第一話|回収対象
電話の向こうで三浦と名乗った男は、少々お待ちくださいと言って保留にした。
東都バイオメカニクスから人工ペニスの回収について連絡が来たのは、病院を出て十分も経たない頃だった。慎吾は駅前の歩道でアルミケースを足元に置き、通行人を避けながら待っていたが、電話から流れてくる妙に明るい保留音を聞いているうちに、だんだん腹が立ってきた。
一分ほど経って、三浦が戻ってきた。
『お待たせいたしました。確認いたしましたところ、黒川様のPGS-01は現在、弊社の貸与機器として登録されております』
「それは分かりましたけど、だからって返せるもんじゃないでしょう」
『ごもっともでございます。弊社といたしましても、できる限りご負担のない形で回収を進めたいと考えております』
「ご負担のない形って、どういうことですか?」
『まずは拡張ユニット一式を回収させていただきまして、その後、人工ペニス本体について医療機関と日程を調整させていただきます』
慎吾は足元のケースを見た。
「ちょっと待ってください。本体って、俺の身体についてるやつですよね?」
『はい。PGS-01本体でございます』
「それを外す日程を調整するってことですか?」
『そのような認識で相違ございません』
「相違しかねえよ!」
通りかかった女性が振り向いたので、慎吾は慌てて声を落とした。
「いいですか、三浦さん。これ、会社から借りたパソコンとかじゃないんですよ。返却期限が来たからって、箱に入れて送り返せるもんじゃないでしょう」
『おっしゃることは理解しております。ただ、研究契約上は弊社の所有物という扱いになっておりまして』
「じゃあ聞きますけど、俺の身体は誰の所有物なんですか?」
三浦は再び黙り、電話の向こうでキーボードを叩き始めた。どうやら誰かに確認しているらしい。慎吾は腕時計を見た。もう午後一時を回っている。このままでは会社に着くのが遅くなる。
『黒川様、大変申し訳ございません。身体の所有権につきましては、弊社の担当部署では回答いたしかねます』
「当たり前だろ!」
慎吾はとうとう電話を切った。
これ以上話していても埒が明かない。そもそも榊医師から、正式な対応が決まるまで何も引き渡さないよう言われている。会社が何を主張しようと、まずは病院へ確認するべきだろう。
そう考えてアルミケースを持ち上げたところで、再びスマートフォンが震えた。
《本日、担当者が直接ご説明に伺います》
慎吾は画面を見つめた。まだ電話を切って十秒も経っていない。しかも、その下には勤務先の会社名と住所が記載されていた。
「……勝手に決めんなよ」
慎吾はメッセージを閉じると、足早に駅へ向かった。
勤務先の《城南設備管理》に到着したのは、午後一時四十分を少し過ぎた頃だった。五階建ての雑居ビルの三階にある事務所へ入ると、総務の安井が顔を上げた。五十二歳の安井とは十年以上の付き合いがあり、慎吾の事故についても詳しく知っている。
「黒川さん、病院どうだった?」
「検査は問題なかったんですけど、ちょっと面倒なことになりまして」
「何、また手術?」
「いや、そういう話じゃないんですけど……」
慎吾がアルミケースを机の横へ置くと、安井が珍しそうに覗き込んだ。
「何それ、新しい工具?」
「まあ、工具みたいなもんです」
「会社で買ったの?」
「違います。病院でもらいました」
「病院で工具?」
安井は不思議そうな顔をしたが、それ以上は尋ねなかった。慎吾も説明する気にはなれなかった。人工ペニスを装着していることは安井も知っているが、そこへドリルを取り付けられるようになったことまで報告する必要はないだろう。
ところが、発注書を一枚作り終えたところで、内線電話が鳴った。
「黒川さん、受付にお客様なんだけど。東都バイオメカニクスの鳥居様って方、知ってる?」
慎吾はキーボードを打つ手を止めた。
「……もう来たんですか?」
一階の受付へ下りると、スーツ姿の男が二人立っていた。一人は銀縁の眼鏡をかけた痩せた男で、もう一人は少し若く、黒いビジネスバッグを抱えている。眼鏡の男が名刺を差し出した。
「東都バイオメカニクス、資産管理部の鳥居と申します。こちらは同行しております宮地です」
鳥居は丁寧に頭を下げると、鞄から一枚の書類を取り出した。
「さっそくですが、こちらが試験機材の返却確認書になります。ご署名いただければ、すぐに回収を完了できますので」
受け取った書類には、見慣れた形式で返却品目が並んでいた。設備管理の仕事でも、機材の貸与や返却に関する書類はよく扱う。慎吾が署名欄より先に品目を確認すると、拡張ユニット十点とPGS-01本体一点、合わせて十一点が記載されていた。
「これ、本体も入ってますよね?」
「はい。管理上は同一契約となっておりますので」
「本体は返しませんよ。それにケースも、病院の先生から勝手に渡すなと言われてるんです」
「承知いたしました。それでは、こちらの書類はいかがでしょうか」
鳥居は鞄から別の書類を取り出した。
《PGS-01関連機材一時返却及び本体回収同意書》
「……本体回収って書いてありますけど」
「はい。後日、本体を回収することにご同意いただくための書類です」
「だから、それには同意しないって言ってるでしょう!」
鳥居は初めて少し驚いた顔をした。
「しかし黒川様、こちらにご同意いただけませんと、拡張ユニットの回収手続きも進められないんです」
「だったら書類を分けてくださいよ」
「弊社の管理システム上、同一契約に紐付けられておりますので」
「じゃあシステムを直せよ!」
鳥居はしばらく考えたあと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「そちらは情報システム部門の管轄になりますので、私どもでは対応いたしかねます」
慎吾は天井を見上げた。どうやら東都バイオメカニクスには、人工ペニスへドリルを取り付ける技術はあっても、返却書類を二枚に分ける技術はないらしい。
「とにかく、今日は帰ってください。病院の先生に確認するまで何もしませんから」
「では、終業後に改めてお伺いしてもよろしいでしょうか」
「駄目です」
「勤務先の外でお待ちする分には、問題ございませんか?」
「そういう話じゃないんですよ」
鳥居は宮地と顔を見合わせたが、結局それ以上は食い下がらず、二人揃って丁寧に頭を下げた。慎吾はようやく解放され、事務所へ戻った。
午後四時を過ぎた頃、安井が窓際で妙な声を上げた。
「黒川さん、あれ、さっきの人たちじゃない?」
慎吾が覗くと、道路の向こうに黒いワンボックスカーが停まっていた。鳥居と宮地がその横で話をしており、ときおり事務所のあるビルへ目を向けている。
「……まだいるんですか?」
「ずいぶん熱心だねえ。何か揉めてるの?」
慎吾は仕方なく、人工ペニスの回収について簡単に説明した。安井は黙って聞いていたが、メーカーが本体の返却を求めていると知ると、露骨に顔をしかめた。
「それ、返せるの?」
「返せないですよ。身体についてるんですから」
「そりゃそうだよね。じゃあ、あの人たちは何を待ってるの?」
「俺が返すのを待ってるんでしょうね」
安井はもう一度窓の外を見た。
「変な会社だねえ」
慎吾もまったく同感だった。
それからしばらくして、安井の机にある内線電話が鳴った。受話器を取った安井は、相手の話を聞くうちに眉をひそめ、慎吾の方を向いた。
「黒川さん、また鳥居さんなんだけど。本人が対応できないなら、代理人の署名でもいいんだって。会社の上司でも構わないって言ってるけど」
慎吾は思わず椅子から立ち上がった。
「何で安井さんが俺のチンコの返却に同意するんですか!」
事務所の奥で、若い社員が顔を上げた。安井も固まった。慎吾は自分が何を叫んだのか理解した途端、ゆっくりと椅子へ座り直した。
「……すみません」
「いや、まあ、事情は分かるけどさ」
安井は受話器を押さえたまま、困ったように笑った。
「そういうのは、自分で決めた方がいいと思うよ」
「分かってますよ……」
安井は電話の相手に、本人の同意がない以上、会社としても対応できないと伝えた。どうやら鳥居は納得していないらしかったが、安井は構わず電話を切った。
「黒川さん、今日はもう帰ったら? 裏の搬入口から出れば、あの人たちに会わずに済むでしょ」
慎吾は窓の外を見た。鳥居は車に戻り、宮地はスマートフォンを操作している。あの様子では、正面玄関から帰れば間違いなく捕まるだろう。
「……そうしますか」
「別に悪いことしてるわけじゃないんだから、堂々と帰ればいいんだけどね」
「堂々と帰ったら、また書類出してくるんですよ」
安井は苦笑した。
「そこまで熱心なら、営業に回せばいいのにね」
午後五時半、慎吾はアルミケースを片手に地下倉庫を抜け、裏の搬入口から外へ出た。配送業者の軽トラックが一台停まっているだけで、人影はない。ようやく帰れると思いながら路地を歩き始めたところで、背後から声がした。
「黒川様!」
振り向くと、宮地がこちらへ走ってきた。その背後から鳥居も現れたが、先ほどまでの書類は持っておらず、二人とも慎吾のアルミケースを見ていた。
「……何でいるんですか?」
「申し訳ございません。やはり、そちらの機材だけでも本日中に回収させていただきたく」
「だから、先生に確認するまで渡せないって言ってるでしょう!」
慎吾は二人の脇を通り抜けようとしたが、そのとき宮地がアルミケースの持ち手へ手を伸ばした。
「でしたら、こちらだけでもお預かりしますので」
慎吾は反射的にケースを引いた。
「おい、何すんだよ!」
「黒川様、こちらは弊社の所有物ですので」
「だから勝手に持ってくなって言ってるだろ!」
慎吾がケースを引っ張ると、宮地も引いた。二人の間で銀色の箱が揺れ、留め金が金属音を立てた。騒ぎを聞きつけた配送業者が軽トラックから降りてきたところで、鳥居が慌てて宮地を制止した。
「宮地君、まずい。黒川様、大変申し訳ございません。決して乱暴なことをするつもりはございませんので」
「もうしてんだよ!」
配送業者が警察を呼ぶと言い出すと、鳥居は急に態度を変え、会社の所有物について誤解があったのだと説明し始めた。慎吾はその隙にケースを抱え直し、路地を抜けた。
ところが大通りへ出たところで、黒いワンボックスカーがゆっくりと近づいてきた。運転席には見知らぬ男が座っている。車は慎吾の横を通り過ぎると、少し先の路肩へ停まり、助手席の窓が下がった。
「黒川さんですよね?」
慎吾は足を止めた。
「……誰ですか?」
「東都バイオメカニクスから回収を委託されている者です。よろしければ、お車でお送りしますよ」
男は笑っていたが、その目は慎吾の持っているケースから離れなかった。背後からは鳥居と宮地の足音が近づいている。慎吾はようやく理解した。これはもう、書類の問題ではない。あの連中は、何としてでもケースを持って帰るつもりなのだ。
慎吾は返事をせず、ちょうど青信号に変わった横断歩道へ駆け込んだ。駅の階段を下り、改札を抜けると、ちょうど電車がホームへ入ってくるところだった。慎吾はアルミケースを抱えたまま車内へ飛び込み、ドアが閉まる直前、階段を駆け下りてくる鳥居と宮地の姿を見た。
宮地が何かを叫んだが、電車はそのまま動き始めた。慎吾は空いている席へ腰を下ろし、アルミケースを足元へ置いた。
ただ帰宅するだけで、どうしてこんなに疲れなければならないのだろう。別に悪いことをしたわけではない。医療機器メーカーが開発した人工ペニスを、正規の治験で装着しただけである。しかも、その人工ペニスにドリルだの銃だのを取り付けられるようにしたのは、慎吾ではなくメーカー側だった。
それなのに、何故か自分が逃げ回っている。
慎吾は額の汗を拭い、榊へ電話をかけたが、相変わらず繋がらなかった。仕方なく病院の代表番号へかけ直し、明日の朝に連絡をもらえるよう頼んだ。
今日はもう帰って、ゆっくり風呂に入ろう。冷蔵庫には昨日買った豚肉が残っているし、帰りにキャベツを買えば野菜炒めくらいは作れる。
そう考えたところで、またスマートフォンが震えた。三浦からのメッセージだった。
《黒川様。本日は回収手続きにご協力いただき、誠にありがとうございました》
慎吾は眉をひそめた。協力した覚えなどない。
《本日予定しておりました回収作業につきましては、お客様のご都合により延期とさせていただきました。明日、改めて担当者がお伺いいたします》
どうやら、あの会社では逃走さえも予定変更として処理されるらしい。慎吾は呆れてスマートフォンを鞄へしまおうとしたが、続けて届いたもう一通を見て、手を止めた。
《なお、明日の回収につきましては、ご自宅へお伺いする予定です》
その下には、慎吾が暮らしているマンションの住所が記載されていた。
どうやら機械のチンコというものは、取り付けるよりも、取り付けたまま逃げる方がよほど難しいらしい。
お読みいただきありがとうございます。
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