沈んだ王国
その夜、ハルマが酒を出してきた。
俺は一杯だけ受けた。マリには湯を出してもらった。
「あんた、サルカドの家の者だろう」
いきなり、そう言われた。
俺は椀を持つ手を止めた。
「……なぜ」
「メルシアの測量士で、サルカドを代々やってる家がある。何十年も前から聞いてるよ」
ハルマは自分の椀に酒を注いだ。
「この村にも、昔は測量士が来た。あんたじゃない。もっと前だ。同じ流儀だったね」
「流儀」
「入る前に、何か唱えるんだよ」
俺は、椀を置いた。
「その人は、名を」
「覚えてないさ。四十年も前だ」
彼女は酒を飲んだ。
「ただ、あの唱え方は覚えてる。祈りでもない、願かけでもない。仕事の道具を確かめるみたいに唱えるんだ。変わってると思ったから、覚えてる」
――親父ではない。四十年前なら、まだ子どもだ。
その前の代。俺の祖父か、あるいはもっと前。
俺は、自分の家について、驚くほど何も知らない。
「あんたもやるだろう」
「……やります」
「意味は」
「知りません」
ハルマは笑った。
「そうだろうねえ」
◇
翌朝、東の遺跡へ向かう前に、村の外れの家に寄った。
ハルマが「あの爺さんに聞いておきな」と言ったからだ。
家というより、小屋だった。
中に、老人が一人いた。目が白く濁っている。ほとんど見えていないらしい。
名はゲンといった。九十を超えているという。
「遺跡へ行くのかね」
「行きます」
「やめとけ、とは言わんよ」
ゲンは笑った。歯がほとんどなかった。
「わしが若い頃も、みんな行った。何人か戻らなんだ。それでも行く」
「何があると」
「何もない」
あっさりした答えだった。
「あそこは空っぽだ。石と、土と、獣だけよ。宝なんぞ、とうの昔に持っていかれとる」
「では、なぜ人は行くんです」
「話があるからだ」
老人は、天井を見上げるように顔を上げた。
見えていない目で。
「――沈んだ王国の話をしようか」
◇
昔、この地に大きな国があった。
そう、ゲンは語り始めた。
王がいて、都があって、人が住んでいた。
その国は、栄えた。
栄えて、それから、沈んだ。
「戦で滅びたんじゃない」
ゲンは言った。
「そういう話じゃないんだ。沈んだんだよ。地面の下へ」
「地滑りですか」
「違う」
老人は首を振った。
「そういう話でもない。……そもそも、あの国は最初から、半分は地面の下にあったのさ」
俺は、椀を置く手を止めた。
「地面の下」
「そう聞いとる。偉い者ほど、深いところに住んでおった」
――旧市街だ。
俺の背中を、冷たいものが走った。
偉い者ほど、深い。
旧市街の言い伝えと、同じだ。
メルシアから馬車で三日離れたこの村に、同じ話がある。
「王は、一番深いところにおった」
ゲンは続けた。
「そして王は、地面の下の何かを守っておった、と」
「何かとは」
「知らんよ」
老人は肩をすくめた。
「わしの婆さんも知らんかった。婆さんの婆さんも知らんかったろう。そういう話は、途中で中身が抜け落ちるもんだ」
「……それで、王国は」
「滅ぼされた」
ゲンは、そこで初めて声を落とした。
「よその国が攻めてきた、という話になっとる。だが、わしが子どもの頃に聞いたのは、少し違った」
「違う、というのは」
「――身内だ、と」
俺は動かなかった。
「王の身内が裏切ったのさ。同じ血の者が。だから防げなかった。城門を開けたのは中の人間だった、と」
「それは、伝承ですか」
「伝承だよ。証文なんぞない」
ゲンは笑った。
「だが、この手の話はな。よその国のせいにするほうが後から作りやすい。身内が裏切ったなんて話は、わざわざ作らんもんだ」
俺は椀を握っていた。
「――なぜ、裏切ったんです」
「知らんよ」
ゲンはあっさり言った。
「知らんが、婆さんはこう言っとった。『喧嘩の中身は、宝の使い道だった』と」
「使い道」
「王が守っとった、その何かをな。使うか、使わんかで割れたんだと」
老人は、指を二本立てた。
「片方は、使わずに守れと言った。もう片方は、使えと言った」
「どちらが勝ったんです」
「使えと言ったほうだ」
ゲンは笑った。
「そりゃそうだ。使えと言うほうが、いつも勝つ。守れと言う奴は、戦の支度をせんからな」
俺は、しばらく黙っていた。
「――使ったんですか。その、何かを」
「さあて」
老人は肩をすくめた。
「使えたなら、その国は今もあるだろうよ」
小屋の中が、静かになった。
「使えなかったのさ」
ゲンは言った。
「奪ったはいいが、使えなかった。だから話が終わっとる。……わしはそう思っとるがね」
◇
(――王国)
私は、二人の会話を必死に追っていた。
半分も分からない。老人の言葉は訛りが強くて、単語も難しい。
でも、「ふかい」と「おう」と「うらぎり」は聞き取れた。
ハルトさんの顔が、途中から動かなくなった。
これは、私が知っている顔だ。
あの壁の前で、彼が「疲れてるんだ」と言った時の顔。
狐が光った時の顔。
――何かを飲み込んでる顔だ。
私は膝の上で手を握った。
この人は、飲み込んだものを、外に出さない。
三月一緒にいて、それはよく分かった。
言わないのは、言えないからだ。
私は、それを責める気になれない。
だって、私も同じだから。
私はまだ、あの土偶のことを言えていない。
言葉が足りないから、じゃない。
もう三月経った。今なら、たぶん、片言でも言える。
「あれ、わたしのくにに、ある」
それだけ言えば済むはずだ。
言っていないのは、言ったら、この人が信じるかもしれないからだ。
信じたら、この人はきっと、調べに行く。
あの壁の向こうへ。
◇
小屋を出る時、ゲンが呼び止めた。
「測量士さん」
「はい」
「一つ、聞いていいかね」
老人は、見えない目をこちらに向けた。
「あんた、遺跡へ入る前に、何か唱えるかね」
俺は足を止めた。
「――唱えます」
「そうか」
ゲンは、それだけ言って頷いた。
「なら、気をつけて行きなされ」
「なぜ、それを訊いたんです」
老人は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「昔の話にな、ついておる。王の一族は、扉の前で言葉を唱えたそうだ」
俺は、動けなかった。
「意味は誰も知らん。ただ、そういう話がある」
「――ゲンさん」
「なんだね」
「それは、王の一族だけの話ですか」
「さあて」
老人は笑った。
「わしは知らんよ。ただの、ばあさんから聞いた話だ」
小屋の戸が閉まった。
俺はしばらく、その前に立っていた。
――王の一族は、扉の前で言葉を唱えた。
伝承だ。
証文はない。婆さんから聞いた話だ。老人自身がそう言った。
この手の話は、いくらでもある。
どこの村にも、王の血だの、神の使いだの、地の底の宝だのという話がある。全部が本当なら、この国は王だらけだ。
俺は自分にそう言い聞かせた。
言い聞かせながら、手の中の杆を握り直していた。
柄の銘が、掌に当たる。
読めない字。規則が整いすぎている字。
――伝承の中の一族は、扉の前で唱えたという。
俺は、遺跡の前で唱える。
それだけだ。
それだけの話に、意味をつけようとしている自分が、少し嫌だった。
どこの家にも、意味の分からない習わしはある。
塩を撒く家。北枕を嫌う家。石段の一段目を右足で踏む家。
俺の家のは、たまたま言葉だっただけだ。
――たまたま、あの壁が開いただけだ。
俺は歩き出した。
マリが、俺の顔を見上げていた。
何か言いたそうだった。
だが、彼女も何も言わなかった。
しばらく歩いてから、彼女が訊いた。
「さっきの、おじいさん。なに、はなした」
「昔の国の話だ」
「むかしの、くに」
「ここに、大きな国があった。滅びた。……よくある話だ」
「よくある」
マリは繰り返して、それから首を傾げた。
「ハルト、かお、かわった」
「変わってない」
「かわった」
彼女は自分の眉のあたりを指した。
「ここ。すこし」
俺は歩調を変えずに言った。
「……気のせいだ」
「それ、きのう、も、いった」
言われて、俺は口を閉じた。
昨日、北の壁を叩いた時だ。
二日続けて、同じ言葉で片づけている。
――これは、癖になる。
癖になったら、そのうち本当に気のせいになる。
俺は前を向いたまま、正直なところを言った。
「気になってる」
「うん」
「だが、まだ言葉にならん」
マリは、しばらく黙って歩いた。
それから、小さく頷いた。
「わかる」
その一言が、なぜか、妙に楽になった。




