第8話 一日だけ、浅野さんを貸してくれませんか?
「返しますよ」
ベルク支部長は、困ったように笑った。
「一日だけです。夕方には必ずお送りします」
「一日ですよね?」
「ちゃんと返ってきますよね?」
職員たちが口々に言う。ベルク支部長は両手を上げた。
「本当に、一日だけです。うちも在庫や依頼の回りが悪くて……監査の報告で、こちらの話を聞きまして。一度、見ていただきたいんです」
タダシは少し考えた。
「私でよければ。明日でいいですか」
「ありがとうございます」
ベルク支部長は深く頭を下げた。
翌朝も、受付裏から豆を挽く音がした。
湯が沸き、香りが広がる。いつもの朝だった。
ただ、器を受け取りに来た職員たちが、妙に静かだった。誰も「今日も一日やるか」と言わない。器を両手で包んで、黙って啜っている。
タダシは自分の分を飲み干すと、器を洗って、鞄を肩に掛けた。
「じゃあ、行ってきます」
扉の前に、ニコが立っていた。
「……気をつけてっす」
声が、完全に湿っていた。
「夕方には戻りますよ」
「はい……」
ニコは鼻をすすった。目の縁が赤い。
タダシが扉を出ていくと、ガルドが背後から覗き込んだ。
「お前、泣いてんのか」
「泣いてないっす」
「泣いてんじゃん」
「一日だぞ、一日」
「分かってるっす!」
受付に笑い声が上がった。ニコは袖で顔をこすって、ずかずかと持ち場に戻っていった。
笑い声は、すぐに消えた。
その日の仕事は、速かった。
朝の依頼は次々に箱へ振り分けられ、薬品の札は昼前に書き替えられ、追加の包帯が届けば、棚の決まった場所へすぐに収まった。誰も誰かに聞きに行かなかった。聞きに行く必要がなかった。
ただ、全員の顔が暗かった。
受付台で依頼を受けながら、包帯の職員がため息をついた。報酬を数えながら、ガルドがため息をついた。ニコは棚を拭きながら、三回くらい扉のほうを見た。
昼前、列が途切れたところで、ガルドがぼそりと言った。
「……なあ」
「なんすか」
「もし、向こうが気に入ったらどうする」
受付の手が、全員止まった。
「気に入るでしょ」
包帯の職員が即答した。
「一日見て、あの棚見せられて、欲しくならない支部長なんていないですよ」
「だよなあ」
「新しい支部長、来る前に引き抜かれたら……」
「で、新しい支部長が前みたいなのだったら?」
「休み、また取れなくなるんすか」
「決裁、また半分に削られる」
「朝の匂いもなくなる」
誰かがそう言った瞬間、受付の空気が一段重くなった。
「……あれ、なくなるのか」
「なくなるだろ。タダシさんの豆なんだから」
「俺、あの匂い嗅がないと、もう仕事始まんないんすけど」
ニコが、棚を拭く手を止めて、ゆっくり振り返った。
「うわああああ、いやだあああ!」
「一日だけです!」
フィナが受付台を叩いた。
「でも向こう、絶対欲しくなるって!」
「まだ何も決まってません!」
「決まってからじゃ遅いじゃないっすか!」
「皆さん、落ち着いてください!」
そこへ、表の扉が開いた。
「おう、報酬の確認——」
入ってきたのは、ドランだった。以前、一か月も報酬を待たされた、あの男だ。
受付の顔ぶれを見て、足を止めた。
「……なんだ。どうした。葬式みたいな顔して」
「タダシさんが……」
ニコが、ぐすっと鼻を鳴らした。
「今日、ベルク支部に……」
ドランの顔色が変わった。
「ベルクに移るのか!?」
「え、いや」
「……かもしれないっす」
「ニコ!」
フィナが止める前に、ドランは酒場のほうへ振り返っていた。
「おい! タダシ代理がベルク支部に異動するらしいぞ!」
昼から卓を囲んでいた冒険者たちが、一斉に顔を上げた。
「なんだって!?」
「嘘だろ、あの人か!?」
「代理になったばっかじゃねえか!」
あっという間に、受付の前に人だかりができた。
「あの人いなくなったら、また報酬が一か月後になるのかよ」
ドランが腕を組んだ。
「冗談じゃねえ。うちの女房、今でもあのときの話するんだぞ」
「薬、また切れるようになるのか?」
「俺んとこ、この前の討伐で薬がすぐ出てきて助かったんだよ」
人だかりの後ろから、腕に布を巻いた女冒険者が顔を出した。先日、北の沢で運び込まれたパーティーの一人だった。
「うちの仲間、あの壁の紙のおかげで助かったんだよ。あの人がいなくなったら、あれ、誰が作るんだ」
「ベルクに行くなら、俺らも拠点移すか?」
「移るか。ベルクなら半日だし」
「移らないでください!」
フィナが両手を広げた。
「異動じゃありません! 一日だけ、助言に行っただけです! 夕方には戻ります!」
「本当か?」
「本当です!」
「……そうか」
ドランは少し疑わしそうな顔をしたまま、受付台に肘をついた。
「じゃあ、戻ってくるまでここで待つわ」
「待たなくていいです!」
「待つ」
何人かの冒険者が、同じように卓へ戻って、椅子を受付のほうへ向けた。
フィナは額を押さえた。
午後も、仕事は普通に回った。
帰還した冒険者の報告は、控えがすぐに「完了」の箱から出てきた。勤務の交代で一人が遅れたときは、フィナが勤務表を見て、手の空いている職員に声をかけた。それで済んだ。
夕方前、ようやく列が途切れた。
ガルドが受付台に頬杖をついて、壁の連絡表を見上げた。
「……普通に回るな」
「回りますよ」
フィナは控えを揃えながら答えた。
「タダシさんが、そうしたんです」
ガルドはしばらく黙っていた。
「……回るから、余計に取られそうで嫌なんだよなあ」
「それは、そうですけど」
フィナも、扉のほうを見た。
日が沈みかけたころ、扉が開いた。
「ただいま戻りましたー」
受付と酒場の全員が、同時に振り返った。
「タダシさあああん!」
ニコが、受付台を回り込んで走ってきた。
「おかえりなさい! おかえりなさいっす!」
「戻ってきたぞ!」
「異動じゃなかったのか!」
卓で待っていた冒険者たちまで立ち上がった。
タダシは扉の前で、鞄を肩に掛けたまま固まった。
「……異動?」
「大げさです!」
フィナが後ろから叫んだ。
「一日ですよ?」
タダシは、心底不思議そうに言った。
「一日でも、っすよ!」
「私、ベルクに移るんですか?」
「移りません!」
フィナが即答した。
「ニコが変な言い方したせいで、昼から皆そう思ってたんです」
「俺のせいっすか!」
「お前のせいだよ」
ガルドがニコの襟首を掴んで引き戻した。
「悪い。こいつ、昼から四回くらい表を見に行ってた」
「五回です」
「数えんな」
ドランが、タダシの肩を叩いて出ていった。
「移るときは先に言えよ。俺も移るから」
「移りませんよ」
「なら、いい」
受付に、ようやく笑い声が戻った。
ベルク支部から書状が届いたのは、翌日の夕方だった。
封蝋付きで、正式な書式だった。受付の前で、フィナが読み上げた。
「——昨日ご来訪の折、浅野氏より、討伐隊の補給品を出発前日のうちに人数分取り分けておくよう、ご助言をいただきました」
職員たちが、自然と集まってきた。
「——その場で取り分けたところ、止血薬の不足が判明し、前日のうちに補充することができました。本日の魔狼討伐隊は、出発を遅らせることなく送り出すことができ、全員無事に帰還しております」
一呼吸置いて、フィナは最後の段を読んだ。
「——改めて御礼申し上げます。可能であれば、今後も浅野氏のご助言を仰ぎたく存じます」
一瞬の沈黙のあと、ニコが叫んだ。
「やっぱり狙われてるじゃないですか!」
「狙われてるって言い方やめてください」
フィナが書状を畳んだ。
「でも、今後もって書いてありますよ! 今後もって!」
「助言です。助言」
「助言って言いながら、そのうち『一週間だけ』とか言い出すんですよ、絶対」
受付台にいたドランが、振り返りもせずに言った。
「ほら見ろ」
ガルドまで腕を組んで頷いている。
タダシは、湯を沸かしながら言った。
「役に立ったなら、良かったですねえ」
「タダシさん、事の重大さ分かってます?」
「重大ですか?」
「重大です!」
数日後の朝、アルベールが来た。
ちょうど豆を挽く音がしていた時刻で、彼は扉をくぐったところで一度足を止め、鼻をわずかに動かした。
「……何の匂いです?」
「朝の分です。よかったら、どうぞ」
タダシが器を一つ差し出した。アルベールは少し迷ってから受け取り、一口飲んで、眉を上げた。
「苦いですね」
「苦いですねえ」
「……悪くない」
彼はもう一口飲んでから、受付台のフィナのほうへ向き直った。
「ベルク支部長の報告書、本部で読みました。一日の助言で、討伐隊の出発遅れがなくなったと」
「あ、はい。礼状もいただきました」
「そうですか」
アルベールは器を持ったまま、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「本部では、『また浅野さんか』と言われていましたよ」
「……言われてるんですね」
「言われています」
フィナは、自分のことのように嬉しそうな顔をしかけて、慌ててそれを引っ込めた。
受付の奥で、ニコが小さく拳を握っていた。
アルベールは器を置くと、書類挟みから封書を一通取り出した。
「今日は、その件で来たわけではありません。本部の決定をお伝えします」
受付の空気が、少し変わった。
「新しい支部長が、来月の頭に着任されます」
ぴたりと、全員の手が止まった。
職員たちが、一斉にタダシの机を見た。
「浅野さんの今後については、新支部長から直接お話があると思います」
アルベールはそれだけ言って、封書をタダシに渡した。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……タダシさん、代理、終わるんですか?」
ニコが、小さな声で言った。
タダシは封書を受け取って、机の端に置いた。
「そりゃ、代理ですからねえ」
平然と言って、自分の器に二杯目を注いだ。
いつもの匂いが、受付に広がった。
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