第7話 タダシさんがいなくても
朝、ギルドの受付裏で、ごりごりと音がした。
タダシが手回しの挽き器を膝に挟んで、豆を挽いていた。市場の乾物屋の隅で見つけたものだ。店主は薬草の一種だと言っていたが、煎って挽けば、ちゃんとあの匂いがした。
湯を沸かし、布を張った漉し器に粉を入れて、少しずつ注ぐ。
湯気と一緒に、香りが受付のほうへ流れていった。
「……あー」
掲示板の前で依頼書を貼っていた職員が、伸びをした。
「この匂いすると、仕事始まったって感じするわ」
「今日も一日やるかあ」
奥で箱を整理していた職員まで、なんとなく顔を上げる。
「タダシさん、私もお願いします」
フィナが受付台から身を乗り出した。
「はいはい」
タダシは二つ目の器に注いだ。
「毎朝これ、何なんですか。皆、気にしてますよ」
「朝はこれ飲まないと、頭が動かないんですよ」
それだけの理由だった。
器を持って、タダシは受付脇のいつもの机へ戻った。二階の支部長室は、今日も扉が閉まったままだ。
机の上には、昨夜の紙が広げてあった。
「それ、昨日の続きですか」
フィナが器を両手で包んで覗き込んだ。
「はい。連絡の順番です」
「前にも聞きましたけど、怪我人のときって、今まではどうしてたんです?」
「どうって……」
フィナは少し考えた。
「誰かが治療師を呼びに走って、誰かが薬を取りに行って。馬車が要るときは、気づいた人が」
「気づかなかったら」
「……誰かが、あとで気づきます」
「毎回その場で決めるの、大変じゃないですか?」
「まあ、慣れてますから」
「慣れてても、忙しいときほど忘れますよねえ」
タダシは紙の上に線を引いた。
一番上に、最初に確かめること。怪我の人数。歩けるかどうか。毒かどうか。
その下に、呼ぶ先。治療師。薬。馬車。衛兵の詰所。
右側に、誰が行くか。受付の者は受付に残り、全体を見る。
それだけだった。一枚に収まった。
「これを、受付の壁に貼っておきます。何かあったら、上から順番に見ればいいので」
「……これだけですか」
「これだけです。その場で考えなくていいように」
フィナは紙を手に取って、しばらく眺めていた。それから、自分で壁に貼りに行った。
昼の列が引けたころ、タダシは鞄を開けて、黒い板を取り出した。
「ちょっと、出てきますね」
「今からですか?」
「東通りに、雷の魔法を使う人がいると聞いたので。これ、動くようにならないかと思いまして。夕方には戻ります」
フィナの顔が、ほんの少しだけ曇った。
「……大丈夫でしょうか」
「半日ですし。皆さんで回せますよ」
タダシはあっさり言って、鞄を肩に掛けた。
「何かあったら、壁の紙がありますから」
タダシが出ていくと、受付は急に静かになった。
「……タダシさんいないと、静かだな」
掲示板の前で、職員の一人が呟いた。
仕事は普通に回っていた。薬品棚の札は朝のうちに書き替えられ、依頼書は箱に振り分けられ、勤務表の今日の欄には、それぞれの名前がきちんと並んでいる。誰も、次に何をすればいいか聞きに行く必要がなかった。
昼下がりの暇な時間、中年の職員が受付台に頬杖をついた。
「なあ。もうずっと、ここの支部長やってくんねえかなあ」
「代理ですけどね」
フィナが言った。
「代理でもいいって。むしろ代理のまま、ずっといてほしい」
「新しい支部長、来るんすよね」
若い職員が不安そうに言う。ニコという、この春から入った一番下の職員だ。
「来たら、どうなるんすかね」
「知らねえよ。来てみなきゃ」
「前の支部長みたいなのだったら、俺、泣きますよ」
「泣いてどうすんだ」
笑い声が上がりかけた、そのときだった。
表の扉が、叩きつけるように開いた。
「治療師! 誰か、治療師を!」
男が二人、戸板に乗せた仲間を抱えて転がり込んできた。片方は額から血を流している。戸板の上の男は顔が土気色で、脇腹に巻いた布が赤黒く濡れている。後ろからもう一人、腕を押さえた女が足を引きずって入ってきた。
「北の沢で、崖の上から落とされた! こいつ、腹を——」
受付の空気が、凍りついた。
職員たちが一斉に立ち上がって、そして、全員がそこで止まった。
「タダシさんは!?」
誰かが叫んだ。
全員の目が、受付脇の机に向いた。
空だった。
フィナの喉が、一瞬だけ詰まった。
それから、彼女は壁を見た。
「タダシさんはいません!」
一拍。
「でも大丈夫です。連絡表!」
フィナは壁の紙の前に立った。指で一番上をなぞる。
「怪我人、三人! 一人は歩けない、二人は歩ける! 毒ではありません!」
声が、受付の隅まで届いた。
「次、呼ぶところ! 治療師、ガルドさん、お願いします! 東通りの施療院です!」
「おう!」
中年の職員が、返事と同時に扉を飛び出していった。
「薬! 止血と回復薬、全部持ってきてください!」
「行きます!」
包帯の職員が小部屋へ走った。
「馬車!」
フィナが振り返った。
「ニコ、馬車! 一番近いところを押さえて! 施療院まで運ぶ!」
「は、はい!」
ニコが弾かれたように走り出した。
「衛兵の詰所にも誰か! 北の沢で落とした相手がいるなら、知らせないと!」
「俺が行く!」
掲示板の前にいた職員が出ていった。
「受付は私が残ります! 怪我人は奥の長椅子へ!」
戸板が運ばれていく。フィナは紙の横に立ったまま、項目に一つずつ印を付けていった。
前は、こうではなかった。
怪我人が来るたびに、全員が同じ方向へ走った。三人が施療院へ向かい、誰も薬を取りに行かず、馬車に気づいたのは一刻後、ということもあった。
今、全員が違う方向へ走っていた。
誰も、「次は何をすればいい」と聞かなかった。
「薬、あります! 止血薬八、回復薬十二!」
包帯の職員が箱を抱えて戻ってきた。
「止血を先に!」
奥の長椅子で、傷口に薬が注がれる。土気色だった男の顔が、苦痛に歪んだ。歪めるだけの力が戻ってきた、ということだった。
「馬車、来ました! 表につけてます!」
ニコが扉から顔を出した。息が上がって、額に汗が光っている。
「早い!」
「角の貸し馬車屋、ちょうど一台空いてたんで、そのまま引っ張ってきました!」
戸板が再び持ち上げられ、表へ運ばれていく。
馬車が走り出そうとしたとき、通りの向こうからガルドが治療師を連れて駆けてきた。
「治療師、入りました!」
「馬車で一緒に施療院へ! 中で診てもらって!」
「分かった!」
治療師が馬車に飛び乗る。車輪が石畳を叩いて、遠ざかっていった。
受付に、急に静けさが戻った。
床に血の跡が点々と残っている。長椅子の布が乱れている。腕を押さえていた女は、止血を受けて、壁際で荒い息をついていた。
フィナは、壁の紙を見た。
全部の項目に、印が付いていた。
「……本当に」
彼女は、自分の手を見下ろした。まだ少し震えていた。
「本当に、これだけで違うんだ」
施療院から知らせが来たのは、日が傾き始めたころだった。
腹を裂かれた男は、一命を取り留めた。治療師によれば、あと少し遅ければ危なかったという。
知らせを持ってきたガルドが言い終えると、受付にいた全員が、同時に長く息を吐いた。
タダシが戻ってきたのは、それから少しあとだった。
「ただいま戻りましたー」
鞄を肩に掛け、少し疲れた顔をしている。
「駄目でしたねえ。半日やって、まだ点きもしませんよ」
「……え?」
「これです」
タダシは黒い板を見せた。
「雷の人が言うには、強すぎると壊れて、弱すぎると入らないそうで。ちょうどいいところで少しずつやるしかないらしいです。この調子だと、ちょっと動くようになるまで十日はかかるって」
彼はそこで、ようやく受付の様子に気づいた。
床の拭き跡。濡れた布。まだ片付いていない薬の空き瓶。
「何かありました?」
フィナが、今日のことを話した。
怪我人が三人来たこと。一人は重傷だったこと。壁の紙を見たこと。全員が別々に走ったこと。治療師が間に合ったこと。
タダシは最後まで黙って聞いていた。
「そうですか。大変でしたねえ」
「……大変でしたけど、回りました」
フィナは、壁の紙を振り返った。
「タダシさんがいなくても」
「それなら良かったです」
タダシは頷いた。それから、少しだけ首を傾げた。
「しかし、作ったその日に使うことになります?」
「なりました」
「まあ、事故ってそういうものですからねえ」
フィナは、何か言いたそうな顔をした。
でも、言わなかった。代わりに、受付の隅を指した。
「馬車、ニコが取ってきたんです。角の貸し馬車屋まで走って、そのまま引っ張ってきて。治療師より先に着きました」
「へえ」
タダシは受付の隅を見た。
ニコが、空き瓶を箱に戻していた。まだ額に汗の跡が残っている。
タダシは鞄を机に置いて、挽き器を取り出した。
ごりごりと、夕方には珍しい音が鳴った。
しばらくして、湯気の立つ器を一つ持って、彼はニコのところへ行った。
「ニコさん」
「あ、はい」
「これ、どうぞ」
器を差し出す。ニコは戸惑った顔で受け取った。
「馬車、ありがとうございます。助かりました」
ニコは器を持ったまま、固まった。
「……」
「一番近いところ、すぐ押さえてくれたんですよね。あれが一番時間かかるところなので」
「…………」
ニコの口が、何度か動いた。声にならなかった。
それから、ぽつりと言った。
「俺、仕事で……こんなに嬉しくなったの、初めてっす……」
目の縁が赤くなっていた。
「そんな大げさな」
「大げさじゃないっす!」
ニコは器を持ったまま、鼻をすすった。周りの職員が、にやにやしながら見ていた。
「泣くなよ、ニコ」
「泣いてないっす!」
「泣いてんじゃん」
翌朝、豆を挽く音がすると、職員たちが次々に顔を出した。
「タダシさん、薬の札、書き替え終わりました!」
「依頼、全部箱に入れときました!」
「勤務表、来週の分も出しときましたけど、見ます?」
「何か手伝うことあります?」
タダシの机の前に、妙に人が集まっていた。
フィナが、自分の器を片手に呆れた顔をした。
「……みんな、褒めてもらいたいだけじゃないですか」
「いいことじゃないですかねえ」
タダシは漉し器に湯を注ぎながら言った。
「仕事が早く終わるなら、それに越したことはないですよ」
昼前、表の扉が開いた。
入ってきたのは、旅装の中年の男だった。上等な外套を着ているが、裾が泥で汚れている。
男は受付を見回し、壁の紙に目を留め、それから依頼の箱を見て、小さく唸った。
「こちらに、浅野さんという方は」
「私ですが」
タダシが机から立ち上がった。
男は外套の胸から、ギルドの紋章の入った札を見せた。
「隣のベルク支部で、支部長をしております。噂を聞いて参りました」
彼はタダシの前まで来て、真剣な顔で言った。
「一日だけ、浅野さんを貸していただけませんか」
受付にいた職員が、一斉に顔を上げた。
「……え?」
「貸す?」
ニコが、器を持ったまま一歩前に出た。
「……返してくれますよね?」
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