第五話|買い取らせてもらえませんか
その日の仕事を終えた黒川慎吾が城南設備管理の事務所を出たのは、午後七時を少し回った頃だった。
品川の現場から戻ったあとも報告書を仕上げ、翌日の作業予定を確認し、最後に営業車の後部座席から銀色のケースを降ろしていると、安井が自分の鞄を肩へ掛けながら怪訝そうにこちらを見た。
「それ、今日も持って帰るの?」
「持って帰りますよ」
「毎日?」
「俺だって好きで持ち歩いてるわけじゃないですよ」
ケースは見た目だけなら高価な測定器でも入っていそうな、ごく普通のアルミ製だった。中身が照明、消火装置、ワイヤーアンカー、超音波探傷機、ドリルその他であり、そのすべてが人工ペニスへ接続するために作られたものだとは、外から見ても分からない。その点だけはありがたかった。
「会社の金庫に入れとくか?」
安井の提案に慎吾は一瞬考えたものの、昨日までは東都バイオメカニクスが会社まで回収に来ており、今日は会社とは別の何者かがPGS-01へ外部接続を試みている。そんな状況で職場へ置いて帰るのも、自宅へ持ち帰るのも、どちらが安全なのか判断できなかった。
「いや、持って帰ります。何かあったとき安井さん巻き込むのも嫌なんで」
「もう十分巻き込まれてる気がするけどな」
「それ以上ですよ」
「それ以上があるのか」
慎吾自身、あまり想像したくなかった。
駅まで歩き、電車を乗り継いで最寄り駅へ着いた頃には八時を過ぎていた。昼間は暖かかったが、夜になると風が少し冷たく、仕事で埃をかぶった作業着の襟元から入り込んでくる。駅前のスーパーで弁当でも買って帰ろうかと思いながら、慎吾はケースを右手から左手へ持ち替えた。
本来なら今日という日は悪くなかった。久しぶりにまともに仕事をして、設備を見て、工具を使い、故障を直した。途中で股間を光らせたり三本目の手を生やしたりしたことを除けば、事故以前から何百回も繰り返してきた普通の一日だった。
それだけに、駅前の通りを曲がったところで知らない男から自分の名前を呼ばれたとき、慎吾はかなり露骨に嫌な顔をした。
「黒川慎吾さんですよね」
男は四十歳前後に見えた。
紺色のコートに白いシャツ、細身のパンツという格好で、髪も靴もきちんとしており、昨日マンションまで押しかけてきた回収業者のような威圧感はない。手ぶらで立っている姿だけなら、保険会社か不動産会社の営業と言われても違和感はなかった。
だからこそ余計に嫌だった。
「どちら様ですか」
「少しだけ、お話よろしいですか」
「よくないです」
慎吾がそのまま歩こうとすると、男は進路を塞ぐでもなく、隣へ並ぶように二歩だけついてきた。
「PGS-01、お持ちですよね」
慎吾の足が止まった。
駅前の通りには会社帰りの人間が何人も歩いており、コンビニの前では高校生らしい二人組がスマートフォンを覗き込んでいる。信号が変われば車が流れ、少し離れた居酒屋からは笑い声も聞こえてくる。そのごく普通の夜の中で、自分の人工ペニスの型番だけが、不自然なほどはっきり耳へ入った。
「……誰ですか、あんた」
「名乗るほどの者ではありません」
「その台詞、本当に言う奴いるんだな」
男は少しだけ笑った。
「東都バイオメカニクスの方ではありませんので、ご安心ください」
「それ聞いて安心すると思います?」
慎吾が持っている銀色のケースへ男の視線が落ちた。
一瞬だったが、慎吾は見逃さなかった。
「それも、PGS関連の拡張ユニットですよね」
慎吾は反射的にケースを身体の反対側へ移した。
「どこで知ったんですか」
「少し特殊な医療機器ですから、興味を持つ人間はいます」
「答えになってないですよ」
「おっしゃる通りです」
男は怒るでもなく、困るでもなく、ただ会話を続けていた。慎吾を脅している様子もないし、無理にケースを奪おうともしていない。それなのに、昨日の鳥居や宮地よりも気味が悪かった。
会社の人間なら目的は分かる。自社の機械を回収したいのだ。方法には問題があったとしても、一応そこには会社なりの理屈がある。しかし目の前の男には、慎吾が理解できる立場そのものがなかった。
「単刀直入に申し上げます」
男はそう言って、駅前の雑踏の中で営業の見積もりでも提示するような口調のまま続けた。
「PGS-01と、そのケースを買い取らせていただけませんか」
慎吾はしばらく男の顔を見た。何を言われたのか分からなかったわけではない。分かったからこそ返事が遅れた。
「……何を?」
「PGS-01です」
「だから、それ俺についてるんですけど」
「承知しています」
「承知した上で買うって言ってんの?」
「はい」
男はあまりにも普通に答えた。
慎吾は周囲を見回した。誰かがこちらを見て笑っているわけでもなく、撮影している人間もいない。悪質なドッキリなら、まだそちらの方が話が早かった。
「ちなみに、おいくらをお考えでしょうか」
「考えてねえよ」
「三千万円でいかがです?」
慎吾はもう一度黙った。
三千万円という金額は、設備管理会社で働く四十四歳の男にとって、聞き流せる数字ではない。住宅ローンを組むときなら何度も電卓を叩く金額だし、普通に働いて普通に暮らしていれば、現金で目の前へ積まれることなどまずない。
だから慎吾は一瞬だけ、自分の人工ペニスが三千万円すると考えてしまった。そして、そのことに腹が立った。
「何で俺のチンコ売る話になってんだよ」
男の眉がわずかに動いた。
「人工ペニスです」
「お前まで訂正するのかよ」
今日は朝から二人目だった。慎吾は額を押さえたくなったが、ケースを持っている手を空ける気にもなれなかった。
「売りません。っていうか売れません。これ身体なんで」
「もちろん、身体そのものを売買するという意味ではありません。あくまで機器としてのPGS-01と付属ユニットに対する対価です」
「だから、それを外したら俺が困るんですよ」
「代替機の手配については、こちらでも ──」
「いらねえよ」
慎吾は即座に遮った。半年前、手術台へ上がるまでにどれだけ迷ったか、この男は知らない。
事故で陰茎を失ってから、排尿のたびに感じた不自由も、風呂場の鏡を見ないようになったことも、人工ペニスを装着して初めて事故以前に近い身体を取り戻したときの安堵も、この男にとってはどうでもいいことなのだろう。
三千万円という値札を付けた時点で、それは慎吾の身体ではなく、希少な試作機になっている。
「お金の問題ではない、ということですね」
「最初からそう言ってます」
「でしたら、本体でなくても構いません」
男は少し考えるように顎へ指を当て、それから慎吾が持っているケースを見た。
「接続規格だけでも」
「もっと意味分かんねえよ」
「PGS共通接続規格の実寸データ、制御プロトコル、認証方式のいずれかでも結構です。特に機械的接続部の情報だけでも価値があります」
「俺、その辺の意味ほとんど分かってませんけど」
「ご本人が理解されている必要はありません」
その言葉が、妙に引っかかった。
本人が理解する必要はない。昨日まで自分が知らなかっただけで、PGS-01には保守通信機能があり、外部から管理権限で接続できる仕組みまで入っていた。そのことを思えば、慎吾自身が知らないところで、この機械について知っている人間が何人いるのか分からない。
「今日の昼、俺のPGSに接続しようとしました?」
初めて男の表情が止まった。本当にわずかな変化だったが、それまで営業用の笑顔を崩さなかった男が、答えるまでに一拍置いた。
「何のお話でしょう」
「十四時三十七分」
慎吾は篠宮から聞いた時間をそのまま口にした。
「東都の管理IDじゃないところからアクセスがあった。あんたらですか」
男は笑顔を戻した。
「私には技術的なことは分かりません」
「じゃあ誰なら分かるんです?」
「今日は購入のご相談だけです」
「俺は売る相談してません」
慎吾が歩き出すと、今度は男も追ってこなかった。
数歩進んだところで後ろから声がした。
「気が変わりましたら、いつでも」
振り返ると、男は小さな名刺を差し出していた。
慎吾は受け取らなかった。
「連絡先くらい、お持ちになっても損はないと思いますが」
「三千万円のチンコ売れって言う奴の連絡先を、何に使うんですか」
男は少し考えてから名刺を引っ込めた。
「確かに、その表現ですと必要ありませんね」
「そっちが始めた話だろ」
それ以上会話する気になれず、慎吾は駅前のスーパーにも寄らず、そのまま家へ向かった。歩きながら篠宮へ電話をかけたが、打ち合わせ中なのか応答はなかった。代わりに《知らない男からPGSを三千万で買うと言われた》とメッセージを送ろうとして、文章だけ見れば自分が妙な詐欺に遭っているようにしか見えなかったため、一度消した。
結局、《会社以外の人間からPGSの買い取りを持ちかけられました。昼のアクセスと関係あるかもしれません》とだけ送った。
玄関前へ着いたのは八時半を過ぎた頃だった。
鍵を差し込みながら、慎吾は何となく違和感を覚えた。扉そのものは閉まっている。鍵も普通に回る。しかしドアを開けた瞬間、いつも玄関の脇に置いている折り畳み傘が倒れているのが見えた。
朝、倒した覚えはなかった。
慎吾は中へ入らず、扉を半分開けたまま立ち止まった。玄関から見える廊下の先で、リビングの扉が開いている。
朝は閉めて出たはずだった。
慎吾は銀色のケースを床へ置かず、そのまま持って数歩だけ中へ入った。リビングを見た瞬間、足が止まった。テレビもノートパソコンも、棚に置いていた財布代わりの小銭入れも残っている。それなのに、引き出しだけが全部開けられていた。
机の中身が床へ落とされ、書類が散らばり、押し入れの収納ケースも引き出されている。寝室へ行くと、ベッド下の箱まで開けられ、クローゼットの服は片側へ押しやられていた。
金目の物を探したようには見えなかった。むしろ、何か一定の大きさの物が入っていそうな場所だけが、片っ端から調べられている。
慎吾は手に持っていた銀色のケースを見た。
改めて見れば、荒らされているのはどこも、このケースと同じくらいの物を隠せそうな場所だった。机の下、クローゼット、ベッドの下、収納棚。全部だ。
「……これ探したのかよ」
声に出した途端、部屋の中が急に静かになった。
慎吾は玄関まで戻ると外へ出て、扉を閉めてから警察へ電話した。中を確認した限り人の気配はなかったが、これ以上自分で歩き回る理由もない。数日前までなら、空き巣に入られたとなれば財布やパソコンを心配していたはずなのに、今は右手に持っているケースだけがやけに重かった。
電話を切った直後、篠宮から着信が入った。
『黒川さん、先ほどのメッセージですが』
「篠宮さん」
『はい』
「たぶん三千万の話、もうちょっと面倒になりました」
『何がありました?』
慎吾は閉じた自宅のドアを見た。
「家、荒らされてます」
受話口の向こうが静かになった。
「現金もパソコンも残ってます。たぶん、こいつ探してます」
慎吾は銀色のケースを少し持ち上げた。
もちろん篠宮には見えない。
『ケースですか』
「たぶん」
『黒川さん、そこから離れてください。警察には?』
「もう呼びました」
『では、絶対に一人で室内へ戻らないでください。私も向かいます』
「分かりました」
通話を切り、慎吾は共用廊下の壁へ背中を預けた。
二日前まで、東都バイオメカニクスから人工ペニスを返せと言われていた。昨日は、それが外部から操作できる可能性を知った。今日は三千万円で買うと言われ、断って帰ってみれば部屋を荒らされている。
慎吾は膝の横に置いたケースへ目を落とした。朝は工具箱に見え始めていた。今はもう、どう見ても面倒事の詰め合わせだった。
どうやら機械のチンコというものは、売るつもりがなくても、勝手に市場価格が付くらしい。
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