第6話 支部長代理を命ずる
不在着信は、ほとんどが同じところからだった。
会社の代表番号。部長の携帯。総務の内線を転送した番号。それが画面の下まで、ずらりと並んでいる。一番新しいのは、今朝の日付だった。
「それ、何ですか?」
フィナが肩越しに覗き込んだ。
「電話です。遠くの人と話せる道具で……まあ、こっちで使えるとは思ってませんでしたけど」
「四十三件って、書いてあるんですか」
「書いてありますねえ」
「多くないですか?」
「まあ……多いですねえ」
画面の右上で、電池の印が赤くなっていた。細い線が一本だけ残っている。
タダシは少し考えてから、一番上の番号を押した。
呼び出し音が一度鳴り終わる前に、繋がった。
『浅野!?』
部長の声だった。音が割れて、フィナが一歩下がった。
『浅野だな!? 今どこにいる!?』
「ええと、ちょっと遠いところに」
『遠いってどこだ! いや、いい、それはいい! 俺の予定、どこにまとめてある!?』
「部長の予定ですか」
『来週の役員会、何時からだ!? 誰も知らないんだよ!』
受話口の向こうで、別の声が重なった。
『浅野さん!? 保険会社から来てる書類、あれ誰が返すんですか!』
『健康診断の二次案内、まだかって問い合わせが来てて!』
『コピー用紙の契約、どこと結んでたんです!? 今朝、在庫が切れて——』
フィナが、目を丸くしてタダシと電話を見比べた。
タダシは慌てなかった。いつもの調子で、ひとつずつ答えようとした。
「保険の書類は、返送用の封筒ごと引き出しの二段目です。健康診断は、案内の文面ができてますので、それを刷って配っていただければ。コピー用紙は——」
『とにかく予定表だ! 予定表はどこだ!』
「ああ、はい」
タダシは頷いた。
「部長のスケジュールでしたら、私のデスクの右側にある青いファイルに——」
ぷつり、と音が途切れた。
画面が黒くなっていた。側面を押しても、もう光らなかった。
「……切れた」
タダシは黒い板をしばらく眺めて、それから鞄に戻した。
「まあ、青いファイルまで言えたから、たぶん大丈夫でしょう」
「……あの」
フィナは、まだ電話のあった場所を見ていた。
「ずいぶん困ってませんでした?」
「そうですねえ」
タダシは鞄の留め具を閉めた。
「辞めるときに、まとめてあるって言おうとしたんですけどね。各自でなんとかするって仰ってたので。皆さん、忙しかったんでしょう」
フィナは何か言いかけて、口を閉じた。
それからもう一度開いて、やっぱり閉じた。
支部長のいない朝は、思ったより静かだった。
二階の執務室の扉は閉まったままで、誰も階段を上がっていかない。職員たちは受付に立ちながら、ときどきそちらを見上げた。
タダシはいつも通り、薬品棚の札を確かめ、依頼の箱を覗き、勤務表の今日の欄を指でなぞった。
「タダシさん」
包帯の職員が、紙を一枚持ってきた。
「これ、塔の修繕費の請求なんですけど。誰に決裁もらえばいいんです?」
「急ぎですか」
「月末までです」
「じゃあ、本部から何か言ってくるまで置いておきましょうか。急ぎのが出てきたら、アルベールさんがまだ宿にいらっしゃるので、そちらに聞きましょう」
「タダシさんが決めちゃえばいいのに」
「私、決めていい立場じゃないので」
職員はなぜか少し残念そうな顔をして、紙を「対応中」の箱に入れた。
辞令が届いたのは、三日後の昼だった。
アルベールが、本部の封蝋のついた書状を持って受付に来た。職員たちが自然と集まってくる。
「本部の決定をお伝えします」
彼は書状を開いた。
「後任支部長着任まで、浅野タダシを当支部の支部長代理に任ずる」
誰も声を出さなかった。
タダシだけが、少し遅れて瞬きをした。
「…………私がですか?」
「タダシさん以外に誰がいるんですか」
即座に言ったのはフィナだった。
その後ろで、職員たちが顔を見合わせる。
「そりゃそうだろ」
「むしろ今まで違ったのかって感じっすよね」
「いや、でも私、ここに来てまだ——」
「期間は問題にしていません」
アルベールが言った。
「本部は結果を見て判断しました。それと、待遇について」
彼は書状の二枚目をめくった。
「支部長代理手当が付きます。基本給も、代理期間中は支部長職に準じて改定。発注、勤務、依頼処理について、支部長と同等の決裁権を持ちます。人事の最終判断のみ本部預かりです」
一拍置いて、彼は付け加えた。
「おおよそ、今の倍になるかと」
タダシの目が、そこで初めて少し大きくなった。
「あ、給金も増えるんですか」
「増えます」
「それはありがたいですねえ」
しみじみと、そう言った。
フィナが横で額を押さえた。
「……そこなんですね」
「え、大事じゃないですか。宿代もありますし」
「肩書きとか、権限とか、そういうのは」
「ああ、それもありがたいです。決裁待ちがなくなるので」
アルベールが書状を畳みながら、ほんのわずかに口の端を上げた。
最初の決裁は、その日の夕方に来た。
中年の職員が、何度も紙を持ち直しながらタダシの机の前に立った。先週、勤務表の前で「俺も休める?」と言った男だった。
「あの……代理」
「タダシでいいですよ」
「タダシさん。来週、一日、休みを……」
「どうぞ」
タダシは紙を受け取って署名し、そのまま返した。
職員は紙を受け取ったまま、動かなかった。
「……え?」
「はい?」
「理由とか、聞かないんですか?」
「休暇ですよね?」
タダシは首を傾げた。
「だったら、休むためのものじゃないですか?」
「いや、前の支部長のときは、何に使うのか、誰と会うのか、その日の穴はどうするのかって、全部」
「穴は勤務表で埋まってますよ。ほら、ここ」
タダシは壁の紙を指した。
「必要なら書いてもらいますけど、休むこと自体に理由って要ります?」
職員は口を開けて、閉じた。
「あ、それと」
タダシは付け加えた。
「もしその日に何か急ぎがあれば、私が代わりにやっておきますので」
「いやいやいや!」
職員が両手を振った。周りにいた何人かも、同時に振り返った。
「そこまでしなくて大丈夫です!」
「え、でも」
「タダシさんが休めなくなるじゃないですか!」
包帯の職員が、受付の奥から口を挟んだ。
「そうですよ。支部長代理なんだから、ちゃんと座っててください」
「座ってたら仕事にならないと思うんですが」
「そういう意味じゃないっす」
フィナが受付台に肘をついて、小さく笑った。
「タダシさん。皆、心配してるんですよ」
「私をですか」
「タダシさんをです」
タダシはしばらく考えて、それから頷いた。
「……じゃあ、急ぎがあったら皆さんで分けてもらえますか」
「任せてください」
中年の職員は紙を大事そうに懐へしまって、戻っていった。
翌朝、包帯の職員が発注書を持ってきた。
「回復薬、追加発注したいんですが。十二本」
「必要ならお願いします」
「支部長決裁が……」
職員が階段のほうを見た。タダシもつられて、そちらを見た。
それから、ゆっくり自分の胸元を指さした。
「……あ。今、私でしたね」
「そうっす」
「じゃあ、お願いします」
署名して返す。
職員は紙を見て、それからタダシを見た。
「十二本でいいんですか。半分じゃなくて」
「必要なのが十二本なら、十二本でしょう」
職員は紙を持って、小走りで商会への使いに出ていった。扉を出る直前、「早っ」と呟いたのが聞こえた。
昼過ぎ、フィナが二階へ案内してくれた。
「支部長室、使っていいそうです。掃除も済んでます」
扉を開けると、広い部屋だった。窓から通りが見え、大きな机と、革張りの椅子がある。書棚は半分空になっていた。
タダシは中に入って、椅子に座ってみた。背もたれが深く沈んだ。
しばらく、そのまま座っていた。
「……静かですねえ」
「いい部屋ですよね」
「ここ、受付の声、聞こえませんねえ」
フィナが瞬きをした。
タダシは立ち上がって、椅子を机の下に戻した。
「前の机の方が、皆さんに聞きやすいので。そっちでいいです」
「でも、支部長代理なのに」
「代理でも、聞かれることは変わらないので」
階段を降りていくタダシの背中を見送って、フィナは空の部屋を一度だけ振り返った。それから少し笑って、扉を閉めた。
受付の脇の、いつもの机に戻ると、職員が三人待っていた。
「タダシさん、これ」
「こっちもお願いします」
「はいはい」
その夜、タダシは机に白い紙を広げていた。
帰り支度をしていたフィナが、覗き込む。
「また何か作るんですか?」
「連絡の順番です」
紙の上には、名前がいくつか並んでいた。治療師。商会。衛兵の詰所。馬車屋。
「責任者になったなら、何かあったときの連絡先も決めておいたほうが楽ですねえ」
「何かって」
「怪我人が出たとか、そういうときですよ。誰に最初に知らせて、次に誰に知らせるか」
タダシは線を一本引いた。
「そのときになって考えるの、面倒じゃないですか」
フィナは紙を見て、それからタダシを見た。
「……タダシさん。支部長代理になっても、何も変わりませんね」
「そうですか?」
「給金以外」
「給金は大事ですよ」
フィナは、声を出して笑った。
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