第十二話|返却対象外
黒川慎吾が、東都バイオメカニクスから二度目の書類を渡されたのは、倉庫街にある電子機器を自動販売機までまとめて止めてから十日ほど経った頃だった。
柏木俊一と、篠宮の仕事場へ侵入した二人については警察の捜査が進み、盗まれた規格資料と外部記憶装置も回収され、買い手へ送られようとしていたデータについても、東都側の確認では、完全なPGS規格を再構築できるだけの情報は外部へ渡っていなかったらしい。
細かい捜査状況まで慎吾へ知らされることはなかったが、少なくとも慎吾自身が柏木たちの件で警察や東都と動き回る必要はなくなり、帰宅途中に後ろを気にすることも、自宅へ戻って銀色のケースがなくなっていないか確認することも、知らない番号から電話がかかってくるたびに一億円の話ではないかと疑うことも、ようやくしなくて済むようになっていた。
ようやく普通の生活が戻ってくると思っていた慎吾の前へ、今度は東都から正式な書類が出てきた。
場所は以前と同じ病院の小会議室で、慎吾の向かいには法務・研究管理部の真鍋理恵、その隣に鳥居が座り、慎吾の側には榊と篠宮がいた。机の上には銀色のケースが置かれていたが、中に残っているアタッチメントを使う予定はなく、慎吾としても今度こそ何も撃たず、何も回さず、何も燃やさず、周囲の電子機器をまとめて止めることもなく話を終えたいと思っていた。
真鍋が一枚目の書類を慎吾の前へ滑らせた。
《PGS-01治験機器取扱変更通知》
慎吾は題名を読んだだけで嫌な予感がした。
「また返せって話じゃないですよね?」
「違います」
「本当に?」
「今回は違います」
「前も最初そんな感じだったんですよ」
鳥居がわずかに視線を逸らした。
真鍋は気にせず説明を続ける。
「東都バイオメカニクスと実施医療機関で協議し、病院側の倫理委員会の判断も踏まえた結果、黒川様へ装着済みのPGS-01については、従来の治験機器としての取り扱いを変更することになりました」
慎吾は書類へ目を落とした。文章は相変わらず長く、《身体との不可分性》《侵襲を伴う摘出》《装着者の身体的利益》《説明同意手続》《遠隔保守管理権限》といった言葉が並んでいたが、慎吾が知りたいことはもっと簡単だった。
「つまり?」
真鍋がページの下を指した。
そこだけ太字になっている。
《装着済みPGS-01については回収対象から除外する》
慎吾はそこを二度読んだ。
「返さなくていい?」
「はい」
「外さなくていい?」
「もちろんです」
「あとからやっぱり返してくださいとか言わない?」
「言いません」
「会社が潰れて別の会社に権利売ったら?」
「その場合でも黒川様への所有権移転は有効です」
慎吾は顔を上げた。
「所有権?」
真鍋がもう一枚の書類を出した。
《PGS-01所有権譲渡確認書》
慎吾はしばらく黙ってそれを見た。最初に東都から渡された書類には、人工ペニス本体から銀色のケース、接続ユニットまで全部まとめて返却対象として並べられ、本人が身体に装着したままだと説明しても、書類上は会社の資産だから署名してほしいと言われた。
今度は逆で、書類には、《譲渡対象機器 PGS-01》《譲渡先 黒川慎吾》とあり、そこには間違いなく自分の名前が書かれていた。
「これで本当に俺のものなんですよね」
「はい」
「俺が使っていい?」
「はい」
「風呂入っても?」
「従来通り使用できます」
「トイレも?」
「そこまで逐一確認していただかなくても大丈夫です」
「最初からそうしろよ」
真鍋は何も言わず、鳥居が小さく咳払いし、榊は横で隠す気もなく笑っていた。
「先生、笑ってるでしょ」
「いや」
「笑ってるじゃん」
「半年診てきた患者が、自分の身体を自分のものにするのに法務部まで必要になるとは思わなかっただけだ」
「俺もですよ」
慎吾はもう一度書類を見た。所有権の移転と同時に、東都が保持していた遠隔管理権限も廃止され、PGS-01本体には第三者から直接操作できない制限が追加されるという。
今後の診断や保守についても、本人が接続を許可した機器からしか詳細情報へアクセスできない方式へ変更されるらしく、慎吾にはその技術的な違いの半分も分からなかったが、勝手に外から触られなくなるという部分だけは理解できた。
「じゃあ、もう突然アクセスされたりしない?」
「通常の保守経路から、本人の許可なく接続されることはありません」
篠宮が答えた。
慎吾はそちらを見る。
「今度は言い切ったね」
「そのための変更ですので」
「最初からそれやってくださいよ」
「当時は研究上の保守性を優先していました」
「俺のチンコより?」
「人工ペニスです」
「そこは最後まで直すんだな」
真鍋が次の書類へ手を伸ばした。
「ただし、機能拡張ユニットについては別です」
慎吾は反射的に銀色のケースを真鍋の方へ押した。
「どうぞ」
真鍋の手が止まった。
「まだ説明していませんが」
「返します」
「A-04高圧射出ユニット、B-02高硬度作業ユニット、C-03ワイヤーアンカーユニットを含む試作機については、引き続き東都および研究管理機関の資産として ──」
「全部返します」
「黒川さん」
榊が笑いを堪えながら言った。
「もう少し惜しんでもいいんじゃないか」
「何でですか。これ持ってるせいで家荒らされて、追いかけられて、肩ぶつけて、火事消して、スマホ壊れたんですよ」
「役にも立ったでしょう」
篠宮が言った。
「立ちましたよ。それが腹立つんですよ」
慎吾は銀色のケースを開けた。十個の収納部には、それぞれの機械がきれいに収まっている。高圧射出、打撃、ワイヤー、ドリル、電磁パルス、照明、消火、マニピュレーター、超音波探傷、それから接続記録を読むX-00まで、最初に見せられたときには何の冗談かと思った機械を、慎吾は結局ほとんど実際に使った。
しかも困ったことに、いくつかはかなり便利だった。
F-07の照明は天井裏で本当に欲しいと思ったし、H-09は両手が塞がる作業で役に立ち、J-06に至っては接続位置さえ無視すれば普通に会社で導入を検討してほしいくらいだったが、それでも慎吾は未練を見せず、ケースの蓋へ手をかけた。
その直前、横から篠宮の手が伸び、D-05高トルク穿孔ユニットだけが持ち上がった。
慎吾はその手を見る。
「何で?」
「これは私が引き取ります」
「何で?」
「今後の規格研究に必要なので」
「まだやるの?」
篠宮が不思議そうに慎吾を見た。
「もちろんです」
その答え方には、事件が終わったから研究も終わるという発想そのものが存在していなかった。東都に追われようが、規格を盗まれようが、仕事場を燃やされようが、自分のノートパソコンを電磁パルスで壊されようが、篠宮佳澄にとってPGS共通接続規格は依然として、人間が必要な身体機能を自分で選べるようにするための技術だった。
「懲りないね、あんた」
「黒川さんも使っていたじゃないですか」
「必要だったからです」
「それでいいんです」
慎吾は嫌な顔をした。
篠宮はD-05を手にしたまま続ける。
「規格というものは、使う人が思想を理解していなくても使える方がいいんです。火が出たから消火装置を選び、暗いから照明を選び、穴を開ける必要があるから穿孔ユニットを選ぶ。それが自然にできたなら、少なくとも私が考えていた方向は間違っていなかったと思います」
「俺を成功例に入れないでくださいよ」
「非常に参考になりました」
「勝手に研究成果にするな」
真鍋は二人の会話が終わるのを待ってから、別の資料を開いた。
「PGS共通接続規格そのものについても、今後の方針が決まりました」
篠宮がD-05を持ったまま真鍋を見る。
「東都単独での管理ですか?」
「いいえ」
真鍋は首を振った。
「今回の問題を受け、弊社だけで管理することには社内でも異論が出ています。ただし、全面公開についても安全面から認められません」
篠宮は黙って聞いていた。
「今後は東都、医療機関、外部研究者、それから義肢・福祉機器分野の第三者を含めた検討組織を設け、接続規格そのものと安全認証を分けて検討します。どこまで共通化し、どこからを認証制にするかについては、これからです」
「時間がかかりますね」
「かかります」
「東都が撤退した場合の継続性は?」
「それも検討項目です」
「他社製品への接続は?」
「それもです」
「利用者側が認証機器を選択できる仕組みは?」
「篠宮さん」
真鍋が少し疲れた顔をした。
「今日全部決める会議ではありません」
「そうですか」
篠宮は残念そうだった。
慎吾はその横で書類へ署名していた。
世界の義肢産業がどうなるのか、PGS規格が将来どこまで普及するのか、東都が何を所有して篠宮が何を公開したいのかについて、慎吾なりに理解できるようにはなったが、自分からその議論へ参加したいとは思わなかった。
その先は専門家がやればいいことで、慎吾が欲しかったのは、朝起きて自分の身体を会社の資産だと思わずに済み、仕事から帰ってきたあと玄関の鍵を開けながら銀色のケースが盗まれていないか考えなくてもいい生活だった。
署名を終えると、慎吾は書類を真鍋へ戻した。
「これで終わり?」
「黒川様については」
「よかった」
鳥居が慎吾の前から銀色のケースを引き取り、A-04、B-02、C-03、E-01、F-07、G-02、H-09、J-06、X-00と収納部を順番に確認していき、最後に一つだけ空いている場所を見つけると、篠宮へ視線を向けた。
「D-05は?」
鳥居が視線を向けた先では、篠宮がまだD-05を手にしていた。
「私が管理します」
「管理申請を出してください」
「分かりました」
「勝手に持ち帰らないでください」
「以前も同じことを言われました」
「だから言っています」
慎吾は二人を見ながら、最初に銀色のケースを渡された日のことを少しだけ思い出した。
あのときには、まさかその中のドリルを自分の身体へ取り付けて壁を破るとも、ワイヤーで建物の間を渡るとも、消火剤を噴くとも、周囲の電子機器を自動販売機ごと止めるとも思っていなかった。
できれば一生知らなくてよかった経験ばかりだったが、それでも篠宮がD-05をケースへ戻さず、自分の資料と一緒に置いたのを見ると、ほんの少しだけ妙な感じがした。
篠宮が銀色の機械を手の中で眺める。
「ドリチンも、これでお別れですね」
慎吾は反射的に答えた。
「正式名称で呼べよ」
篠宮が顔を上げ、鳥居も慎吾を見て、榊までこちらを向いたので、散々自分でドリチンと呼んできたことくらい分かっていた慎吾は、三人の視線を受けたまま数秒黙った。
「……何ですか」
「いえ」
篠宮が少しだけ笑った。
慎吾は目を逸らし、所有権譲渡確認書の控えを鞄へ入れた。
銀色のケースは鳥居が持っていき、D-05だけは篠宮の机に残り、慎吾の身体にはPGS-01だけが残った。世界の接続規格争いも、夢の義肢技術も、一億円の市場価値も慎吾のものにはならなかったが、それでよかった。
自分の身体だけは、自分のものになった。
どうやら機械のチンコというものは、会社の資産でも、未来の規格でも、一億円の商品でもなくなったあとで、ようやくただの身体に戻れるらしい。
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