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ドリチン《機械じかけのエレクト》  作者: 伏見トキナ
第三章|STANDARD ── 世界標準の身体
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第八話|一億円

 黒川慎吾の人工ペニスの値段が三千万円から一億円へ値上がりしたのは、地下設備室の壁をドリチンで破壊した翌日のことだった。


 もちろん慎吾自身は値上げを希望していないし、そもそも売りに出した覚えもない。朝から《股間で壁を破壊する謎の作業員》という動画が転載され続け、篠宮からはPGS規格の実用性が外部へ知られた可能性があると言われ、東都バイオメカニクスからは鳥居名義で《当該映像に関する第三者への説明は控えてください》という、何の権限があって言っているのかよく分からないメールまで届いたが、それでも仕事はあるので、慎吾はいつも通り城南設備管理へ出勤した。


 事務所へ入るなり、安井がスマートフォンを差し出してきた。


「三十万」


「何がですか」


「再生回数」


「見せなくていいですよ」


「コメントも増えてるぞ。《股間施工》《人間ハンマードリル》《これが働き方改革か》」


「読まなくていいです」


 慎吾は作業鞄を机へ置き、自分のパソコンを立ち上げた。動画の中では顔がはっきり映っていないことだけが救いだったが、勤務先の制服は見えているため、会社名まで特定されるのも時間の問題だろう。実際、朝から代表電話には「昨日の壁を壊していた人は御社の社員ですか」という問い合わせが二件入っており、片方は建築関係の会社だったが、もう片方は名乗らずに切ったらしい。


「ところで黒川」


 安井が椅子へ座りながら言った。


「昨日助けた山根さん、足の打撲だけだって」


 慎吾はそこで初めて手を止めた。


「そうですか」


「今日には帰れるらしい」


「ならよかったです」


「ドリチン、役に立ったな」


「そこまでセットで言わなくていいでしょう」


 それでも、山根が大きな怪我をしていなかったと聞けば素直に安心した。あの機械がなければ消防の到着まで待っただけかもしれないし、結果が同じだった可能性もあるが、少なくとも昨日は自分の身体へ取り付けた機械で壁に穴を開け、その向こうから一人引っ張り出した。そこだけ考えれば悪くない。そこから先を考えると、大抵ろくなことにならなかった。


 その日の仕事は五時半には終わり、慎吾は銀色のケースを持って会社を出た。動画の件があるので、篠宮からは一人で人気のない場所へ行かないよう言われていたが、四十四歳の男が仕事帰りに毎日誰かへ送り迎えしてもらうわけにもいかず、駅へ向かう通りには人も多いので、慎吾自身もそこまで神経質になる必要はないと思っていた。


 男が待っていたのは、前回とほとんど同じ場所だった。紺色のコートではなく今日は薄いグレーのジャケットを着ていたが、駅前の不動産屋から出てきた営業担当と言われれば、そのまま信じてしまいそうな顔をしている。


「黒川さん」


 慎吾は足を止めた。


「またあんたか」


「先日はどうも」


「どうもじゃないですよ」


 男はいつものように進路を塞がず、慎吾から二メートルほど離れたところで立っていた。


「少しお時間いただけませんか」


「その前に名前くらい教えてもらえます?」


 男は一瞬意外そうな顔をしたあと、内ポケットから名刺を出した。前回は受け取らなかったが、今回は慎吾も手を伸ばす。


 《柏木俊一》


 その下には小さく《技術移転・事業仲介》とだけ印刷されており、会社名らしいものはなかった。


「個人?」


「今はそうです」


「今はって何ですか」


「以前はいくつか医療機器関係の案件を扱う会社にいましたが、現在は企業間の技術移転やライセンス交渉を仲介しています」


「要するにブローカー?」


「その呼び方でも構いません」


 柏木は気分を害した様子もなく答えた。この男の嫌なところは、慎吾がどれだけ雑に返しても、全部商談の範囲として受け止めることだった。


「で、今日は何ですか。三千万なら昨日断りましたよ」


「その件なのですが」


 柏木は少しだけ笑った。


「一億円でいかがでしょう」


 慎吾は歩道の真ん中で黙った。


 昨日より驚かなかったのは、この数日で金銭感覚まで壊れ始めているせいかもしれない。


「三千万じゃなかった?」


「状況が変わりました」


「俺のチンコの相場、三日で三倍になったの?」


 通りすがりの女性が一瞬こちらを見たので、慎吾は声を落とした。柏木は周囲など気にせず続ける。


「正確には、PGS-01そのものに一億円という意味ではありません」


「じゃあ何に?」


「規格情報一式です」


 柏木は慎吾が持っている銀色のケースへ視線を落とした。


「機械接続部の寸法、ロック機構、給電仕様、制御通信、認証方式、各アタッチメント側の実装情報、それからX-00に保存されている接続履歴が揃えば、PGS共通接続規格のかなりの部分を再構築できます」


 数日前に同じ男から「接続規格だけでも」と言われたときには、その意味をほとんど理解していなかった。だが、篠宮と鳥居からPGS共通接続規格の話を聞いた今なら、柏木が欲しがっているものが人工ペニスそのものではないことくらいは分かる。それが余計に気持ち悪かった。


「それなら、俺じゃなくてもいいんじゃないですか」


「本来なら、その通りです」


 柏木はあっさり認めた。


「設計資料が完全な形で残っていれば、わざわざ黒川さんへお願いする必要はありません。ただ、第六研究班の計画中止後、資料は各部署へ分散し、共同研究先へ渡ったものは回収され、一部は廃棄されました。現在、規格の全体像を把握できる資料がどこにどれだけ残っているのか、東都自身も正確には把握していないはずです」


「何であんたがそれ知ってんです?」


「それを知りたい人間から依頼を受けていますので」


「誰から?」


「それは申し上げられません」


「一億円出す人?」


「正確には企業です」


 慎吾は名刺を見てから柏木を見た。話の規模だけが大きくなり続けている。自分は昨日まで地下設備室で給水管を見ていたはずなのに、今日は名前も知らない企業が、自分の股間に入っている接続規格へ一億円を提示している。


「それで俺は何すればいいんです?」


「ケース一式を一定期間お預かりし、PGS-01本体の接続部を計測させていただきます。X-00から必要なログを複製できれば、それで十分です」


「本体は外さない?」


「できれば実装状態のまま確認したいですね」


「俺、立ち会うんですよね?」


 柏木は少し考えた。


「その方が理想的です」


「その言い方怖いんだよ」


 慎吾は名刺を返そうとしたが、柏木は受け取らず、「お持ちください」と言った。


「断ります」


「金額は交渉できます」


「そういう問題じゃないです」


「では、何が問題でしょう」


 柏木は本当に分からないらしかった。慎吾は一度銀色のケースを持ち直した。


「これ、俺の身体なんですよ」


「PGS-01は医療機器です」


「俺の身体についてる医療機器だよ」


「機器としての価値と、黒川さんの身体性は分けて考えることもできます」


「俺は分けられないんですよ」


 事故から二年。ようやく手に入れた身体だった。篠宮の夢も、東都の知的財産も、身体拡張市場の将来性も、慎吾にはどうでもいいとは言わない。それでも朝起きてトイレへ行き、風呂へ入り、着替えて仕事へ行くとき、PGS-01を次世代規格などと考えたことは一度もない。自分の身体として使っている、それだけだった。


「黒川さんご自身が、現在もっとも完成度の高いリファレンス機ということになります」


 柏木は穏やかな声のまま言った。


 慎吾の眉間に皺が寄った。


「人をリファレンス機って呼ぶな」


「失礼しました」


「絶対思ってないだろ」


 柏木は否定しなかった。慎吾は話を切り上げ、そのまま駅の方へ歩き出したが、十歩ほど進んだところで後ろからまた声がした。


「一つだけ、確認してもいいですか」


 慎吾は立ち止まったものの、振り返らなかった。


「何です?」


「装着者がお亡くなりになった場合、PGS-01は医療機器として回収することが可能ですよね」


 今度は、すぐに返事が出なかった。街の音だけが耳へ入ってくる。信号機の電子音、駅前を走るバス、居酒屋の呼び込み、その全部がさっきまでと何も変わらない中で、慎吾はゆっくり振り返った。


 柏木は笑っているわけでも、脅しているような顔をしているわけでもなく、ただ契約条件の不足項目でも確認するような表情で慎吾を見ていた。


「……今、俺が死んだらって話しました?」


「仮定の話です」


「その仮定、俺にする必要あります?」


「技術資産の扱いとしては重要です」


 慎吾はそこで初めて、この男との距離を一歩取った。三千万円を提示されたときには、頭のおかしい買い手だと思った。一億円になっても、金で何でも買えると思っている嫌な仲介屋くらいにしか思っていなかった。


 しかし今の一言だけは違う。この男自身が慎吾を殺すとは限らない。たぶん、そんなことはしない。ただ、この男の向こう側には、慎吾が死んだ方が話が早いと考える人間がいてもおかしくない。


「帰ります」


 慎吾はそれだけ言って歩き出した。柏木は追ってこなかった。駅へ入り、人の多い改札を抜け、電車に乗ってからも、慎吾は何度か後ろを確認した。途中までは考えすぎだと思っていたが、二度乗り換えて最寄り駅へ着いたところで、ホームの反対側に見覚えのない男が立っているのに気づいた。


 黒いジャケットを着た三十代くらいの男で、電車の中でも二両ほど離れた位置にいたような気がする。慎吾が階段を下りると男も下りた。改札を抜けても距離は変わらない。


 慎吾は自宅へ向かわず、駅前のコンビニへ入り、飲み物を一本手に取って奥の棚を回った。ガラス越しに見ると、男は店へ入らず、道路の向こうに立ってスマートフォンを見ている。


「……マジかよ」


 慎吾は篠宮へ電話した。


『はい』


「今、たぶん尾行されてます」


『今どちらですか?』


 場所を伝えると、篠宮は警察へ連絡するよう言った。


「します。ただ、家に帰りたくないんですよ。住所もう割れてるし」


『人の多い場所から離れないでください』


「そうしたいんですけど、あいつずっといるんですよ」


 慎吾はコンビニを出ると、駅前を反対方向へ歩いた。男も動いた。これでほぼ確定だった。慎吾は警察へ電話しながら商店街を抜け、少しでも人通りのある大通りへ出ようとしたが、工事中の区画で歩道が狭まり、誘導されるまま一本裏へ入ったところで前方から別の男が現れた。


 偶然かもしれない。そう思いたかったが、後ろを振り返ると黒いジャケットの男が距離を詰めている。


 慎吾は走った。四十四歳の設備屋なので、映画の主人公のようには走れない。銀色のケースを片手に持っているせいで余計に遅く、角を曲がったところで息が上がり始めた。前方には古い立体駐車場があり、出入口のバーが上がっている。慎吾は中へ飛び込んだ。二階へ上がるスロープを走りながらスマートフォンを耳へ当てる。


「篠宮さん!」


『はい』


「ワイヤーのやつ!」


『C-03ですか?』


「それ! 俺ごと引っ張れます?」


『最大牽引荷重は約百二十キロです』


「俺八十ちょい!」


『荷重だけなら問題ありません』


「荷重だけって何だよ!」


 二階まで上がると、反対側は隣の建物との間に細い搬入路があり、その向こうには非常階段が見えた。普通なら飛び越えようとも思わない距離で、慎吾自身も飛ぶつもりなどなかった。


 だが、C-03ならワイヤーを向こうの鉄柵へ固定し、そこまで身体を引っ張れるかもしれない。問題は、その装置を装着しなければならないことだった。


「何で逃げながらチンコ換装しなきゃならねえんだよ!」


『私に言われても困ります』


「作った側だろ!」


 慎吾は駐車してあるワゴン車の陰へ滑り込み、銀色のケースを開けた。D-05の隣に収まっているC-03を取り出しながら、数日前なら見ても用途すら分からなかった機械を今では自分から選んでいることに気づいたが、そんなことに感慨を覚えている時間はなかった。そして、作業着ではなく普通のズボンなので余計に面倒だった。


「人来ませんよね……」


 誰に聞くでもなく周囲を確認し、最低限だけ前を開けてPGS-01へC-03を接続する。短い起動音が鳴ったところで、階下から靴音が響いた。


「早いんだよ!」


 慎吾は車の陰から出た。


 向こう側の鉄柵へ狙いをつける。


「篠宮さん、これ撃てばいいんですよね?」


『固定できる構造物を狙ってください。細い手すりは避けてください』


「今言う?」


『今聞かれましたので』


 慎吾は柵の太い支柱へ狙いを定めてC-03を発射し、金属音とともに飛び出したアンカーが支柱へ食い込むと、ほとんど間を置かずにワイヤーがぴんと張った。


「いけた!」


『急激に巻き取らないでください』


 慎吾は制御を入れた。


 次の瞬間、腰が前へ持っていかれた。


「うおっ!」


 想像していたより速い。慎吾の身体が駐車場の端へ引かれ、そのまま柵を越えたところまではよかったが、向こう側へ綺麗に着地するほど身体能力は高くない。ワイヤーを支点に身体が振られ、慎吾は隣の建物の壁へ肩から激突した。


「ぐあっ!」


 スマートフォンが手から落ちそうになり、銀色のケースが壁へぶつかる。どうにか非常階段の踊り場へ足を掛けたものの、格好良さは一ミリもなかった。


『黒川さん?』


「痛えよ!」


『骨盤ですか?』


「肩だよ!」


『骨盤には異常ありませんか?』


「そこだけ無事ならいいみたいに言うな!」


 慎吾はワイヤーを巻き取って非常階段を下り、人通りのある道路へ出たところで少し先に交番が見えるのを確認し、振り返って二人の男が追ってきていないことを確かめてから、ようやく足を止めた。


 肩には壁へぶつけた痛みが残り、息もまだ上がったままで、しかもズボンの中にはC-03ワイヤーアンカーが装着されたままだった。そして右手には、次世代身体拡張規格の実働見本が十種類入った銀色のケースがある。慎吾は交番へ向かいながら、さっき柏木に言われた一言を思い出していた。


 装着者がお亡くなりになった場合。


 あの言葉が出るまでは、まだ面倒事だったはずで、会社ともめ、変な仲介屋から金を提示され、家を荒らされ、意味の分からない機械を抱えて走り回る羽目にはなっていたものの、どうやらそこから先は少し種類が違うらしい。


 機械のチンコに一億円の値段が付いた瞬間、持ち主の命まで付属品になったようだった。

お読みいただきありがとうございます。

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