が別にある。
別にあるのに、ここが帰る場所になりつつある。
――そのうち、どちらかを選ばせることになる。
なぜかその時、俺はそう思った。
思ってから、そんな日が来る根拠は何一つないと気づいて、自分に呆れた。
「ハルト」
「なんだ」
「ごはん」
「……そうだな」
俺たちは家へ向かって歩き出した。
背中の荷が、行きより重かった。
カラン草が両手ぶん増えているからだ。




