カラン村
乗合馬車は、三日で二度停まった。
一度目は車輪の楔が飛んだから。二度目は御者が知り合いの畑を見に行ったからだ。
マリは、その二度目に本気で驚いていた。
「かえって、こない」
「戻る」
「しごと」
「そういう国だ」
彼女はしばらく納得しない顔をしていたが、御者が戻ってきて、瓜を配り始めたら黙った。
瓜は甘かった。
◇
街道は、思っていたより人が通っていた。
行商の荷車。季節働きの一団。羊を追う親子。
マリは、それを全部見ていた。
窓の枠に顎を乗せて、通り過ぎる村を数えている。
三日で、七つ。
「ハルト」
「なんだ」
「みんな、いえ、ある」
「そうだな」
「どこも、ひと、いる」
彼女は少し黙って、それから言った。
「メルシア、だけじゃ、ない」
――ああ。
俺は、そのことに気づいていなかった。
この娘にとって、この三月、世界はメルシア一つだった。
町の外に何があるかを、知識としては知っていても、見たことがなかった。
見たことがないものは、無いのと同じだ。
馬車が揺れて、外の畑が流れていく。
麦が実っている。刈り取りが近い。
俺はそれを見ながら、少しだけ、この娘の三月を想像した。
――想像して、やめた。
考えても、俺にできることは変わらない。
◇
カラン村は、丘の南斜面に張りついていた。
家が四十軒ほど。石を積んだ低い塀が、集落全体をぐるりと囲んでいる。
塀は新しい。ここ数月で積んだものだ。積み方が急いでいる。
村の入口で、俺たちは足を止められた。
三人。鍬と、猟に使う槍。
「どこの者だ」
「メルシアのギルドだ。調査依頼で来た」
俺は書付を出した。
一人が受け取って、しばらく見て、それから顔をしかめた。
「……測量士?」
「そうだ」
「討伐じゃなくて?」
「討伐は三度来たと聞いた」
男は黙った。
もう一人が横から覗き込んで、鼻を鳴らした。
「地図屋が来ても、獣は死なんぞ」
――言われ慣れている。
俺は書付を受け取って、懐に戻した。
「そうだな」
「そうだな、って」
「地図屋が来ても、獣は死なない」
俺は歩き出した。
「だが、獣がどこから来てるかは分かる」
◇
村長は、七十がらみの女だった。
名をハルマという。腰が曲がっていて、声が大きい。
「三度だよ」
彼女は指を三本立てた。
「三度も呼んだ。金も払った。冒険者ってのは、来て、二日潜って、五匹殺して、帰る。それで『掃討した』と言うんだ」
「それは掃討だ」
「掃討したなら、なんで次の週にまた出るんだい」
俺は頷いた。
「そこを調べに来た」
「調べて、どうなる」
「分からん」
俺は正直に言った。
「分からんが、どこから何匹出ているかを数えれば、対策の立てようがある。今は、それも分かっていない」
ハルマは、じっと俺を見た。
この手の年寄りは、口先を嫌う。だから俺は「必ず解決する」とは言わない。
言えないことは言わない。それだけで、たいていの年寄りは話を聞いてくれる。
「……で、その娘は」
「助手だ」
「見ない顔だね。どこの子だい」
マリが、少し背筋を伸ばした。
「マリ、です」
「マリ。……ふうん」
ハルマは、彼女の髪をじろじろ見た。
黒髪だ。この村では、まず見ない。
俺は口を挟もうとして――やめた。
ハルマは、それ以上何も言わなかった。代わりに、家の奥へ顎をしゃくった。
「飯は出すよ。二人ぶん」
◇
その日の午後、俺は村を歩いた。
測るためだ。
まず、集落の外周。塀の全長。門の位置。畑の広がり。井戸。家畜小屋。
歩幅で拾って、野帳に落とす。
マリが縄を持って後ろについてきた。
「なにを、はかる?」
「全部だ」
「ぜんぶ」
「被害の場所を書き込むには、まず村の図が要る」
彼女は納得した顔をした。
この娘は、こういう順番の話をすぐ飲み込む。
塀を測りながら、俺は積み方を見ていた。
急いでいる。石の大きさが揃っていない。目地に土を詰めただけの箇所がある。
高さは、俺の胸くらい。
――低い。
人を止めるには足りる。四つ足の獣なら、跳ぶやつは跳ぶ。
だが、そこは指摘しないでおいた。
この塀は、三月かけて村総出で積んだものだ。低いと言われて嬉しい人間はいない。
それに、塀そのものは無駄ではない。
無駄でないことは、後で数字で示せばいい。
◇
井戸のところで、子どもが四人、こちらを見ていた。
マリが手を振った。
子どもたちは逃げた。
少しして、一人だけ戻ってきて、遠くから叫んだ。
「おまえ、かみのけ、へんだぞ!」
マリは、その言葉を聞き取れなかったらしい。
「なんて」
「――髪が珍しいと言ってる」
俺はそう訳した。
嘘ではない。少し丸めただけだ。
「めずらしい」
「そうだ」
「いいこと?」
「悪いことじゃない」
マリはしばらく考えて、それから自分の髪を一房つまんで、子どもの方へ突き出してみせた。
子どもは、また逃げた。
◇
三軒目の家で、女房に話を聞いた。
二月前に、山羊を三頭やられたという。
「夜さ。朝起きたら、囲いが壊れてて」
「何時ごろだ」
「夜だよ」
「夜のいつだ。寝る前か、明け方か」
女房は、少し考えた。
「……犬が鳴いたのが、二度目の見回りの後だったねえ」
「二度目の見回りは何時だ」
「日が変わるくらい」
俺は書いた。
〈三軒目。山羊三頭。二月前。深夜〉
次の家。
〈六軒目。畑荒らし。一月半前。明け方〉
次。
〈十一軒目。鶏。一月前。深夜〉
村長の家に戻る頃には、十七件が埋まっていた。
◇
夕飯の席で、村の男が四人来た。
昼間に門にいた連中も混じっている。
「なあ、測量士さん」
一人が、皿を突きながら言った。
「あんた、朝から何をやってんだ」
「数えてる」
「数えて、獣が減るのか」
「減らん」
俺は麦粥をすくった。
「だが、あんたらが今どこを守るべきかは分かる」
男が笑った。
「そんなもん、俺らが一番知ってらあ。この村に何年住んでると思ってる」
「じゃあ、訊くが」
俺は野帳を開いた。
「被害が一番多いのは、村のどの方角だ」
「そりゃ――北だな」
他の三人も頷いた。
「北の畑がやられる。塀も北から積んだ」
「なぜ北だと思う」
「山があるからだろ。獣は山から来る」
俺は野帳を卓に置いた。
開いた頁には、村の図と、十七の印がある。
「十七件のうち、北は五件だ」
男の手が止まった。
「東が九件。南が二件。西が一件」
「……そんなはずは」
「日付順に並べると、もっと分かる」
俺は指で辿った。
「三月前の四件は、全部北だ。だから、あんたらの記憶は間違ってない。最初は北だった」
「だろう」
「先月の七件は、六件が東だ」
男は野帳を覗き込んだ。
俺は続けた。
「今月の三件は、全部東の、しかもここから半里以内に固まってる」
卓が静かになった。
「移ってるんだ」
俺は言った。
「北から東へ、順番に。あんたらは北に塀を積んだ。積んでる間に、獣は東へ回った」
誰も何も言わなかった。
ハルマが、鍋の柄杓を持ったまま俺を見ていた。
「……三月かけて、誰も気づかなかったってのかい」
「気づけないですよ」
俺は皿を置いた。
「一件ずつ見てたら、分からない。全部並べないと出てこない」
男の一人が、ゆっくり座り直した。
「……東の、半里以内」
「そうだ」
「そこに、遺跡があるぞ」
俺は頷いた。
「知ってる。だから明日、そこへ行く」
◇
(――かっこいい)
私は、その一部始終を横で見ていた。
言葉は半分くらいしか分からなかった。
でも、空気が変わったのは分かった。
昼間、門のところで「地図屋が来ても獣は死なん」って笑ってた人が、今、身を乗り出して野帳を覗き込んでいる。
ハルトさんは、声を荒げなかった。
一度も。
ただ、紙を出して、数字を並べただけだ。
(――これ、私がやってたやつだ)
記録保管所で、五十六件を並べ替えて、周期を見つけた時。
あの時、私がやったのと同じことを、この人は毎日やっている。
それが仕事なんだ、この人は。
私は麦粥をすくいながら、少しだけ、誇らしい気持ちになった。
自分の手柄でもないのに。




