第二話|使用上の注意
黒川慎吾が自宅のインターホンを鳴らされたのは、翌朝七時十二分だった。
朝食を済ませ、流し台に置いた茶碗へ水を張っていたところで、短い電子音が鳴った。こんな時間に宅配便でも来たのかと思いながらモニターを覗くと、昨日、勤務先まで押しかけてきた東都バイオメカニクスの鳥居が映っていた。
紺色のスーツに銀縁の眼鏡。昨日とほとんど同じ格好で、その隣には宮地と、見覚えのない作業服姿の男まで立っている。
「黒川様、おはようございます。昨日は大変失礼いたしました」
慎吾はモニターを見たまま、しばらく返事をしなかった。
「……何で朝っぱらから来るんですか?」
『昨日ご案内いたしましたとおり、本日はご自宅での回収を予定しておりますので』
「七時ですよ」
『午前七時から九時までの時間帯で、ご訪問の予定を登録させていただいております』
「宅配便じゃねえんだよ」
鳥居は申し訳なさそうに頭を下げたが、帰る気配はなかった。
慎吾は通話を切ると、リビングの隅に置いた銀色のアルミケースを見た。昨夜、帰宅してから一度も開けていない。榊からは誰にも渡すなと言われているし、メーカーは何としてでも回収したがっている。どう考えても、自宅に置いておいて気分のいい物ではなかった。
病院へ電話すると、さらに嫌な知らせが待っていた。
「榊先生、本日お休みなんですか?」
『はい。急遽休診となりまして』
「昨日は普通に診察してましたよ?」
『申し訳ございません。詳しい事情までは、こちらでも把握しておりません』
榊本人の携帯にも繋がらないらしい。慎吾は電話を切り、玄関の向こうにいる三人を思った。昨日までなら、ただ面倒な会社だと思っていれば済んだ。だが担当医が突然休み、その翌朝にはメーカーの社員が自宅まで押しかけている。偶然で片づけるには、少し出来すぎていた。
再びインターホンが鳴った。今度は作業服の男がモニターの正面に立った。
『黒川様、技術担当の者です。PGS-01の状態だけでも確認させていただけませんでしょうか』
「必要ありません。今まで普通に使えてますから」
『でしたら、取り外し作業にも大きな問題はないと思われます』
慎吾は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……あんたら、本当に人の話聞く気ないだろ」
返事を待たずに通話を切った。
今日は午前中だけ会社を休むことにした。安井へ事情を伝えると、昨日の経緯を知っている彼は驚くこともなく、警察に相談した方がいいとだけ言った。
警察に相談する。それが正しいことくらい、慎吾にも分かっていた。問題は、その警察へ行くためには、まず玄関の外にいる連中をどうにかしなければならないことだった。
モニターを確認すると、鳥居たちは廊下から姿を消していた。諦めたとは思えないが、少なくとも玄関前にはいない。慎吾は通勤鞄を肩に掛け、アルミケースを持った。四十四歳にもなって、自分の家からどうやって逃げるかを考える日が来るとは思わなかった。しかも理由は、人工ペニスの回収だった。
玄関を開けて廊下を確認し、そのまま非常階段へ向かう。マンションの裏手へ出るまでは何事もなかった。駐輪場の脇を抜け、駅へ続く細い道へ出ようとしたところで、黒いワンボックスカーがゆっくりと前へ出てきた。昨日も見た車だ。運転席から降りてきた男が、慎吾を見て笑った。
「黒川さん、おはようございます」
昨日、帰宅途中に声をかけてきた男だった。
「……あんたもいるのかよ」
「病院までお送りします。専門の技術者も待機しておりますので、そちらで回収手続きを進めさせていただきます」
「どこの病院ですか?」
「詳細は到着してからご案内いたします」
「じゃあ乗りません」
慎吾が横を通ろうとすると、男は自然な動きで進路を塞いだ。
「こちらも仕事ですので、できれば穏便に済ませたいんですよ」
「俺だって昨日からずっと穏便に済ませようとしてるんですよ」
「でしたら、お車へ」
「だから嫌だって」
背後から足音が近づいた。振り返ると、宮地と作業服の男が駐輪場を抜けてくるところだった。慎吾は三人を見比べ、ようやくスマートフォンを取り出した。
「もう警察呼びますよ」
作業服の男が一歩近づいた。
「黒川さん、ちょっと失礼します」
慎吾の腕を掴み、スマートフォンを下げさせる。同時に宮地がアルミケースへ手を伸ばした。昨日までは書類を突き返せば済んだ。今日は違った。
「触るなって!」
慎吾はケースを引き寄せ、作業服の男の腕を振りほどいた。宮地が再び取っ手へ手を掛けたので、反射的に足を踏む。
「痛っ!」
その一瞬で慎吾は走った。マンションの裏手には給水設備や電気設備を収めた小さな機械室がある。普段なら施錠されているはずだが、その日は設備点検でも入っていたのか、扉がわずかに開いていた。慎吾は中へ飛び込み、内側から扉を閉めた。
薄暗い室内には給水ポンプと制御盤が並び、壁沿いを太い配管が這っていた。設備管理の仕事をしている慎吾には見慣れた光景のはずなのに、逃げ道を探して見回すと、今日はどこもかしこも機械に塞がれているように見える。駆けてくる足音が次第に大きくなり、そのまま扉のすぐ向こうで止まった。
「黒川さん、開けてください!」
宮地の声だった。
慎吾はスマートフォンを取り出したが、さっき揉み合った際に落としたらしく、画面には大きなひびが入っていた。電源ボタンを押しても反応がない。
「……マジかよ」
扉の取っ手が激しく揺れた。
機械室には人が出入りできるような窓もなく、奥にある点検口も人間が通れる大きさではない。慎吾は周囲を見回し、最後にアルミケースへ目を落とした。
榊からは絶対に使うなと言われているし、中に何が入っているのかも二種類しか知らない。それでも、外では三人の男が扉をこじ開けようとしていた。慎吾はケースを床へ置き、留め金を外した。
黒い緩衝材の中には、十種類の拡張ユニットが昨日と変わらず整然と並んでいた。真っ先に目に入ったのはドリルだったが、壁を掘って逃げるには時間がかかりすぎる。
その隣に、黒い筒状の部品がある。
《A-04 高圧射出ユニット》
榊の説明では、専用の弾体を圧縮機構で射出する装置だった。
要するに、弾が出る。
慎吾はそれを取り出した。裏側に貼られた小さなラベルには、《人体装着試験用/使用時は周囲の安全を確認すること》としか書かれていない。
「いや、もっと書くことあるだろ」
扉の蝶番がもう一度嫌な音を立て、慎吾はとうとう諦めた。人工ペニスの標準ユニットには、メンテナンス用の交換機構がある。普段は病院で扱ってもらうものだが、緊急時には手動でロックを解除できるようになっていた。
事故から二年かけてようやく取り戻した身体の一部を、追っ手から逃げるためにマンションの機械室で外し、その代わりに銃を取り付ける日が来るとは思わなかった。
慎吾は自分でも嫌になるほど慎重に高圧射出ユニットを接続した。小さな電子音とともに内部機構が動き、《接続確認》の表示が出る。
「……本当に動くのかよ」
自分で取り付けておきながら、慎吾は少しだけ動かないことを期待していた。側面には《SAFE》《FIRE》と刻まれたスイッチがある。慎吾は数秒迷った末、それを《FIRE》へ動かした。
モーター音が、一段高くなった。そこで、もう一つ大きな問題に気づいた。狙いをつける方法が分からない。手で持つ武器なら腕を向ければいい。しかし、これは人工ペニス用の拡張ユニットである。慎吾が腰を動かすと、その動きに合わせて銃口が動く。慎吾は扉の鍵を見て、それから自分の股間を見た。
「……馬鹿じゃねえの」
悪態をついていても扉は待ってくれない。慎吾は膝を曲げ、身体を少し傾け、どうにか鍵のあたりへ向ける。傍から見れば、薄暗い機械室で中年男が奇妙な姿勢を取っているだけだった。
ただし股間には銃が付いている。
「黒川さん、最後のお願いです。扉を開けてください!」
「最後って何だよ!」
怒鳴り返した瞬間、扉が強く揺れた。慎吾の身体も反射的に動き、轟音が響いた。何が起きたのか理解するより先に、慎吾は背中から床へ転がり、積んであった配管部材へ突っ込んだ。耳鳴りの中で、水の噴き出す音が聞こえる。
顔を上げると、扉の鍵は無傷だった。その代わり、反対側の壁を走っていた給水配管に穴が開き、勢いよく水が噴き出していた。
「……そっちかよ!」
慎吾は慌てて立ち上がった。ここから先は、設備屋としての身体が勝手に動いた。漏水箇所を確認し、系統を追い、壁際の止水バルブへ向かう。
ところが、歩き出した途端、股間の装置から電子音が鳴った。
《連続射出モード》
慎吾は思わず足を止めた。意味を理解するより先に、内部の回転音が再び高くなっていく。
「……ちょっと待て。連続って何だよ」
スイッチへ手を伸ばしたときには遅かった。二発目が発射され、今度は制御盤の扉へ直撃した。金属板がへこみ、火花が散る。その瞬間、機械室の照明が落ち、給水ポンプの駆動音まで止まった。
代わりに建物中へ警報ベルが響き始めた。
暗闇の中、慎吾は立ち尽くした。穴の開いた給水配管からはまだ水が流れ、制御盤は沈黙している。足元には工具と配管部材が散乱し、その惨状の真ん中で、股間の高圧射出ユニットだけが妙な存在感を放っていた。
どう考えても、逃げる前より状況が悪くなっている。そのとき扉が開いた。通路から差し込んだ明かりの中に宮地が立っていた。
「黒川さん! 何をしてるんですか!」
慎吾が振り向くと、宮地の視線がゆっくり下へ移動し、股間の装置で止まった。二人は数秒間、黙って向かい合った。
「……黒川様」
「何だよ」
「それ、A-04ですか?」
「そうだよ!」
宮地の顔色が変わった。
「それ、まだ人体装着試験終わってないですよ!」
「先に言えよ!」
言い終わるのとほぼ同時に、天井のスプリンクラーが作動した。大量の水が降り注ぎ、宮地が頭を抱えた。慎吾はケースを掴み、宮地の横をすり抜けて通路へ飛び出した。後を追おうとした宮地は濡れた床で足を滑らせ、背後で派手な音を立てた。
外へ出ると、マンションの住人たちが集まり始めていた。誰かが消防へ通報したらしく、遠くからサイレンも聞こえている。慎吾は建物の裏へ回り、人目のない場所で高圧射出ユニットを《SAFE》へ戻した。内部の回転音が止まったことを確認すると、ひとまず上着で腰回りを隠し、壁際へ身体を預けた。
濡れたシャツの裾から落ちる水が、足元の銀色のアルミケースへ垂れていた。
昨日までは、会社へ行って設備を直し、帰れば適当に飯を食って寝るだけの生活だった。それが今では、自宅マンションの機械室を壊し、股間から弾を撃って逃げている。どこからおかしくなったのか考えてみたが、たぶんドリルを見せられたあたりから全部おかしかった。
しかも、あの装置はまだ人体装着試験すら終わっていなかったらしい。どうやって人目につかず標準ユニットへ戻そうか考えていると、建物の角から鳥居が走ってきた。髪もスーツもびしょ濡れで、眼鏡には水滴が付き、昨日までの整った会社員らしさはすっかり失われていた。
「黒川様、大変なことになりましたね」
慎吾は男の顔を見た。
「……誰のせいだと思ってんだよ」
「その点につきましては、弊社としても責任を重く受け止めております。ただ、今回の件につきましては、使用上の注意を守っていただけなかったことも一因ではないかと ──」
慎吾は耳を疑った。
「何ですか?」
「拡張ユニットは試験機材ですので、使用を控えていただくようお願いしていたはずです」
慎吾はアルミケースを持ち上げた。
昨日から追い回され、今朝は自宅まで押しかけられ、スマートフォンを壊され、挙げ句の果てには車へ乗せられそうになった。それでも、この男は使用上の注意を守れと言う。
「あんたらが追い回さなきゃ、使ってねえよ!」
鳥居は黙った。遠くで消防車のサイレンが近づいてくる。慎吾はケースを抱え直した。
機械のチンコを装着して半年。初めて拡張機能を使った結果、追っ手からは逃げられた。代わりに、マンションの機械室を壊した。
どうやら機械のチンコというものは、使わなくても困るが、使えばもっと困るらしい。
お読みいただきありがとうございます。
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