第十話|消火
黒川慎吾は、人工ペニスに消火器を取り付けることになるまで、その日の予定をかなり平和なものだと思っていた。
病院での話し合いから一日経ち、篠宮佳澄が保管しているPGS関連資料とX-00から抽出した記録を確認するため、慎吾は仕事を終えた午後六時過ぎに銀色のケースを持って彼女の仕事場へ寄っていた。東都バイオメカニクスから鳥居が来る予定もなければ、一億円を提示してきた柏木俊一と会う約束もなく、まして股間から何かを撃ったり回したりする理由など一つもなかった。
元電気工事会社の作業場だった一階には、古い金属棚と測定器、部品箱、工具類が壁沿いに並び、中央の作業台では篠宮がノートパソコンへX-00を接続しており、その脇には慎吾も見覚えのある《PGS共通接続規格・機能拡張ユニット取扱要領 暫定版》と、さらに厚い二冊のファイル、それから黒い小型の外部記憶装置が置かれていた。
「これ全部、まだ紙で持ってるんですか」
慎吾がファイルの背表紙を見ると、篠宮は画面から目を離さずに答えた。
「初期設計資料の一部は紙しかありませんし、電子化したものもネットワークへは置いていません」
「最先端の身体拡張技術なのに、保管方法だけ昭和ですね」
「外から侵入できない記録媒体は優秀ですよ」
「家には物理的に侵入されましたけどね」
「そういう問題はあります」
篠宮は平然と答えながらX-00の記録を外部記憶装置へ移し、慎吾はその向かいで銀色のケースを開いたまま、早く終わらないかと時計を見た。
自宅を荒らされて以来、ケースをどこへ置けば安全なのか分からなくなり、仕事へ持っていけば東都から不用意に持ち歩くなと言われ、自宅へ置いていけば今度は警察から貴重品の保管場所を考えた方がいいと言われるので、最近の慎吾はドリルや消火装置やワイヤーアンカーを毎朝持って出勤している。
工具を積んで現場を回る設備屋としては大した違いではないようにも思えるが、普段の工具と違って銀色のケースに入っている物は全部自分の股間へ接続するために作られているので、そこまで同じだと思い始めたら人として何かを失う気がした。
「X-00のログはこれで複製できました」
篠宮は黒い記憶装置をノートパソコンから外して机へ置き、続いてX-00の接続を解除すると、それを慎吾の銀色のケースへ戻してから隣のファイルへ手を伸ばした。
「旧式の外部認証キーについても、共同研究先へ発行した記録がある程度残っています。東都側の資料と照合すれば、どの系統から流れたものか絞れるかもしれません」
「鳥居さんたちは?」
「社内で調べています」
「俺としては、調べ終わってから巻き込んでほしかったんですけどね」
「もう巻き込まれていますので」
「知ってますよ」
慎吾がケースの蓋を閉じようとしたところで、建物の奥から金属のぶつかる音がして、二人が同時に顔を上げた。
作業場の裏手には部品搬入に使っていた古い勝手口があり、篠宮は普段そこを施錠しているはずだったが、慎吾がそちらを見ると、もう一度、今度は明らかに扉を押したような音がして、続いて何かが床へ落ちた。
「誰か来る予定あります?」
「ありません」
篠宮の返事を聞いた瞬間、慎吾は銀色のケースを閉じたが、正義感が働いたわけではなく、ここ数日で予定のない来客にろくな人間がいなかっただけだった。慎吾がスマートフォンを取り出したのと、裏手の扉が大きく開いたのはほぼ同時だった。
入ってきたのは二人で、どちらも作業着に近い上着を着ていたものの工具も資材も持っておらず、先に入ってきた男は室内を見回して篠宮を見つけると、何も言わずに中央の作業台へ向かった。
「何ですか」
慎吾が間へ入ると、男は歩みを止めた。
「東都から資料の回収を頼まれてます」
「鳥居さん呼びます?」
慎吾が言うと、男の表情がわずかに変わり、それだけで十分だった。
「帰ってください」
篠宮は作業台の上にあるファイルと記憶装置を自分の側へ寄せた。
「東都が資料を回収する場合、事前に研究管理部から連絡があります。あなた方へ渡す物はありません」
もう一人の男が後ろ手に扉を閉め、慎吾はその動きを見ながら警察へ電話をかけた。
「おい」
最初の男が慎吾のスマートフォンへ手を伸ばしたので、慎吾は一歩下がった。
「触んなよ」
「面倒にするつもりはありません。資料を渡してもらえれば帰ります」
「こっちも面倒にするつもりないから、帰ってくれって言ってんですよ」
本当にそれだけの話で、慎吾には殴り合うつもりなどなく、銀色のケースを開いてA-04を装着する気もなければ、ドリチンで人間へ穴を開けるつもりもなく、警察を呼んで到着するまで距離を取っていれば済むはずだった。
ところが男は作業台の端にある黒い記憶装置へ目を向けると、そのまま手を伸ばし、篠宮が先に掴んだことで二人が記憶装置を引き合う形になった。
「やめてください」
「それだけでいいんです」
「渡せません」
慎吾が止めようと近づいたところで、もう一人の男が横から作業台を強く押し、重い机そのものは動かなかったものの、端に積まれていた部品箱と試験用電源が床へ落ち、金属棚へぶつかった拍子に棚板が傾いて、その上に載っていた古い測定器と書類の束がまとめて崩れた。
次に乾いた破裂音が響き、床へ落ちた試験用電源の端子が金属部品へ触れたらしく青白い火花が走ると、そのすぐ横へ落ちていた紙の束から薄い煙が上がった。
「電源落として!」
篠宮が叫び、慎吾が壁際の分電盤へ向かおうとしたときには火が段ボールの端へ移っており、その一瞬の混乱を狙ったように男が篠宮の手から黒い記憶装置を奪い、作業台にあった薄いファイルまで抱えて勝手口へ走った。
「待て!」
反射的に声は出たものの、慎吾に追いかける気はなく、目の前ではすでに火が出ている以上、そちらを放って人を追う理由などなかった。
慎吾は警察との通話を切ると、すぐに119番へかけ直して場所と火災の状況を伝え、そのまま壁際の消火器を取って炎の根元へ向けて噴射すると、白い粉末が広がって手前の火は一度小さくなったものの、倒れた金属棚の奥ではまだ赤い光が残り、その向こうへ火が回っているのが見えた。
「篠宮さん、外へ!」
返事がないので振り返ると、篠宮は作業場の奥へ入っていた。
「何やってんですか!」
「主電源を落とします!」
「今やらなくていいから出て!」
篠宮が奥の分電設備へ手を伸ばしたところで、さっき傾いた金属棚がさらに倒れ、細い通路へ斜めに食い込んだうえ、その上からケーブルダクトと工具箱まで落ちて、完全に塞いだわけではないものの篠宮が戻れるだけの幅はなくなった。
慎吾は思わず天井を見たが、こういうときに限って必要なものは本当に全部揃っており、よりによって足元の銀色のケースにはG-02消火ユニットが入っている。
「……使うのかよ」
誰に聞いたわけでもなかったが答えは分かっていたので、慎吾はもう一度119番へ篠宮が奥に取り残されていることを伝え、消防が向かっていることを確認してから、煙がまだ薄い入口側まで下がってケースを開けた。
G-02を最初に見せられたとき、慎吾は普通の消火器を持てば済む話だと思っていた。圧縮した消火剤を約三・五メートル先まで噴射でき、両手を使わず火元へ向けられるという説明を聞いても、そのために人工ペニスへ消火装置を接続する必要性までは理解できなかったが、その普通の消火器は今一本使ったばかりで、それでも棚の奥にはまだ火が残っている。
慎吾は作業場の入口から見えない位置へ下がり、PGS-01へG-02を接続すると、短い起動音のあとで圧力表示が点灯した。
「ほんとに使う日が来るとは思わなかったな」
火の前へ戻り、腰を火元へ向けるという、自分が何をしているのか考え始めると動けなくなりそうな姿勢を取り、そのままG-02を作動させると、白い消火剤が勢いよく棚の奥へ飛び、通常の消火器では角度が取れなかった場所まで一気に届いた。
慎吾は腰の向きを少しずつ変えながら火の残っている場所へ噴射を続け、赤い光が消えて煙だけになるまで止めなかった。
「篠宮さん!」
「大丈夫です!」
声は返ってきたが、室内の照明が落ちて非常灯だけになったうえ、煙で奥が見えなくなっていたため、慎吾はG-02を外すと今度は迷わずF-07を取り出した。
接続して点灯すると、腰の高さから伸びた強い光が煙の中を切り、床へ倒れた金属棚と、その向こうでしゃがんでいる篠宮の姿が浮かんだ。
「そこ動かないで!」
慎吾は光を向けたまま障害物へ近づき、倒れた棚の隙間を確認すると、棚そのものは一人で起こせる重さではなかったものの、通路を塞いでいる原因の一つは途中で外れた細いケーブルダクトが斜めに噛み込んでいることだと分かった。
素手で触れるには熱いため、慎吾は一度入口まで戻ってケースからH-09を取り出したが、さすがに三度目の換装になると、自分でもほとんど何も考えなくなっていた。
H-09へ換装し、先端の把持部で熱を持った金属ダクトを掴むと、両手で棚の枠を持ち上げながら腰を引き、引っかかっていたダクトを横へずらした。八キロまでしか保持できないマニピュレーターに棚そのものを動かす力はないが、両手では同時にできない二つの作業を一人でこなすには十分で、少しずつ通路の隙間が広がっていった。
「篠宮さん、今!」
慎吾が棚を支えている間に篠宮が身体を横にして隙間を抜け、こちら側へ出てくると、煙にむせて咳をしているものの自分で歩けたため、慎吾は棚を下ろしてそのまま篠宮の腕を取り、二人で外へ向かった。
消防車の音が聞こえてきたのは、二人が建物の前へ出た頃だった。
消防隊が中へ入り、残火と電気設備の状態を確認している間、慎吾は歩道脇へ置いた銀色のケースの横に座り、水を飲みながら煙で黒くなった作業場の入口を眺めていた。
篠宮も隣に座り、しばらく何も言わなかったが、やがて慎吾のケースへ目を向けた。
「黒川さん」
「何ですか」
「迷いませんでしたね」
「何が?」
「G-02のあとにF-07を使って、障害物を見つけたらH-09へ換装しました」
慎吾はペットボトルの蓋を閉めた。
「火が出たから消火器使って、暗いからライト使って、熱い物を素手で触りたくなかったから手みたいなの使っただけですよ」
「それが、この規格の ──」
「夢の話は今いいです」
篠宮が少しだけ笑ったので、慎吾はその顔を見てからケースへ視線を戻した。
篠宮の作業場で初めてケースの中身を全部見せられたときには、どうしてこんなものを十種類も作ったのかと本気で思ったし、今でも半分くらいはそう思っているが、火を消したいときに消火ユニットを選び、暗くなれば照明を選び、両手だけでは足りなければマニピュレーターを使ったことについては、慎吾自身ほとんど考えておらず、必要だったから使っただけだった。
「俺、設備屋なんで」
慎吾が言うと、篠宮はそれ以上何も言わなかった。
消防による現場確認が終わり、中へ入れるようになったのは一時間ほど後で、火は作業台周辺だけで収まり、建物そのものに大きな損傷はなかったが、倒れた棚の近くを通る古い金属配管と支持材は熱を受けていたため、慎吾は消防と建物管理者の了承を取ってからJ-06を取り出した。
「それも使うんですか」
篠宮が聞いた。
「一応見ときます。ここ、あとで設備屋呼ぶでしょうけど、その前に変な亀裂でもあったら危ないんで」
超音波探傷ユニットを接続し、露出している金属部へ先端を当てると、小さな表示器に反射波の状態が出たので、慎吾は数か所を確認していき、そのうち一本だけ異常値が出た支持材へテープで印を付けたところで、後ろにいた篠宮がまた何か言いたそうな顔をしていることに気づいた。
「何ですか」
「いえ」
「言いたいなら言ってください」
「最初にJ-06をご説明したとき、かなり興味を持っていましたよね」
「これは普通に設備屋が欲しい機械だからですよ」
「接続位置以外は?」
「そこが最大の問題なんだよ」
作業場へ戻ると、今度は警察が篠宮から事情を聞いており、慎吾も入ってきた二人の特徴を説明したあと、そこで初めて盗まれた物を確認することになった。
X-00は銀色のケースに残り、机に置かれていた分厚い設計資料の原本も無事だったものの、篠宮が解析用にX-00から記録を複製した黒い外部記憶装置と、《PGS共通接続規格・機能拡張ユニット取扱要領 暫定版》の複製、それに機械接続部の初期仕様が入った薄いファイルがなくなっていた。
慎吾は焼け焦げた机を見た。
「それで規格、作れるんですか」
「完全には無理です」
篠宮はすぐ答えた。
「ただ、接続寸法と旧式認証方式、それにX-00から複製した運用記録がありますから、買い手によっては十分価値があります」
「一億円分?」
「そこまでは分かりません」
「値段の話だけ急に雑だな」
篠宮は答えず、盗まれた物の一覧を警察へ伝えた。
慎吾はその横で銀色のケースを閉じながら、火事になって人が閉じ込められ、股間から消火剤を噴き、股間をライトにして煙の中を照らし、三本目の手で熱い金属をどかし、最後には超音波で配管まで調べた結果、肝心の犯人には逃げられ、規格資料の一部まで持っていかれたことを考えた。
これだけ働いたのに、本人の生活は何一つ楽になっていない。
どうやら機械のチンコというものは、火を消すことはできても、面倒事まで消してはくれないらしい。
お読みいただきありがとうございます。
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