本日も、帰る
一年が過ぎた。
俺は、毎朝サルカドへ降りる。
二百四十段は、二百六十二段になった。
崩れた石段を組み直したとき、少し伸びた。
組み直したのは、俺と、見習い三人と、ハルマの連れてきた村の男たちだ。
半年かかった。
◇
石段の一段目に、窪みがある。
右寄りだ。
百年ぶんの誰かが、ここで足を止めた。
組み直すとき、俺はその石だけは残した。
◇
俺は、そこに足を置く。
そして、唱える。
――シャルカディ・オム・ネイア。
◇
我らの、繋ぎ目へ、帰ろう。
意味を知って、一年になる。
知って唱えても、音は変わらない。
変わったのは、俺のほうだ。
◇
降りると、柱がある。
一万四百二十七の刻み。
毎年、数え直している。
去年も一万四百二十七だった。
変わっていない。
◇
その下に、白い場所がある。
オルソがいる。
俺は、床に手を当てる。
一度。
置いたまま。
◇
オルソも、同じことをする。
それから、床に描く。
円が二つ。接点。三つの点。
接点の幅を、毎日測って書いていく。
◇
一年で、幅は少し太くなった。
一分の三十分の一ほどだ。
誤差かもしれない。
だが、細くなってはいない。
千年、細くなり続けていたものが、止まった。
◇
俺は、それを野帳に書く。
〈接点幅、変化ナシ〉
変化がないと書くのが、一番大事な仕事だ。
二十一年、俺はそれをやってきた。
◇
セレンは、記録の書き直しを続けている。
二十年分を、全部やり直している。
三年かかると言っていた。
今、一年目が終わったところだ。
◇
彼女は、月に一度、王都へ行く。
読めぬ書を読むためだ。
カランディア王家が、閲覧を許可した。
許可を取ったのは、ヨナの帳面だ。
あれが、王家を動かした。
◇
ヨナは、去年の冬に死んだ。
医者の言った通りだった。
最後まで書いていたという。
書いたものは、全部セレンのところへ来た。
◇
レイヴが、星導省の当主になった。
組織の名は変わった。
「星導省地誌調査局」から、「地誌記録局」になった。
奪う言葉を、名前から外したのだと、あの男は言った。
◇
家を焼いた一派は、記録で潰れた。
俺が測って、セレンが書いて、レイヴが提出した。
殺していない。
誰も殺さずに終わった。
――二年二月前の俺なら、そうしなかった。
◇
フェイラの店は、南区で続いている。
あの夜、出した椅子は使われなかった。
「無駄だったね」と本人は言う。
言いながら、毎年その日は椅子を出す。
◇
ダウムは、まだギルド長だ。
なぜやっているかは、今も答えられないという。
だが、去年から一つ言い方が変わった。
――「次の奴が困らんように」
◇
俺は、見習い三人を教えている。
歩幅を固めさせ、記号を覚えさせ、天井高を目で当てさせる。
一番若いのが、十八になった。
まだ、縄が撓む。
◇
その三人に、俺は一つだけ余計なことを教えた。
寸法ではないことだ。
――降りる前に、帰ろうと言え。
意味は教えた。
教えたのは、俺が初めてだ。
百年、誰も教えなかった。
◇
狐は、卓の上にいる。
背中の模様が、光っている。
一年、消えていない。
毎朝、俺はそれを確かめてから出る。
◇
野帳の最後の頁に、数字が書いてある。
今日で、三百六十六日目だ。
閏の年だった。
――向こうも、閏だろうか。
◇
二年二月前、俺たちは暦が一致していることを見つけた。
三百六十五日。四年に一度、三百六十六日。
星が一つも同じでないのに、長さだけが同じだ。
あの時、俺たちは言葉にできずに止めた。
今も、説明はできない。
◇
だが、数えている。
あの娘も、向こうで数えているはずだ。
日付だけは必ず測れと言った。
あの娘は、言われたことは必ずやる。
◇
次の重なりは、百三十一年後だ。
俺は、そこにいない。
だから、書いている。
毎日、書いている。
◇
いつか誰かが、この綴りをめくる。
紙の色が層になって、めくるたびに筆跡が変わる。
几帳面な字、雑な字、線の細い字。
その中に、俺の字がある。
◇
俺は、寸法を書く。
通路幅、四尺五寸。
天井高、八尺二寸。
接点幅、変化なし。
◇
書いて、最後に一行足す。
寸法ではない一行だ。
百年前の誰かが、たった一度書いた行。
俺は、それを毎日書いている。
◇
〈本日モ、帰ル〉
◇
朝、俺は石段の一段目に立つ。
右寄りの窪みに、足を置く。
息を吸う。
◇
――シャルカディ・オム・ネイア。
我らの、繋ぎ目へ、帰ろう。
◇
二十一年、俺はこの言葉を唱えてきた。
二十年は、意味を知らずに。
一年は、知って。
どちらの二十年も、俺は帰ってきた。
◇
言葉は、道具だ。
崩して使えば、壊れる。
正しく使えば、開く。
それだけのことを知るのに、俺は四十四年かかった。
◇
石段を降りる。
二百六十二段。
数えながら降りる。
◇
降りきったところで、俺は一度立ち止まる。
柱の前だ。
灯りを、斜め後ろの少し高い位置に置く。
誰も持っていない。
◇
置いてから、俺は言う。
毎朝、同じことを。
◇
「――帰ろう」
◇
返事は、まだない。
だが、俺は測量士だ。
変化がないことを毎日確かめるのが、仕事だ。
◇
明日も、降りる。
〈了〉




