エピローグ|普通に戻る
あれから数か月が経ち、黒川慎吾は城南設備管理の仕事へ完全に戻っていた。
PGS-01はもう東都バイオメカニクスの資産ではなく、慎吾本人へ正式に譲渡され、遠隔管理権限も解除されたうえ、診断や保守のため外部機器を接続するときには本人の許可が必要な仕様へ変更されている。もう、知らない会社の端末から勝手にアクセスされることもなければ、ある日突然「返却してください」と言われることもない。
事故で陰茎を失い、人工ペニスを装着し、その人工ペニスにドリルやら射出機やら消火装置やらを取り付けているうちに一億円の値段まで付けられたが、そんな騒ぎも終わってみれば、慎吾の身体に残ったのはPGS-01だけだった。
研究機器でも、会社の資産でも、次世代規格のリファレンス機でもない。ようやく、ただの慎吾の身体になった。
平日の午後、慎吾は都内にある雑居ビルの天井裏へ半身を突っ込み、空調機から伸びるドレン配管を確認していた。
築三十年以上の建物なので、天井裏には後から増設された電源線や通信ケーブルが好き勝手に走り、その間を古い冷媒管と給水管が抜けているため、身体を少し動かすだけで肩か頭のどちらかが何かに当たり、慎吾はヘルメットを梁へ擦りながら奥へ進むと、配管の継ぎ手へ手を伸ばしたところでほとんど何も見えなくなった。
「安井」
点検口の下にいた安井が顔を上げた。
「はい?」
「暗い」
「黒川さん、暗い?」
「暗いです」
「ライト持ってく?」
慎吾は返事をする前に、無意識に腰のあたりへ目を落とした。もちろんPGS-01はそこにある。しかし、その先へ取り付けるF-07照明・信号ユニットはもう慎吾の手元にはなく、銀色のケースごと返却しているので、股間から作業灯を照射するという、冷静に考えれば設備管理会社の安全衛生委員会で一度くらい議題にしてもよさそうな作業方法は使えなくなっていた。
以前なら、狭い天井裏で両手を使ったまま視線の先を照らせるF-07は驚くほど便利で、最初こそ人工ペニスへ作業灯を取り付けること自体に強い抵抗があったものの、一度使ってしまえばヘッドライトより首が疲れず、手元灯より自由が利き、身体を向ければだいたい同じ方向へ光が向くという腹立たしいほど合理的な道具だった。
慎吾は何もない腰回りを見たまま少し考えた。
「黒川さん?」
下から安井の声がしたので、慎吾は点検口へ顔を戻した。
「……普通のでお願いします」
「普通じゃないライトあんの?」
「ないです」
安井から小型のLEDライトを受け取り、慎吾はそれをヘルメットのバンドへ差し込んだ。スイッチを入れると普通に明るくなり、股間へ何かを接続する必要もなければ、起動認証もいらず、研究者へ連絡する必要もなく、使用履歴を保存される心配もないので、慎吾は改めて普通のライトというものがかなり完成された道具であることを知った。
「どう?」
「見えます」
「漏れてる?」
慎吾は配管の継ぎ手へ指を当て、断熱材を少しめくった。
「結露ですね。ドレンじゃないです」
「じゃあ保温巻き直しか」
「それで大丈夫です」
それだけだった。
壁を破る必要もなく、人をワイヤーで引っ張る必要もなく、火も出ず、知らない男も現れず、どこかの会社へ機密情報が送られることもないまま、慎吾は脚立を降りると材料を取りに行き、断熱材を巻き直してテープを処理し、作業写真を撮って報告書へ《結露による滴下痕あり。保温材補修》と入力した。
設備屋の仕事というのは、本来このくらいでいい。
午後には別の階で照明交換が入り、そのあと地下のポンプ室で異音がすると呼ばれたので確認へ行ったが、原因はベルトの張りでも軸受でもなく、誰かが制御盤の上へ置いた金属製のクリップボードが振動しているだけだったので、慎吾がそれを持ち上げると音はあっさり止まった。
「直った?」
後ろにいた若い作業員が聞いた。
「直った」
「何だったんです?」
慎吾はクリップボードを見せた。
「これ」
「こんなんで?」
「機械なんてそんなもんだよ」
言ってから、慎吾は少しだけ考えた。機械というものが全部そんなものなら、ここ数か月の騒ぎももう少し簡単に終わっていたはずだが、わざわざ若い作業員へ機械のチンコを巡る規格戦争について説明する必要もないので、クリップボードを棚へ戻し、ポンプの運転音をもう一度確認してから機械室を出た。
定時を少し過ぎたところで会社へ戻り、報告書を送信してロッカーを閉めると、スマートフォンには知らない番号からの着信も、東都からの連絡も、篠宮からの長い技術説明も入っていなかった。
平和だった。
帰りにスーパーへ寄り、値引きシールの貼られた鶏の唐揚げとポテトサラダ、それから六本入りのビールを買って自宅へ戻ると、慎吾は着替えてテレビをつけ、冷蔵庫から一本取り出して缶を開けた。
プシュッ、と音がしただけだった。
人工ペニスが警告音を鳴らすこともなければ、認証エラーも出ず、外から誰かがアクセスしてくることもないので、慎吾はソファへ座ると唐揚げを一つ口へ入れ、ビールを飲んだ。
事故で失ったものが完全に元通りになったとは思っていないし、身体に機械が入っている事実が消えたわけでもないが、それでも朝起きて仕事へ行き、設備を直して、帰宅して風呂に入り、ビールを飲んで寝るという生活が戻ってきたのなら、それ以上について今の慎吾が考える必要はなかった。
世界中の義肢メーカーが共通規格を採用するかどうかも知らないし、東都が何年後までPGSを研究しているのかも、篠宮が夢だと言っていた身体拡張技術が本当に誰かの人生を変える日が来るのかも知らない。
少なくとも今夜の慎吾には関係なかった。
二本目の唐揚げへ箸を伸ばしたところで、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面を見る。
《篠宮佳澄》
慎吾は箸を止めた。
電話ではなく、画像が一枚送られている。
開かないという選択肢もあったし、世の中には知らない方が幸せな取扱説明書があることくらい慎吾はすでに身体で学んでいたので、そのままスマートフォンを伏せてビールを飲み続けてもよかったのだが、結局十秒もしないうちに画面を戻した。
画像を開く。
白い作業机の上に、見覚えのある銀色の機械が置かれていた。形はD-05高トルク穿孔ユニットによく似ているが、以前より基部が少し太く、側面には細長い放熱口が増え、接続部付近には新しい制御回路らしきものが追加されている。
そこまではよかったのだが、問題は先端で、慎吾が画像を一度拡大し、さらにもう一度拡大して確認してみても老眼のせいではなく、どう見てもドリルが二本付いていた。
左右に並んだ二本のドリルが、どう見ても人体、それも慎吾のPGS-01へ接続することを前提とした機械の先端から伸びており、その横には篠宮がわざわざ写り込ませたらしいラベルが置かれていた。
《D-06 高トルク穿孔ユニット改》
慎吾はビールをテーブルへ置いた。
画像を閉じる。
もう一度開く。
やはり二本ある。
一本だったものを二本にする必要性について人類がどの程度切迫した問題を抱えているのか慎吾には分からなかったが、少なくとも篠宮佳澄は、数か月という研究期間を経て、機械のチンコに取り付けるドリルを減らす方向ではなく増やす方向へ進んだらしい。
スマートフォンが鳴った。
《篠宮佳澄》
慎吾はしばらく画面を眺めてから電話に出た。
「篠宮さん」
『はい』
「何で二本になってんだよ」
『画像見ました?』
「見たから聞いてんだよ」
『従来型は回転時の反力が一方向へ偏るため、左右逆回転の二軸方式へ変更しました』
「聞いてねえよ」
『右側を時計回り、左側を反時計回りにすることで回転反力を相殺できますので、姿勢安定性がかなり向上しています』
「そういう問題じゃねえんだよ」
『切削効率も暫定値で二十七パーセントほど ──』
「数字出すな」
『まだ暫定値です』
「暫定値ならもっと出すな!」
電話の向こうで紙をめくる音がした。慎吾には、その音に覚えがあった。篠宮が本気で説明を始めるときの音である。
『それからD-05では高負荷時に接続部へ横方向の応力が集中していましたので、D-06では二軸をわずかに内側へ傾けています』
「知りたくない」
『これによって対象物へ同時に ──』
「知りたくないって言ってんの」
『ただし、実際の装着状態では重心位置が変わりますので』
慎吾は目を閉じた。
「嫌ですよ」
電話の向こうが静かになった。
『まだ何もお願いしていません』
「今からするだろ」
また少し沈黙した。
『装着試験なのですが ──』
「嫌です」
『まだ日時も ──』
「曜日の問題じゃねえよ」
『一時間ほどで終わります』
「時間の問題でもねえ!」
慎吾は電話を切ろうとしたが、その直前に篠宮が呼び止めた。
『黒川さん』
「何です?」
『一つだけお願いがあるんですが』
さっきまで反力だの重心だのと話していたときより妙に改まった声になったので、慎吾はスマートフォンを耳へ当てたまま嫌な予感を覚えた。
「何?」
『D-06を装着するときに、「変身」って言ってもらえませんか?』
慎吾は何も言わなかった。テレビでは天気予報が流れ、明日の降水確率について説明している。慎吾はもう一度、今聞いた言葉を頭の中で確認した。
「……何のために?」
『特に意味はありません』
「ねえのかよ!」
『ただ、せっかく二軸になったので、その方が雰囲気が出るかなと思いまして』
「何の雰囲気だよ!」
『装着シークエンスの』
「そんなもんねえよ!」
『では、「変身」は任意で構いません』
「装着自体やらねえんだよ!」
『そこなんですが、明日の九時半から試験室を押さえてあります』
慎吾はソファから身体を起こした。
「勝手に俺を予定に入れるな!」
『榊先生にも連絡済みです』
「先生まで何了承してんだよ!」
『まだ了承はいただいていません』
「じゃあ連絡済みって言うな!」
篠宮は少し考えるように黙ったあと、何事もなかったように続けた。
『掛け声は「変身」以外でも構いません』
「そこを譲歩するな」
『「D-06、起動」でも』
「やらない」
『「ドリチン、デュアルオン」はどうでしょう』
「絶対やらない」
『私としては「変身」が一番簡潔でいいと思います』
「研究者が真面目に比較検討するな!」
『ではポーズだけこちらで ──』
「いらねえよ!」
慎吾は電話を切った。
部屋が静かになった。さっきまで普通だったはずのテレビでは相変わらず天気予報が流れ、テーブルには唐揚げとポテトサラダがあり、ビールは少しぬるくなっていた。
慎吾はスマートフォンを伏せ、唐揚げを一つ食べた。
三秒後、震えた。
見ない。
また震えた。
慎吾はビールを飲んだ。
さらに震えた。
仕方なく画面を見ると、篠宮から画像が三枚届いていた。
《変身ポーズ案①》
《変身ポーズ案②》
《変身ポーズ案③》
慎吾は開かなかった。
すると、もう一件届いた。
《個人的には②を推します》
慎吾はスマートフォンの電源を切った。これで終わったと思ったところで、インターホンが鳴った。
慎吾は動かなかった。
もう一度鳴る。
宅配便でも頼んだかと考えながら玄関へ向かい、ドアを開けると、制服姿の配達員が両腕で細長い段ボール箱を抱えて立っていた。
「黒川慎吾様でよろしいですか?」
「はい」
「篠宮佳澄様からお荷物です」
慎吾はドアを閉めかけた。
「あ、すみません」
配達員が慌てて箱を抱え直した。
「黒川様ですよね?」
「黒川ですけど、それはいらないです」
「でもお届け物が」
「いらないんです」
配達員は困った顔で送り状を確認し、慎吾も嫌々そこへ目をやった。品名欄には、《研究用義肢拡張機器》と書かれている。
その下には手書きで、《D-06 取扱注意》
さらにその横には、篠宮の字で小さく《変身用》と書き足されていた。
慎吾はしばらくそれを見た。
「受取拒否で」
「よろしいですか?」
「全力でお願いします」
配達員が箱を持ち直したところで、電源を切ったはずのスマートフォンは当然鳴らなかったが、代わりに箱の中から電子音がした。慎吾と配達員が同時に段ボールを見ると、もう一度箱の中から電子音が鳴った。配達員が慎吾を見る。
「……何か動いてます?」
「動かなくていい物が入ってます」
「機械ですか?」
「ドリルです」
配達員が細長い箱を見る。
「二本」
慎吾が付け加えると、配達員はそれ以上聞かなかった。その判断だけは正しいと思った。
「受取拒否でお願いします」
「分かりました」
配達員が箱を抱え直した拍子に、側面へ貼られていた小さな紙が慎吾の目に入った。
《D-06装着試験手順》
その下には篠宮の字で、《①装着者の同意を得る》《②D-06を接続する》《③「変身」と発声》と書かれていた。
慎吾は二番と三番を飛ばし、一番のところへ指を当てた。
「ここで終わりです」
配達員には何のことか分からなかっただろうが、「そうですか」とだけ答えて箱を持って帰っていったので、慎吾はその背中がエレベーターへ消えるまで見届けてから玄関のドアを閉めた。
ようやく、自分の身体へ何を取り付けるかは自分で決められるようになった。
それだけでも十分だった。
どうやら夢の義肢技術というものは、本人の同意を尊重するところまでは進歩しても、変身ポーズまでは諦めてくれないらしい。
そんなことを考えているうちに、慎吾はソファに身体を預け、いつの間にか眠っていた。夢の中では、なぜかまた、あのドリルを装着している。目の前に何がいるのか、そもそも何と戦っているのかも分からない。ただ、慎吾は妙に真剣な顔で腰を落とし、右腕を斜め上へ突き出していた。しかも困ったことに、その姿勢が自分でも驚くほど様になっている。
四十四歳の設備管理会社員が、いったい何を目指しているのか。夢の中の慎吾にも、よく分からなかった。ただ、その口元には、本人が決して認めようとしないであろう、小さな笑みが浮かんでいた。
そして、静かな部屋に、寝言が漏れる。
「へん……しん……」
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