光る板
三つ目の部屋は、寸法を取り終えるのに丸一日かかった。
床の模様のせいだ。
あれを図面に写すには、まず基準を決めなければならない。円の中心はどこか。線の間隔はいくつか。
俺は縄を張って、格子を切って、一区画ずつ写していった。
マリは、その日ずっと静かだった。
昨日の話が、まだ尾を引いている。
俺も引いている。
だから二人とも、黙って手を動かしていた。
◇
夕方、俺は縄を巻き取りながら言った。
「先に上がっていい」
「いい?」
「片付けだけだ。一人でやる」
マリは頷いて、荷を担ごうとして――
止まった。
「ハルト」
「ん」
「かばん」
彼女の布の鞄が、床に置いてある。
部屋の隅、ちょうど円の中心のあたりだ。
昼にそこへ置いて、そのままにしていた。
それが、どうした。
俺は顔を上げて――
鞄の口から、光が漏れていた。
◇
青い光だった。
薄く、まっすぐな線が、布の隙間から差している。
俺は杆を取った。
「離れろ」
「え」
「離れろ」
マリが後ろへ下がる。
俺は杆の先で、鞄の口をゆっくり開いた。
中で、あの黒い板が光っていた。
――あの、継ぎ目のない、掌に載る板だ。
三月、俺の棚の上と、この娘の鞄の中を往復していた、ただの黒い板。
それが、光っている。
板の面いっぱいに、細い線が並んでいた。線は、動いていた。
俺は動けなかった。
絵ではない。
彫ってあるのでもない。
板の中に、光る何かがあって、それが形を変えている。
「――」
声が出なかった。
次の瞬間、マリが俺の横をすり抜けた。
彼女は鞄に飛びついて、板を掴んだ。
両手で握って、胸に押しつけて――そのまま、床に座り込んだ。
背中を、こちらに向けて。
◇
(――ついた)
私は、震える手で画面を見た。
電源が入っている。
バッテリーの表示は、四パーセント。
三か月ぶりに見る、自分の待ち受け画面だった。
時計が動いている。
日付は――違う。
私が消えた日の翌日で、止まったまま動き出したみたいだった。ずっと電源が落ちてたから、当たり前だ。
圏外。当然。
私は写真のアプリを開いた。
指が滑って、二回失敗した。
開いた。
――出てきた。
全部ある。
去年の学祭。友達との写真。バイト先の猫。実家のごはん。
おばあちゃん。
台所で、こっちを見て、少し困ったように笑ってる。私が勝手に撮ったやつだ。
喉から変な音が出た。
私は口を押さえた。
押さえたけど、間に合わなかった。
◇
俺は、その場に立ち尽くしていた。
マリが泣いていた。
声を殺そうとして、殺しきれていない泣き方だった。
肩が跳ねている。板を胸に抱えたまま、背中を丸めている。
俺は、どうすればいいのか分からなかった。
三月、この娘は一度も泣かなかった。
閉じ込められた時も、四日食えなかった時も、記録保管所で五十六人を数えた時も。
――泣かなかったのではない。
泣く材料が、なかったのだ。
言葉が通じず、身元もなく、持ち物は意味の分からない物ばかりで、思い出す手がかりが何ひとつなかった。
今、それが手の中にある。
俺は杆を床に置いて、少し離れたところに座った。
背中を向けて、座った。
見ないほうがいいと思った。それだけの理由だ。
◇
(――減ってる)
四パーセントが、三になっていた。
私は写真を送る手を止めた。
あと少しで消える。
何を見る。何を残す。
考えて、私は一番最後の写真を出した。
あの夜の。
――え。
私は、画面を凝視した。
写真がある。
私が撮った覚えのない写真が、一番最後にある。
石だ。
輪になって立っている、あの石。おばあちゃんの村の、丘の上の。
夜だ。真っ暗で、石のシルエットだけが写っている。
上に、星。
時刻は、午後十一時四十七分。
――撮ってない。
私は、この写真を撮っていない。
覚えていない、じゃない。撮っていないはずだ。
だって、あの時、私は道に迷って、怖くて、スマホのライトを点けようとして――
そこから記憶がない。
でも、写真はある。
私は画面を拡大した。
星が写っている。ブレていて、点が線になっている。
その中に、明るいのが三つ。近くに寄っている。
私は、その三つを見た。
見た瞬間、画面が真っ暗になった。
「――あ」
電池が切れた。
私は何度もボタンを押した。押しても、何も出なかった。
私は板を胸に抱えて、しばらく動けなかった。
◇
やがて、後ろで気配が動いた。
俺は振り返った。
マリが、板を鞄にしまっていた。
顔は腫れていたが、もう泣いていなかった。
「……ハルト」
「なんだ」
「ごめん」
「謝ることじゃない」
俺は立ち上がって、杆を拾った。
「あれは、なんだ」
訊くつもりはなかった。
だが、訊かないわけにいかなかった。
マリは、しばらく黙っていた。
それから、鞄を抱え直して、言った。
「わたしの、くにの、もの」
「――光るのか」
「ひかる」
「いつも光るのか」
「いつも」
彼女は首を振った。
「いつもは、ひかる。でも、ここに、きてから、ひかってない。……きょう、はじめて」
俺は床を見た。
同心円と、枝分かれする線。
鞄が置いてあったのは、その中心だ。
俺はしゃがんで、床に手を当てた。
冷たい。何も起きない。
立ち上がって、もう一度見下ろす。
――ここに、何かがある。
三月前、狐の中の線を差し込んだ時、背中が光った。
あの壁は、俺が唱えたら開いた。
この板は、この床の上で光った。
全部、別々の話だと思っていた。
思おうとしていた。
俺は野帳を開いて、書いた。
〈床ノ模様ノ中心ニ、物ヲ置クト、光ル〉
そして、その下にもう一行足した。
〈壁ノ模様。狐ノ背。同ジ作リ〉
書いてから、俺はしばらく、その二行を見ていた。
図面に書けないことは書かない。
二十年、そう決めてきた。
俺は野帳を閉じた。
閉じたが、破りはしなかった。
◇
その夜、村の家の土間で、俺は縄を編み直していた。
手を動かしていないと、考えてしまう。
マリは、卓の向こうで自分の帳面を開いていた。
開いているだけで、書いていない。
「ハルト」
「なんだ」
「あの、いた」
彼女は鞄を指した。
「もう、ひかる、ない」
「電池が切れたのか」
「でんち」
俺の知らない言葉だった。
この娘の国の言葉が、時々そのまま出てくる。訊けば説明しようとするが、たいてい途中で詰まる。
今日は、詰まらなかった。
「なか、ちから、ある。つかうと、へる」
彼女は両手で四角を作った。
「まんたん。それから、へる。ゼロ。……うごかない」
「補充はできるのか」
「できる。……くにでは」
彼女はそこで、少し黙った。
「ここ、できない。ずっと、できない、と、おもってた」
「今日、少しできた」
「すこし」
マリは頷いた。
「よんパーセント」
「なんだそれは」
「……ぜんぶを、ひゃく、とする。そのうちの、よん」
俺は手を止めた。
――百分率か。
学士院の連中が使う。税の計算や、鉱山の歩留まりを出す時に。
この娘は、それを日常の言葉として使っている。
自分の道具の残りを、百分率で把握しながら生きている。
俺は縄を置いた。
「マリ」
「なに」
「お前の国は、どういう国だ」
訊いてから、また後悔した。
昨日、同じことを訊いて、彼女を黙らせた。
だが今日は、彼女は黙らなかった。
少し考えて、こう言った。
「……ふつうの、くに」
「普通」
「ひとが、たくさん。まち、たくさん。がっこう、ある。びょういん、ある」
彼女は指を折った。
「けんか、ある。おかね、ない、ひと、いる。……ふつう」
俺は頷いた。
「歩いて行けない、というのは」
「うん」
「海の向こうか」
マリは、しばらく俺を見ていた。
それから、首を横に振った。
「……うみ、の、むこうも、いける」
彼女は言った。
「わたしの、くには、いけない」
俺は、それ以上訊かなかった。




