第10話 タダシさん、本部行ってほしくないっすよ……
「本部……」
最初に声を出したのは、ガルドだった。
「……やっぱり本部に取られた」
「ほらあああ!」
ニコが箒を握りしめた。
「だから言ったじゃないっすか! 狙われてるって! ベルクどころじゃなかったんすよ!」
「取られたって、人聞き悪いですよ」
タダシは辞令を机に置いた。
「仕事ですからねえ」
「仕事ですけど!」
レイナルトが、封書の二枚目を広げた。
「待遇についても、書いてあります。本部総務課、主査。給金は、今の業務統括責任者の手当込みの額から、さらに上がります」
「また上がるんですか」
「上がります」
「それはありがたいですねえ」
タダシがしみじみ言うと、受付の何人かが、泣きそうな顔のまま吹き出した。
「それと、もう一つ」
レイナルトは紙の下段を指した。
「実務を理解している補佐を、一名、同行させてよいとのことです」
受付の全員が、同時に一人を見た。
フィナだった。
フィナは、受付台に両手をついたまま、動かなかった。
タダシも、彼女のほうを見た。それから、少し考えるような顔をした。
「フィナさん、どうします?」
フィナが顔を上げた。
「私は助かりますけど、フィナさんの仕事ですから。こっちに残るのでも、全然問題ないですよ。受付、フィナさんがいないと困る人も多いですし」
周りの職員が、何か言いたそうにして、黙った。
フィナは、しばらく受付台の木目を見ていた。
それから、顔を上げた。
「行きます」
声に迷いはなかった。
「タダシさん一人で本部に行かせる方が、不安です」
「……私、そんなに不安ですか?」
「不安です」
「分かる」
ガルドが即座に頷いた。トマも、ニコも頷いていた。レイナルトまで、わずかに顎を引いた気がした。
「そうですか……」
タダシは、少し腑に落ちない顔で辞令を畳んだ。
送別会をやる、と言い出したのはトマだった。
「そこまでしなくても」
「します」
「いや、本当に——」
「します」
三回目は、受付の全員が言った。
当日、ギルドの酒場の卓がいくつか寄せられた。料理は、炊事場の職員が朝から仕込んだものだった。そこに、北のヨルの村から届いた燻製肉の塊と、麦で焼いたパンが加わった。村の男が、話を聞いてわざわざ荷車で運んできたのだという。
ドランが酒樽を一つ転がしてきた。
「俺からだ。移るんじゃなくて、上がるんだろ。なら祝いだ」
夜が更けるにつれて、卓は騒がしくなった。
「最初、ポーション棚いじり始めたとき、何してんだこのおっさんって思ったんすよ」
「思った思った。瓶全部出してんだもん」
「休めって言われたときは、逆に怖かった」
トマが杯を振った。
「なんか裏があると思ったんすよ。休ませて、そのまま切られるんじゃないかって」
「支部長代理になっても、同じ机使ってたしな」
「二階、結局一回しか入ってないですよね」
「皆さん、よく覚えてますねえ」
タダシは燻製肉を齧りながら言った。
「覚えてますよ」
フィナが隣で笑った。
「全部、覚えてます」
騒ぎが一段落したころ、トマが杯を置いた。
酒のせいか、目の縁が少し赤かった。
「タダシさん」
「はい」
「俺、母親がずっと具合悪くて」
卓が、少し静かになった。
「隣の町に住んでて、歩いて半日なんすけど。前は休みがいつになるか分かんなくて、月に一回、行けるかどうかで。行けても、夜に呼び出されて、途中で帰ったこともあって」
トマは杯の縁を指でなぞった。
「勤務表が変わってから、毎週行けるようになったんす。休みの日が先に分かるから、母にも『来週行く』って言えて」
「それは良かったですねえ」
「医者にも言われたんすよ。息子さんが毎週来るようになってから、顔色が良くなったって」
トマは、そこで一度言葉を切った。
「……タダシさん、本部行ってほしくないっすよ」
「いや、私は勤務表を作っただけで——」
「それが、助かったんです」
トマは鼻をすすって、それから笑った。
「母、今は落ち着いてるんで。来週も行きます。ちゃんと休み、取れてるんで」
「なら、良かったです」
タダシは頷いた。
卓の端で、ガルドが咳払いをした。
「……俺も、いいか」
「え、ガルドさんも?」
「なんだその顔は」
ガルドは杯を置いて、腕を組んだ。
「俺も、婚約者の親のところに、全然挨拶に行けなかったんだ」
卓が、一瞬固まった。
「……婚約者?」
「ガルドさん、相手いたんすか!?」
「いたよ! 悪いか!」
ガルドは顔を赤くした。
「向こうの親、山のほうの村でな。行って帰るのに丸二日かかる。休みがいつになるか分かんねえから、日を決められなくて。三年、そのまんまだった」
彼は、少し声を落とした。
「休みが先に分かるようになって、やっと日を決められた。先月、行ってきた」
「それで……」
「来年、結婚する」
「おおおお!」
卓が一気に沸いた。ドランが背中を叩き、ニコが立ち上がって拍手した。
「それは、おめでとうございます」
タダシが言うと、ガルドは照れくさそうに頭を掻いた。
「タダシさんのおかげです」
「いや、私は勤務表を——」
「だから、その仕事に助けられたんですって!」
ガルドが卓を叩いた。
杯が跳ねて、誰かが笑った。
タダシは、しばらく二人を見ていた。
母の顔色が良くなった男と、来年結婚する男。
「まあ」
彼は、いつもの調子で言った。
「仕事ですからねえ」
「またそれ」
「皆さんが、使ってくれたから回ったんですよ。紙を作っても、使わなかったら紙のままなので」
フィナが、隣で小さく息を吐いた。呆れているようにも、嬉しそうにも見えた。
翌朝、受付裏で、ごりごりと音がした。
湯が沸き、布を張った漉し器に湯が注がれる。香りが、いつものように受付へ流れていった。
職員たちが、器を受け取りに来た。
いつもより、少し静かだった。誰も「今日も一日やるか」と言わなかった。
「今日は、ちょっと濃かったですかねえ」
タダシが自分の器を覗いて言った。
ニコが、器を両手で包んだまま、ぽつりと言った。
「……もう、この匂い、毎朝しなくなるんすね」
誰も、すぐには答えなかった。
トマが、器を置いた。
「本部でも、豆切らさないようにしてくださいよ」
「あ、そうですね。着いたらまず、乾物屋を探さないと」
「そこっすか」
ようやく、何人かが笑った。
出発は、昼前だった。
本部から迎えの馬車が来ていた。タダシは通勤鞄と、布袋一つ。挽き器は袋の中に入っている。フィナは、自分の荷物を二つ抱えていた。
ギルドの前に、職員たちが並んでいた。レイナルトも、ドランも、何人かの冒険者もいた。
タダシは、馬車の前で振り返った。
ニコが、一歩前に出た。今日は、泣いていなかった。
「行ってらっしゃい、タダシさん」
その後ろで、トマが、ガルドが、同じ言葉を言った。
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい、フィナ」
タダシは、少しだけ間を置いた。
「行ってきます」
馬車が動き出した。
角を曲がるまで、誰も手を下ろさなかった。
本部は、王都の中央通りに面していた。
石造りの建物が三棟、中庭を囲んで並んでいる。一階の受付だけで、支部の受付の五倍はあった。窓口が十以上並び、それぞれに列ができている。廊下を、書類を抱えた職員が行き来していた。
案内の職員に続いて廊下を進むと、すれ違う職員たちが、ちらちらとこちらを見た。
「……あの人?」
「もっと切れ者っぽい人かと思った」
「地方支部じゃ、かなり役に立ったらしいけど」
小さな声だった。悪意というほどのものはなかった。ただ、期待していたほど派手ではない、という温度だった。
フィナが、前を向いたまま小さく呟いた。
「……すぐ分かりますよ」
タダシは、聞いていなかった。
廊下の窓から見える部屋を、一つずつ見ていた。
ある部屋では、机の上に決裁待ちの書類が、腰の高さまで積まれていた。
隣の部屋では、職員が二人、同じ内容らしい書類を、別々の書式で書き写していた。
その奥の部屋では、十人ほどが卓を囲んで座っていた。誰も喋っていなかった。一人が長々と何かを読み上げていて、残りの九人が、それを聞いているだけだった。
廊下の掲示板には、支部ごとに違う形の報告書が、まとめて貼り出されていた。書式が七種類あった。
書類棚の前では、若い職員が泣きそうな顔で紙をめくっていた。
「……あれ、どこ行ったんだっけ……前の担当の人しか分かんないんだよな……」
タダシは、足を止めた。
「タダシさん?」
フィナが振り返った。
タダシは、廊下の奥を見たまま、しみじみと言った。
「いやあ……大変そうだなと思って」
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