第9話 責任は私が持ちます
十日ほどが過ぎた。
朝、受付裏で豆を挽く音がする。湯が沸き、香りが広がる。器を受け取った職員たちは、それぞれの持ち場へ散っていく。
誰も、タダシに指示を仰がなかった。
薬品棚の札は、若い職員が昨日の数字の下に今日の数字を書き足していく。依頼書は来た順に「未受注」の箱へ入り、冒険者が受ければ「対応中」へ移る。勤務表の来週の欄は、もう希望の丸で半分埋まっていた。
「タダシさん、豆なくなりそうです」
ニコが、空に近い袋を振ってみせた。
「あ、本当だ。注文しときましょう」
発注の控えは、タダシより先にフィナが出していた。
新しい支部長が着任したのは、その日の昼前だった。
五十手前くらいの、痩せた男だった。旅装を解くと、地味な灰色の上衣が出てきた。荷物は少ない。
「レイナルトです。今日から、よろしくお願いします」
挨拶はそれだけだった。
職員たちが緊張した顔で並ぶ前で、レイナルトは二階へは上がらず、そのまま受付の中へ入ってきた。
薬品棚を見た。札を読んだ。依頼の箱を覗いた。勤務表の前で、しばらく立っていた。壁の連絡表を、上から下まで目でなぞった。
「浅野さん」
「はい」
「これは、全部あなたが?」
「最初は私が始めましたけど」
タダシは受付のほうを見た。フィナが依頼書を仕分け、ニコが札を書き替え、ガルドが報酬を数えている。
「今は皆さんで使ってますよ」
「なるほど」
レイナルトはもう一度、受付全体を見渡した。
「よく回っていますね」
それだけ言って、彼は勤務表の前に戻った。
昼過ぎ、レイナルトは職員全員を受付に集めた。
「では、浅野さん」
静かな声だった。
「支部長代理の任は、本日をもって解きます」
受付が、しんとなった。
フィナの表情が、固くなった。ニコが息を呑む音が聞こえた。
「はい」
タダシだけが、いつも通りに頷いた。
「承知しました」
「その上で」
レイナルトは、間を置かなかった。
「本日付で、浅野さんを当支部の業務統括責任者に任命します」
一拍、誰も動かなかった。
「……え?」
「業務統括?」
職員たちが顔を見合わせる。
レイナルトは紙を一枚、タダシに渡した。
「薬品と在庫の管理。勤務の編成。依頼の処理。緊急時の体制。業務の改善。それと、他支部との調整。今まで浅野さんがやっていたことを、そのまま正式な職務にします」
彼は付け加えた。
「代理の手当は今日で終わりますが、同じ額を、業務統括責任者の手当として付けます。こちらは期限なしです」
「あ、給金は下がらないんですね」
タダシが、ほっとしたように言った。
レイナルトが、初めて少しだけ表情を崩した。
「……そこですか」
「宿代がありますので」
「タダシさんらしいです」
フィナが、肩の力を抜いて笑った。
その後ろで、ニコが天井を仰いでいた。
「……よかったあ……」
「お前、今日も泣くのか」
「泣いてないっす」
夕方、トマが勤務表を持ってタダシの机に来た。
包帯の件で、最初にタダシへ声をかけた職員だ。
「あの、来週の三日目、遅番と早番、入れ替えてもらえませんか。ガルドさんとは話がついてて」
「理由、聞いていいですか。勤務表に書くので」
「……母の、具合が。医者が来る日なんで、朝のうちに顔を出したくて」
「分かりました」
タダシは勤務表を見た。入れ替えても、どちらの時間帯も人数は足りる。
「大丈夫そうですね。じゃあ、支部長に確認してきます」
立ち上がって、階段へ向かいかけたところで、ちょうど上からレイナルトが降りてきた。
「勤務の変更ですか」
「はい。トマさんとガルドさんの入れ替えで。人数は足りてるので、問題ないと思うんですが、一応」
「浅野さん」
レイナルトは階段の途中で足を止めた。
「毎回、私に許可を取りに来る必要はありません」
タダシが瞬きをした。
「でも、責任者は支部長ですよね?」
「そうです」
レイナルトは頷いた。
「ですから、判断はあなたに任せます。責任は私が持ちます」
受付にいた職員たちが、手を止めてこちらを見ていた。
「これだけ結果を出している人間に、毎回私のところまで説明に来させるほうが非効率です。あなたが問題ないと判断したなら、それで進めてください。何かあれば、それは任せた私の責任です」
タダシは、しばらく黙っていた。
前の会社では、コピー用紙の発注一つにも判子が三つ要った。予算の枠内でも、課長と部長と経理の顔を順番に見に行った。それが普通だと思っていた。
「……分かりました」
タダシは頷いた。
「じゃあ、そうさせてもらいます」
「ただし、一つ条件があります」
「はい」
「無理をしないでください」
タダシは、きょとんとした。
「そんなにしてます?」
「してます」
フィナと、トマと、ガルドと、ニコと、受付にいた全員の声が揃った。
レイナルトが、階段の上で小さく咳払いをした。笑いをこらえたのかもしれなかった。
その日の夕方、タダシは東通りから戻ってきた。
手に、黒い板を持っている。
「点きましたねえ」
画面の右上に、細い線が一本だけ光っていた。
「十日以上かかりましたね……」
フィナが覗き込んだ。
「一日も休まず通って、これですか」
「雷の人も、途中から面白がってましたよ」
そのとき、板が手の中で震えた。
画面に、見覚えのある名前が出ていた。
タダシが指を滑らせると、すぐに声が飛び込んできた。
『浅野か!?』
部長だった。前回ほど怒鳴ってはいない。声が、妙に掠れていた。
『……浅野、悪い』
「はい」
『一回、会社に来られないか』
受話口の向こうは、静かだった。前回のような別の声も重ならない。
『引き継ぎだけでもいい。一日でいい。今、本当に……回ってないんだ』
フィナが、タダシの顔を見た。
タダシは少し考えた。怒っている顔ではなかった。困っている顔でもなかった。
「申し訳ありません」
いつもの調子で言った。
「私、もうそちらの社員ではないので」
『……それは、そうだが』
「それに私、今はこちらで——」
タダシは、手元の紙をちらりと見た。昼に渡された任命書だった。
「業務統括責任者という役職で、やらせていただいておりまして——」
ぷつり。
画面が黒くなった。
タダシは黒い板を見下ろした。
「……切れた」
「一番いいところで切れましたね」
フィナが、笑いを噛み殺しながら言った。
「そうですか?」
「そうです」
タダシは板を鞄に戻した。
フィナは受付台に肘をついて、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと聞いた。
「前の会社、タダシさんが必要だったんじゃないですか?」
タダシは鞄の留め具を閉めて、少し考えた。
「まあ……」
夕方の受付に、帰還した冒険者の声が聞こえ始めていた。依頼書が箱に入る音。棚の札を書き替える音。
「私が普通だと思ってたこと、皆さんには、結構役に立ってたみたいですねえ」
フィナは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうな顔をした。
半月ほどして、本部から封書が届いた。
レイナルトは受付に降りてきて、それをタダシの机に置いた。
「浅野さん。本部から辞令です」
受付にいた全員の手が、止まった。
タダシは封を切って、中の紙を読んだ。
「浅野タダシ、本部勤務を命ずる……」
フィナが、受付台の向こうで固まっていた。ニコは箒を持ったまま動かなかった。トマも、ガルドも、こちらを見ていた。
「推薦したのは私です」
レイナルトが、静かに言った。
「ここに置いておくには、惜しいと思いましたので」
タダシは紙から顔を上げた。
「本部ですか」
それから、しみじみと言った。
「大きいところですねえ」
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