第5話 ……誰がやった?
監査官は、思っていたより若い男だった。
三十代の半ばくらいか。灰色の上衣に、革の書類挟みを一つ。供も連れず、荷馬車から降りて、まっすぐギルドの扉をくぐってきた。
「本部監査部、アルベールです」
支部長は階段を駆け下りてきた。今朝は上衣に袖を通し、襟まで留めていた。
「遠いところをようこそ。いやはや、最近は我が支部もかなり改善しておりまして」
「拝見します」
アルベールは書類挟みを開いた。
「報告書は読みました。薬品、在庫、勤務、依頼。四つとも改善されているとありましたので、順に確認させてください」
「もちろん、もちろん」
受付の奥で、フィナが帳面を握りしめていた。隣の職員も落ち着かない様子で、時々こちらを見ている。
タダシは、いつものように空箱を運んでいた。
最初は薬品棚だった。
アルベールは小部屋の戸を開けて、しばらく黙って棚を見ていた。それから、一段ずつ順に目を動かした。
「用途で分けてありますね」
「はい」
「同じ薬の中は……古いものが手前。使用頻度の高いものが中段。残数の札。なるほど」
彼は書類挟みに何か書き込んだ。
「この配置に変えたのは、誰です?」
「私の指導のもとで、職員に」
支部長が前に出た。
「ずっと問題だと思っておりましてね。倉庫の整理というのは、どこの支部も後回しにしがちですが、うちは早くから」
「では、どういう基準で分けていますか」
「……基準、といいますと」
「たとえば、なぜ回復薬と解毒薬を中段に置いたのですか。上段でも下段でもなく」
支部長の口が半分開いたまま止まった。
「それは、その、取りやすいということで」
「誰にとって、どの状況で取りやすいのですか」
答えがなかった。
アルベールは支部長を三秒ほど見てから、視線を受付のほうへ移した。
「どなたか、説明できる方は」
しばらく誰も動かなかった。
それから、フィナが一歩前に出た。
「……タダシさんです」
「タダシさん」
「浅野タダシさんです。うちの、雑務の」
アルベールが振り返った。小部屋の入口で、空箱を抱えた男が立っていた。
「あなたですか」
「はい」
「なぜ中段に」
「急ぐやつなんで」
タダシは箱を下ろした。
「毒で駆け込んでくる人って、だいたい走ってくるじゃないですか。しゃがんだり背伸びしたりしてると、それだけ遅くなるので。手を伸ばした位置にあったほうが早いかなと」
「古いものを手前にしたのは」
「古いのから使わないと、奥で期限が切れて捨てることになるので」
「今月の廃棄は」
タダシは少し考えた。
「ゼロですね」
アルベールの手が、書類挟みの上で止まった。
それから、また書いた。
次は在庫だった。
「追加発注の基準は」
「回復薬でしたら、七本になったら頼んでます」
「なぜ七本」
「一日一本弱くらい使うので、七本だと七日ですよね。商会から届くのが早ければ三日、遅いと十日なので、それくらいで頼んでおくと、なくなる前に間に合うかなと」
アルベールは帳面を見た。指で何かを数えている。
「先月、南の丘の件で払い出しが急増していますね。この日、在庫は」
「二本まで減りました」
「切れていない」
「三日前に追加分が届いてたので」
「その発注は、いつ出したものです」
「その、六日前です」
アルベールが顔を上げた。
「急増を予測していたのですか」
「いえ、全然」
タダシは即答した。
「あの日は驚きました。あんなに来るとは思ってませんでしたよ」
「では、なぜ間に合ったのです」
「なくなる前に頼んでたからです」
アルベールはしばらくタダシを見ていた。
それから、支部長を見た。
「この発注基準を決めたのは」
「支部の方針として、私が――」
「回復薬は何本で発注ですか」
「……それは、担当に任せておりまして」
「先ほど、指導のもとでと仰いましたが」
「細かい数字までは、いちいち」
アルベールは何も言わずに、書き込んだ。
勤務表の前では、彼は長く立っていた。
「この形式は本部でも見たことがありません。時間帯ごとに人数を変えていますね」
「朝と夕方が混むので」
「休日が明記されている」
「休みですからね」
アルベールは、名簿の欄を指でなぞった。
「欠勤が減っていますね。先月と比べて半分以下だ。それと……受付での記入誤りの記録が、ここで途切れている」
「疲れてるとミスしますから」
「休みを増やしたのに、処理量が落ちていない」
「むしろ上がってると思いますよ。詰まらなくなったので」
アルベールは帳面を閉じた。
「これを組み直したのは」
「タダシさんです」
答えたのはフィナだった。今度は一歩前に出る必要がなかった。
「私、ここに来て初めて、丸一日休みました」
「初めて」
「はい。二年です」
部屋が少し静かになった。
アルベールは、その静けさの中で書き込みを続けた。
依頼の箱の前では、四つの札を順に読んだ。
未受注。対応中。報告待ち。完了。
「これは」
「タダシさんです」
包帯の職員が答えた。声が少し大きかった。
「これもタダシさんです。全部、タダシさんです」
「ヨル村の角猪の件も、ここから」
「未受注の箱から出てきました。期限が翌日でした」
「翌日」
「十一日、山の中に埋まってました」
アルベールは礼状を手に取った。村の男が置いていった紙だ。字が大きく、行が傾いている。
彼はそれを読み終えると、書類挟みを閉じて、支部長のほうを向いた。
「報告書には、支部長主導の業務改善とありますが」
「……もちろん、最終的な責任者は私ですから」
「では説明してください」
アルベールの声は、大きくならなかった。
「薬品配置の基準。発注の本数と納期の考え方。勤務表の時間帯別配置。依頼の四分類。この四つを、なぜその形にしたのか。あなたの言葉で」
支部長は口を開いた。
それから閉じた。また開いて、「支部の全体方針として」と言いかけて、止まった。
誰も助け舟を出さなかった。
受付の職員も、掃除をしていた者も、酒場の卓にいた冒険者たちも、その沈黙を聞いていた。
アルベールは待った。十数える間くらいは待った。
それから、書類挟みを開き直した。
最後に、彼はタダシに向き直った。
「浅野さん。以前も、こういう仕事を?」
「似たようなことはやってましたねえ」
「どういった職場で」
「会社です。事務方で、総務というところにいました」
「規模は」
「三百人くらいでしたかね」
アルベールの手が止まった。
「三百人」
「はい」
「その職場の、薬品や備品や勤務の管理を、何人で」
「総務は、だいたい私が……」
タダシは指を折った。
「あとは、部長の予定と、健康診断の手配と、保険の書類と、車の管理と、あと、誰の担当とも決まってない仕事を、まあ、はい」
「一人で」
「一人ですね」
「三百人分を」
「そうなりますかね」
アルベールは、書類挟みを持ったまま動かなかった。
「……三百人分を、一人で?」
「そうですねえ」
タダシは頷いた。それから、少し首を傾げた。
「あ、でも、忙しい時期だけ派遣の方に来てもらってましたよ」
「そういう話ではありません」
フィナが、口を押さえた。
「タダシさん。それ、普通じゃありません」
「そうですか?」
タダシは本当に分かっていない顔をした。
「誰でもできる仕事だって言われてましたけど」
アルベールが、初めて表情を動かした。
目を細めて、それから、ゆっくりと息を吐いた。
「どなたが仰ったのですか、それは」
「前の職場の、上の人です」
「そうですか」
彼はそれ以上聞かなかった。代わりに、書類挟みに長く書き込んだ。
「所見を申し上げます」
アルベールは、その場にいる全員に聞こえる声で言った。
「四つの改善は、いずれも偶然の産物ではありません。明確な業務改善です」
支部長が何か言おうとして、やめた。
「薬品、在庫、勤務、依頼。すべて同じ人物が、同じ考え方で改善しています。配置の理由、発注の根拠、人員の割り振り、状態の分類。全部が一つの筋で通っている。これは偶然にはなりません」
彼は書類挟みを軽く持ち上げた。
「それと、報告書の書き方について一つ訂正しておきます。この支部が、偶然改善したのではありません」
一拍あった。
「浅野さんが、問題を問題として見える形にして、一つずつ改善した。その結果です」
誰も何も言わなかった。
フィナが、鼻をすすった。慌てて顔を背けた。
「そんな大げさなものですかねえ」
タダシが言うと、アルベールは即座に答えた。
「大げさではありません」
彼はもう一度書き込んで、それから支部長を見た。
「本報告書の功績帰属は、監査結果に基づき訂正します。加えて、管理責任と、監査時の説明内容について、本部で確認させていただきます」
「待ってください、私は――」
「本日付で職務を停止します」
アルベールは書類挟みを閉じた。
「続きは本部で伺います」
翌朝、フィナが受付の奥から顔を出した。
「タダシさん。支部長、いなくなったそうです」
「そうなんですか」
タダシは箒の先を揃えていた。
「……驚かないんですか?」
「まあ、よくあることですよねえ」
フィナは何か言おうとして、結局、笑った。
「やっと、ちゃんと見てもらえましたね」
「皆さんが答えてくれたからですよ」
タダシは箒を壁に立てかけた。
「私が言っても、たぶん、ああはならなかったと思います」
その日の午後、荷物の整理があった。
支部長室の私物、古い書類、それから、街道の詰所からまとめて届いていた遺失物の箱。
箱を運んできた職員が、途中で足を止めた。
「タダシさん。これ、タダシさんのですか」
彼が持ち上げたのは、黒い鞄だった。持ち手が擦れて、角が少し潰れている。
「街道で拾われた物が、全部この箱に入ってまして」
タダシは手を止めた。
「ああ」
受け取って、持ち手の内側を見た。薄くなった文字が入っている。
「鞄もこっちに来てたんですねえ」
留め具を開けた。
折りたたみの傘。手帳。飲みかけの茶のボトル。歯の欠けた櫛。
その下に、黒くて薄い板が入っていた。
タダシはそれを取り出して、側面を押した。
一度目は何も起こらなかった。二度目で、板の表面がぼんやり光った。表示が滲んで、端が黒くなっている。
画面の一番上に、小さな字が出ていた。
不在着信 43件
タダシは、その数字をしばらく見ていた。
「……四十三?」
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