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測量士と転移者  作者: ごま


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19/41

光る板

三つ目の部屋は、寸法を取り終えるのに丸一日かかった。


 床の模様のせいだ。


 あれを図面に写すには、まず基準を決めなければならない。円の中心はどこか。線の間隔はいくつか。


 俺は縄を張って、格子を切って、一区画ずつ写していった。


 マリは、その日ずっと静かだった。


 昨日の話が、まだ尾を引いている。


 俺も引いている。


 だから二人とも、黙って手を動かしていた。


    ◇


 夕方、俺は縄を巻き取りながら言った。


「先に上がっていい」


「いい?」


「片付けだけだ。一人でやる」


 マリは頷いて、荷を担ごうとして――


 止まった。


「ハルト」


「ん」


「かばん」


 彼女の布の鞄が、床に置いてある。


 部屋の隅、ちょうど円の中心のあたりだ。


 昼にそこへ置いて、そのままにしていた。


 それが、どうした。


 俺は顔を上げて――


 鞄の口から、光が漏れていた。


    ◇


 青い光だった。


 薄く、まっすぐな線が、布の隙間から差している。


 俺は杆を取った。


「離れろ」


「え」


「離れろ」


 マリが後ろへ下がる。


 俺は杆の先で、鞄の口をゆっくり開いた。


 中で、あの黒い板が光っていた。


 ――あの、継ぎ目のない、掌に載る板だ。


 三月、俺の棚の上と、この娘の鞄の中を往復していた、ただの黒い板。


 それが、光っている。


 板の面いっぱいに、細い線が並んでいた。線は、動いていた。


 俺は動けなかった。


 絵ではない。


 彫ってあるのでもない。


 板の中に、光る何かがあって、それが形を変えている。


「――」


 声が出なかった。


 次の瞬間、マリが俺の横をすり抜けた。


 彼女は鞄に飛びついて、板を掴んだ。


 両手で握って、胸に押しつけて――そのまま、床に座り込んだ。


 背中を、こちらに向けて。


    ◇


(――ついた)


 私は、震える手で画面を見た。


 電源が入っている。


 バッテリーの表示は、四パーセント。


 三か月ぶりに見る、自分の待ち受け画面だった。


 時計が動いている。


 日付は――違う。


 私が消えた日の翌日で、止まったまま動き出したみたいだった。ずっと電源が落ちてたから、当たり前だ。


 圏外。当然。


 私は写真のアプリを開いた。


 指が滑って、二回失敗した。


 開いた。


 ――出てきた。


 全部ある。


 去年の学祭。友達との写真。バイト先の猫。実家のごはん。


 おばあちゃん。


 台所で、こっちを見て、少し困ったように笑ってる。私が勝手に撮ったやつだ。


 喉から変な音が出た。


 私は口を押さえた。


 押さえたけど、間に合わなかった。


    ◇


 俺は、その場に立ち尽くしていた。


 マリが泣いていた。


 声を殺そうとして、殺しきれていない泣き方だった。


 肩が跳ねている。板を胸に抱えたまま、背中を丸めている。


 俺は、どうすればいいのか分からなかった。


 三月、この娘は一度も泣かなかった。


 閉じ込められた時も、四日食えなかった時も、記録保管所で五十六人を数えた時も。


 ――泣かなかったのではない。


 泣く材料が、なかったのだ。


 言葉が通じず、身元もなく、持ち物は意味の分からない物ばかりで、思い出す手がかりが何ひとつなかった。


 今、それが手の中にある。


 俺は杆を床に置いて、少し離れたところに座った。


 背中を向けて、座った。


 見ないほうがいいと思った。それだけの理由だ。


    ◇


(――減ってる)


 四パーセントが、三になっていた。


 私は写真を送る手を止めた。


 あと少しで消える。


 何を見る。何を残す。


 考えて、私は一番最後の写真を出した。


 あの夜の。


 ――え。


 私は、画面を凝視した。


 写真がある。


 私が撮った覚えのない写真が、一番最後にある。


 石だ。


 輪になって立っている、あの石。おばあちゃんの村の、丘の上の。


 夜だ。真っ暗で、石のシルエットだけが写っている。


 上に、星。


 時刻は、午後十一時四十七分。


 ――撮ってない。


 私は、この写真を撮っていない。


 覚えていない、じゃない。撮っていないはずだ。


 だって、あの時、私は道に迷って、怖くて、スマホのライトを点けようとして――


 そこから記憶がない。


 でも、写真はある。


 私は画面を拡大した。


 星が写っている。ブレていて、点が線になっている。


 その中に、明るいのが三つ。近くに寄っている。


 私は、その三つを見た。


 見た瞬間、画面が真っ暗になった。


「――あ」


 電池が切れた。


 私は何度もボタンを押した。押しても、何も出なかった。


 私は板を胸に抱えて、しばらく動けなかった。


    ◇


 やがて、後ろで気配が動いた。


 俺は振り返った。


 マリが、板を鞄にしまっていた。


 顔は腫れていたが、もう泣いていなかった。


「……ハルト」


「なんだ」


「ごめん」


「謝ることじゃない」


 俺は立ち上がって、杆を拾った。


「あれは、なんだ」


 訊くつもりはなかった。


 だが、訊かないわけにいかなかった。


 マリは、しばらく黙っていた。


 それから、鞄を抱え直して、言った。


「わたしの、くにの、もの」


「――光るのか」


「ひかる」


「いつも光るのか」


「いつも」


 彼女は首を振った。


「いつもは、ひかる。でも、ここに、きてから、ひかってない。……きょう、はじめて」


 俺は床を見た。


 同心円と、枝分かれする線。


 鞄が置いてあったのは、その中心だ。


 俺はしゃがんで、床に手を当てた。


 冷たい。何も起きない。


 立ち上がって、もう一度見下ろす。


 ――ここに、何かがある。


 三月前、狐の中の線を差し込んだ時、背中が光った。


 あの壁は、俺が唱えたら開いた。


 この板は、この床の上で光った。


 全部、別々の話だと思っていた。


 思おうとしていた。


 俺は野帳を開いて、書いた。


 〈床ノ模様ノ中心ニ、物ヲ置クト、光ル〉


 そして、その下にもう一行足した。


 〈壁ノ模様。狐ノ背。同ジ作リ〉


 書いてから、俺はしばらく、その二行を見ていた。


 図面に書けないことは書かない。


 二十年、そう決めてきた。


 俺は野帳を閉じた。


 閉じたが、破りはしなかった。


    ◇


 その夜、村の家の土間で、俺は縄を編み直していた。


 手を動かしていないと、考えてしまう。


 マリは、卓の向こうで自分の帳面を開いていた。


 開いているだけで、書いていない。


「ハルト」


「なんだ」


「あの、いた」


 彼女は鞄を指した。


「もう、ひかる、ない」


「電池が切れたのか」


「でんち」


 俺の知らない言葉だった。


 この娘の国の言葉が、時々そのまま出てくる。訊けば説明しようとするが、たいてい途中で詰まる。


 今日は、詰まらなかった。


「なか、ちから、ある。つかうと、へる」


 彼女は両手で四角を作った。


「まんたん。それから、へる。ゼロ。……うごかない」


「補充はできるのか」


「できる。……くにでは」


 彼女はそこで、少し黙った。


「ここ、できない。ずっと、できない、と、おもってた」


「今日、少しできた」


「すこし」


 マリは頷いた。


「よんパーセント」


「なんだそれは」


「……ぜんぶを、ひゃく、とする。そのうちの、よん」


 俺は手を止めた。


 ――百分率か。


 学士院の連中が使う。税の計算や、鉱山の歩留まりを出す時に。


 この娘は、それを日常の言葉として使っている。


 自分の道具の残りを、百分率で把握しながら生きている。


 俺は縄を置いた。


「マリ」


「なに」


「お前の国は、どういう国だ」


 訊いてから、また後悔した。


 昨日、同じことを訊いて、彼女を黙らせた。


 だが今日は、彼女は黙らなかった。


 少し考えて、こう言った。


「……ふつうの、くに」


「普通」


「ひとが、たくさん。まち、たくさん。がっこう、ある。びょういん、ある」


 彼女は指を折った。


「けんか、ある。おかね、ない、ひと、いる。……ふつう」


 俺は頷いた。


「歩いて行けない、というのは」


「うん」


「海の向こうか」


 マリは、しばらく俺を見ていた。


 それから、首を横に振った。


「……うみ、の、むこうも、いける」


 彼女は言った。


「わたしの、くには、いけない」


 俺は、それ以上訊かなかった。

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