第七話|ドリチン
黒川慎吾が、自分から進んでドリチンを使おうと思ったのは、それが初めてだった。
前日までなら、そんなことを考えるだけでも篠宮佳澄に何か負けたような気がしていたし、そもそも正式名称は《D-05 高トルク穿孔ユニット》であって、ドリチンという呼び方そのものを最初に口にしたのは慎吾であるにもかかわらず、いつの間にか周囲まで普通にそう呼び始めたことにも納得していなかった。
それでも、その日の午後二時過ぎ、地下設備室の奥から聞こえてくる男の声が次第に弱くなり、床を這ってきた水が慎吾の安全靴の先へ触れたとき、営業車に積んである銀色のケースの中身を思い出さないわけにはいかなかった。
現場は大田区にある古い物流施設だった。
築三十年以上になる四階建ての建物で、一階から三階までは倉庫、四階には事務所が入り、地下には受水槽や給水ポンプ、電気設備、それに建物の増改築を重ねるたび少しずつ継ぎ足された配管が、誰が最初に考えたのか分からない順番で天井を走っている。城南設備管理が日常的に管理している建物ではなかったが、改修工事を請け負っている会社から設備側の立ち会いを頼まれ、慎吾と安井が朝から現場へ入っていた。
仕事自体は珍しいものではなく、古いポンプを止め、新しい系統へ切り替える際に既存設備へ影響が出ないか確認するだけの予定だった。
慎吾にとってはありがたい話だった。ここ数日、自分の人工ペニスが会社資産だと言われたり、三千万円で買い取ると言われたり、挙げ句には次世代身体拡張規格の実働見本だと判明したりしており、普通の設備仕事だけで一日が終わるなら、それだけで十分だった。
朝、篠宮からは《PGS関連機器の所在には十分注意してください》とメッセージが届いていたが、自宅はすでに一度荒らされているため、銀色のケースを置いてくる方がよほど怖い。東都バイオメカニクスからは不用意に持ち歩くなと言われているものの、持ち歩くなと言った三日前には持ってこいと言われていたので、慎吾の中で会社の指示に対する信用はすでにかなり低かった。
結局、ケースは営業車の後部座席へ置き、その上にいつものブルーシートをかけていた。
「また持ってきたの?」
現場へ着いたとき安井に聞かれたので、慎吾はヘルメットを被りながら答えた。
「家に置いといたら盗まれそうなんですよ」
「会社に置く?」
「会社にも一回来たでしょう」
「じゃあ銀行の貸金庫でも借りるか」
「何て説明するんですか」
「高価な機械部品」
「嘘ではないのが腹立つな」
そんな話をしていた午前中までは、確かに普通だった。異変が起きたのは、午後の切り替え作業が始まってから二十分ほど経った頃だった。
最初に聞こえたのは、何か重い物が落ちる鈍い音で、その直後に建物全体の照明が一度消え、非常灯だけが白く点いた。地下の奥で作業していた改修業者の誰かが叫び、慎吾が振り返ったときには天井付近から細かな埃が落ちてきていた。
「電源落ちたぞ!」
安井が声を上げる。
「主幹じゃない!工事側見て!」
慎吾はヘルメットのライトを点けて奥へ向かった。設備室と倉庫側の間には、後から増設された軽量コンクリートの間仕切り壁があり、その脇を通る古い配管の撤去作業をしていたらしい。何らかの拍子に吊り材の一部が外れ、使われていない配管とケーブルラックがまとめて落下し、壁際に立ててあった資材まで巻き込んで通路を塞いでいた。さらに悪いことに、その向こう側へ作業員が一人取り残されていた。
「山根!聞こえるか!」
工事責任者の男が壁際から叫ぶと、少し遅れて向こうから声が返ってきた。
「……聞こえます!」
「怪我は!」
「脚、ちょっと挟まってます!動けますけど、扉が開かない!」
幸い意識はある。消防にはすぐ連絡が入り、救急も向かっているというので、慎吾も最初は待つつもりだった。余計なことをして状況を悪化させる必要はないし、救助の専門家でもない設備屋が張り切る場面でもない。ところが床へ広がってきた水を見た瞬間、その考えが変わった。
「これ、どこから漏れてる?」
慎吾がしゃがんで指先で水へ触れると、責任者が奥を指した。
「向こう側です。落ちた配管かも」
水量そのものはまだ多くないが、流れてくる方向が悪かった。慎吾は壁際まで近づき、耳を澄ませる。向こうでは断続的に水の落ちる音がしており、山根という作業員の声も先ほどより遠く感じる。
「山根さん、足元に水来てます?」
「来てます!」
「どのくらい?」
「くるぶし……いや、まだそこまでは!」
慎吾は壁と天井を見上げた。漏れているのが給水管なら、時間が経てば量は増える可能性がある。停電しているうえ、落下した資材で扉は歪み、正面から開けるにはまず瓦礫を動かさなければならない。
消防は向かっている。待つのが正しい。頭では分かっていた。しかし、壁の向こうから聞こえてきた山根の声が、次に返ってきたときには明らかに弱くなっていた。
「……黒川」
安井が横から慎吾を見る。
「分かってます」
「俺、まだ何も言ってないけど」
「顔に書いてあります」
慎吾はもう一度壁を見た。軽量コンクリートの間仕切りで、構造体ではない。図面も朝のうちに確認しているし、この区画には慎吾が立っている側から見て右寄りに電線管が一本、左上に細い給水枝管が通っている。中央下部には大きな設備配管はなかった。
人が通れるだけの開口を作るなら、場所は選べる。問題は、何で穴を開けるかだった。通常ならハンマードリルかコアドリルを持ってくる。
だが停電している。発電機は地上の工事車両にあるが、取りに行って準備する時間も要る。慎吾は非常灯に照らされた廊下でしばらく壁を見てから、ものすごく嫌そうな顔で営業車の方向を振り返った。
安井がその顔を見た。
「あるの?」
「あります」
「何が」
「……穴開けるやつ」
安井も数秒黙ったあと、その意味に気づいた。
「ああ」
「ああ、じゃないですよ」
「ドリチン?」
「現場でその名前呼ぶのやめてください」
慎吾は地上へ上がると、営業車の後部座席から銀色のケースを引っ張り出した。ブルーシートをめくって蓋を開けると、昨日まで次世代身体拡張規格だの知的財産だのという大仰な話の中心にいた十種類の機械が、今日も何事もなかったように整然と収まっている。
その中からD-05を取り出した。
銀灰色の筒状ボディに交換式の穿孔部が付き、接続部にはPGS共通規格の端子が並んでいる。初めて見たときには、どう考えても人間の股間に取り付ける必要のない物だと思ったし、その判断自体はいまも変わっていない。
ただし、今は穴を開けたい。そしてこれは、穴を開けるためだけに真面目な技術者たちが作った機械だった。慎吾はスマートフォンを取り出し、篠宮へ電話をかけた。
二度目の呼び出しで繋がる。
『はい、篠宮です』
「今、仕事先で事故があって」
声を聞くなり事情を説明すると、篠宮は途中で口を挟まず、壁の材質と厚さ、停電していること、作業員が向こう側へ取り残されていることまで聞いた。
『D-05なら穿孔可能だと思います』
「ですよね」
『ただし周囲の配線、配管、構造材を確認したうえで使用してください』
「そこは俺も設備屋なんで分かってます」
慎吾は一度D-05を見た。それから、できれば一生口にしないつもりだった言葉を、自分から言った。
「……篠宮さん」
『はい』
「ドリチン、使います」
受話口の向こうが静かになった。ほんの二秒ほどだったが、慎吾には十分長かった。
『今、ご自分から ──』
「そこ拾うな!」
近くにいた安井が横を向いて笑った。慎吾は電話を切りたくなったが、使い方について確認する必要があるため我慢した。
「とにかく、使いますから。何か注意点あります?」
『以前お伝えした通り、回転中に急激な姿勢変更をしないでください。トルクリミッターは有効ですが、反力は骨盤側へ逃がす設計ですので、上半身だけで押し込もうとしない方が安定します』
「腰で受けろってことですね」
『そうです』
「何でこんな説明だけ妙に実用的なんだよ」
通話を終えると、慎吾は地下へ戻った。工事責任者には、試験用の特殊作業機器を使うとだけ説明した。嘘ではない。問題は装着する場所だった。
「皆さん、ちょっと向こう行っててもらえます?」
「何で?」
「準備があるんで」
「手伝いますよ」
「絶対いらないです」
慎吾が強めに言うと、責任者は不思議そうな顔をしながら離れた。安井だけが残ったので、慎吾は睨んだ。
「安井さんも」
「俺も?」
「むしろ一番いてほしくないです」
「冷たいな」
「今から俺のチンコにドリル付けるんですよ。普通は一人でやらせるでしょう」
「普通が分かんねえよ」
慎吾にも分からなかった。
非常階段脇の死角へ入り、作業着の前を必要なだけ開けてPGS-01のロックを解除する。D-05を接続すると短い電子音が鳴り、起動確認の振動が腰へ返ってきた。これまで何度か接続してきたせいか、手順そのものにはもう迷わない。それが少し嫌だった。
現場へ戻ると、工事責任者の視線が慎吾の腰のあたりへ落ちた。
「それ……そこに付くんですか?」
「今はそこ気にしないでもらえます?」
「いや、でも」
「人、閉じ込められてますよね?」
「そうですね」
責任者は黙った。
慎吾は壁の前へ立ち、図面と実際の配管位置をもう一度見比べた。向こうにいる山根へ声をかけ、壁から少し離れられるか確認すると、「何とか」と返ってくる。
開口を作る位置を決め、D-05の先端を壁へ当てた。腰を前へ出す。自分でも何をしているのかと思った。しかし電源を入れた瞬間、その感想を考えている余裕はなくなった。
低い回転音が立ち上がり、先端が壁面へ食い込むと、細かな粉塵が足元へ落ち始める。反力は予想以上だったが、篠宮が言った通り骨盤全体で受ければ姿勢は保てるし、両手が完全に空いているので、慎吾は片手を壁へ添えながら周囲の振動や亀裂を確認できた。
数秒ごとに回転を止めて位置を確かめながら、少しずつ穴を増やし、開口の輪郭を作っていく。必要以上に深く入れないのは、壁の向こうに人がいるからだ。絵だけ見れば、四十四歳の設備屋が股間のドリルで壁を掘っている。だが、やっている本人は真剣だった。
「黒川!」
後ろから安井が声をかけた。
「右、ちょっとヒビ走ってる!」
「見えてます!」
慎吾は一度停止し、位置をずらした。粉塵が作業着に積もり、額から汗が落ちる。思った以上に腰へ来る。
「これ、長時間使うもんじゃねえな……」
「ドリチン頑張れ!」
「俺を応援しろよ!」
周囲で見ていた作業員の一人が吹き出したが、慎吾は構わず再び回転させた。最後の部分を抜くと、壁の向こうから空気が流れ、拳二つ分ほどの穴が開いた。慎吾はライトを向ける。
「山根さん、見えます?」
穴の向こうで人影が動いた。
「見えます!」
「そこから広げます。離れてて!」
そこからは早かった。穴を基準に必要な範囲だけ穿孔し、脆くなった部分を慎重に外していくと、やがて人が屈んで通れる程度の開口ができた。
向こう側では山根が床へ座り込み、片脚の脇に落ちた資材を押し退けながらこちらを見ていた。幸い脚そのものが潰されているわけではなく、隙間へ挟まって動けなくなっていただけらしい。慎吾と安井、それに工事責任者が開口から手を伸ばし、山根をこちら側へ引き出した。
消防隊が到着したのは、その数分後だった。救急隊員に引き渡された山根は、壁際に座ったまま水を飲み、何度か咳をしたあと、少し離れたところでD-05を外そうとしていた慎吾を見た。
「黒川さん」
「はい?」
「さっきの……何なんですか?」
慎吾は返答に困った。高トルク穿孔ユニットです、と言えば間違いではないが、それだけではなぜ自分の腰の下から伸びていたのか説明できない。ドリチンです、と答えるのはもっと嫌だった。考えた末、慎吾は一番正式な言葉を選んだ。
「人工ペニスです」
山根が水のペットボトルを持ったまま止まった。
横にいた安井が言った。
「ドリチンだろ」
「黙っててください」
山根は一度慎吾を見て、それから破られた壁を見たあと、どういう顔をすればいいのか決められないまま「助かりました」と頭を下げた。
慎吾もそれ以上説明しなかった。結果として人は助かったのだから、そこだけ見ればいい話だったし、慎吾自身もその日の帰り、銀色のケースを営業車へ積みながら、D-05について初めて少しだけ見方を変えていた。
篠宮が言っていたことを全部理解したわけではない。身体を失った人間が以前にはなかった機能を選べるとか、義肢が欠損を補うだけのものではなくなるとか、そんな立派な話を自分の人生へ当てはめる気もない。
ただ今日、普通の電動工具が使えない場所で、自分の身体へ接続した機械が役に立った。人まで助かった。その事実だけは認めてもよかった。
「……夢の技術、ねえ」
営業車のドアを閉めながら呟くと、隣で安井が聞いた。
「何?」
「何でもないです」
慎吾はそのまま帰った。問題が起きたのは、翌朝だった。目を覚ましてスマートフォンを見ると、安井からメッセージが三件届いており、一件目には《お前これ?》とだけ書かれていた。
その下に動画のリンクがある。嫌な予感しかしなかったが、開かないわけにもいかない。再生すると、昨日の地下設備室が映った。
撮影したのは改修業者の誰からしく、少し離れた位置から慎吾の背中と破られていく壁が映っている。粉塵の向こうで作業着姿の男が腰を壁へ向け、その先でドリルが回転していた。
顔はほとんど見えない。しかし何をしているかは、嫌になるほどよく見えた。動画にはすでに妙な題名が付いていた。
《股間で壁を破壊する謎の作業員》
慎吾はベッドの上で画面を見たまま固まった。再生回数は、昨夜投稿されたばかりなのに十万を超えている。コメント欄には《何これ》《どういう構造?》《腰強すぎる》《新しい工具?》《令和のドリル男》と好き勝手なことが並び、その中に一件だけ《これPGS規格じゃないか?》と書かれており、慎吾の指が止まった。直後、篠宮から電話がかかってきた。
「……見ました?」
『見ました』
「消せませんか、これ」
『投稿者には削除を依頼した方がいいと思います。ただ、すでに転載されています』
慎吾は枕へ顔を押しつけたくなった。
『それと、黒川さん』
篠宮の声が少し変わった。
「何ですか」
『昨日までPGS規格は、外部の人間にとって資料上の存在でした。実働状態を確認できた人間は限られています』
慎吾はもう一度動画を見る。壁へD-05を当て、実際に穿孔し、人が通れる穴を作っている。確かにこれ以上分かりやすい実演はない。
『この映像で、少なくともD-05が人体接続状態で実用可能なことが外部へ示されました』
「……だから?」
篠宮は少し間を置いた。
『PGS規格の価値が上がると思います』
慎吾はスマートフォンを耳へ当てたまま天井を見た。三日前に三千万円と言われたばかりだった。昨日は次世代身体拡張規格の見本だと言われた。今日はその実演映像まで世界へ出ている。
「篠宮さん」
『はい』
「俺、人助けしただけですよね?」
『はい』
「何で人助けして、自分のチンコの市場価値が上がるんですか」
篠宮は答えなかった。たぶん、答えがなかった。慎吾は再生中の動画を止め、スマートフォンをベッドへ置いた。
どうやら夢の技術というものは、人を助けた瞬間から、夢だけでは済まなくなるらしい。
お読みいただきありがとうございます。
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