第11話 これ、どこで止まってるんですか?
本部の廊下は、朝から人が絶えなかった。
案内の職員について三階へ上がる間に、タダシは三度、同じ光景を見た。
二階の階段脇で、若い職員が書類を抱えて誰かに尋ねていた。
「あの、先月出した支部の件なんですけど」
「ああ、それ部長決裁待ちです」
三階の廊下では、別の職員が別の相手に言っていた。
「経理の回答待ちですね」
目的の部屋の扉の前では、こうだった。
「課長のところで止まってます」
タダシは少し足を緩めて、その三人を順番に見た。
誰も怠けていなかった。全員、何かを抱えて早足で歩いていた。
机は三階の奥の大部屋だった。十六の机が向かい合わせに並び、窓際の二つが空いている。
「浅野さんはこちら、フィナさんは隣です」
「ありがとうございます」
部屋の向こう側で、職員が二人、こちらを見ていた。
「あの人が、地方支部から来た浅野さん?」
「らしいよ」
「もっと切れ者っぽい人かと思った」
「かなり改善したらしいけどな。支部の在庫と勤務を全部直したって」
悪意はなかった。ただ、思っていたのと違う、という顔だった。
フィナが口を開きかけたところで、隣の机から低い呻き声がした。
紙の山があった。
いや、机があって、その上に紙が積まれていて、その隙間から人の後頭部が見えていた。三十半ばくらいの男が突っ伏している。丸い眼鏡が、頬の下で潰れていた。
右手だけが、机から突き出すように上がっていた。
紙を一枚、握っている。
「……通さないと」
呻き声が言った。
「通さないと……ハラの人が、冬に困る……経理が……四回言っても……」
手が、ゆっくり下がった。
「……もう、ムリ……」
寝息が聞こえてきた。
「……寝ちゃいましたね」
「寝ちゃいましたねえ」
タダシは、その手からそっと紙を抜き取った。角が折れて、日付のあたりに親指の跡がついている。何度も握り直されたらしい。
西のハラ支部。冬季手当。職員十四名分。申請日は、二か月前。
フィナが、横から覗き込んでいた。
彼女は、しばらく何も言わなかった。それから、ぽつりと言った。
「……うちも、ありました」
「え?」
「本部に出した書類の返事が来なくて、ずっと待ってたこと」
フィナは、紙の山を見た。
「去年、受付の椅子が壊れて、修繕費を申請したんです。半年待ちました。結局、来る前に自分たちで直しました。前の支部長は『本部は遅い』って言ってて、私たちもそう思ってて」
彼女は、山を指した。
「……こういうことだったんですね」
「そうですねえ」
タダシは、紙をもう一度見た。
「ここで、止まってたんですねえ」
いつもの声だったが、少しだけ低かった。
彼は紙を持って立ち上がった。
「とりあえず、経理行きましょうか」
「はい」
「何階ですかね」
「聞いてきます」
経理は一階の奥にあった。
扉を開けた途端、算盤の音が三方から聞こえた。帳簿を抱えた職員が通路を行き交い、どの机にも紙が積まれている。窓口には、すでに二人並んでいた。
タダシは列の最後尾について、順番を待った。
自分の番が来たのは、しばらくしてからだった。二か月前の案件だと告げると、中年の女性職員は眉を寄せて奥へ消え、簿冊を抱えて戻ってきた。日付をたどって、指を止める。
「あったわ。……ああ、これ、人事のところで止まってるわね」
「支部の職員数の確認ですか」
「そう。こっちから聞くはずだったんだけど、月末で手が回らなくて」
彼女は背後を親指で示した。机の間を、帳簿を抱えた職員が小走りに通り抜けていく。
「じゃあ、人事に確認しましょう」
「行ってくれるの?」
女性職員が顔を上げた。それから、タダシとフィナを見比べて、少し表情を緩めた。
「助かるわ。新入りさんか。ここは忙しいけど、頑張ってね」
「ありがとうございます」
「確認取れたら、直接持ってきて。うちで受けるから。そしたら今日中に処理する」
人事は二階だった。
こちらも人が多かった。窓口の若い男は、紙を見て、経理からの照会が回ってきていないことをすぐに認めた。名簿を見るだけだと言って奥へ行き、五分で戻ってきた。
「十四名です。去年から一人増えてます。増えた分、手当も足してください」
「ありがとうございます」
タダシが頭を下げると、男は椅子に座り直しながら言った。
「にしても、珍しいですね。普通、照会って紙で回すんですよ。だから返事まで二週間とか平気でかかる。こんなに積極的に降りてきた新入り、見たことないです」
彼は少し笑った。
「分からないことあったら、どんどん聞きに来てください。紙で聞かれるより、そのほうが早いんで」
「そうします」
「あ、それと」
男が付け加えた。
「経理の締め、月末の三日前ですからね。今日までです」
フィナが、はっと顔を上げた。
「今日を逃したら」
「来月です。支給は月の半ばですね」
フィナは、紙を引っ掴んだ。
「タダシさん、行ってきます!」
「お願いします」
三階に戻ると、男はまだ机に突っ伏していた。
タダシが椅子に座って、上着を脱いだころ、フィナが息を切らして戻ってきた。受領印の押された控えを持っている。
「間に合いました。今月中に、ハラへ届くそうです」
「間に合ってよかったですねえ」
男が、跳ね起きた。
眼鏡が飛んで、机の上の紙が崩れた。
「え」
「間に合ったそうですよ」
「え?」
「今日が締め日だったそうで」
「え!?」
男は眼鏡を拾って、かけて、控えを受け取って、両面を見た。
それから、椅子の背に倒れ込んだ。
「……半日」
「半日ですね」
「私、二か月止めてました」
「量が多いですからねえ」
男はしばらく天井を見ていた。
それから、ゆっくりと身を起こして、タダシを見た。
「……あの」
「はい」
「どなたです?」
「浅野です。今日から、こちらの席で」
タダシが隣の机を指した。
男は、その机と、タダシと、フィナを順番に見た。
しばらくして、立ち上がって、深く頭を下げた。
「ラスです。地方担当四班です。……浅野さんの、受け入れ担当です」
「よろしくお願いします」
「初日の人に仕事をさせました。本当にすみません」
「仕事ですからねえ」
タダシは、崩れた紙を拾い上げて、机の上で揃えた。
「この山、崩れますよね」
「崩れます」
「同じことが、また起きると思うんですが」
ラスが、山を見た。それから、力なく頷いた。
「……起きますね。たぶん、この中にもう何件か埋まってます」
「じゃあ、分けましょうか」
紙を全部机に出して、一枚ずつ読んで、「次に何が起きれば進むか」で分けていった。
こちらが動けば進む紙。相手の返事を待っている紙。誰かの決裁を待っている紙。直して出し直せばいい紙。そもそも、もう終わっている紙。期限のあるものには、日付を書いた紙片を挟む。
「これ、依頼の箱と同じですね」
フィナが束を作りながら言った。
「同じですよ。数が多いだけで」
三十分で、五つの束ができた。
そして、束の中から、十二件が出てきた。
三日前に経理から回答が届いていたミドリ支部の修繕費。ラスが昨日一日探していたものだった。決裁が三つとも揃っているのに、支部へ通知されていない東部の人員配置。不備を直したまま出し忘れている再提出が二件。
そして、今日が締め日の燃料費申請が、もう一件。
「フィナさん!」
「行きます!」
フィナが、また走っていった。
ラスは、五つの束を、しばらく黙って見ていた。
「……これだけで、だいぶ違いますね」
「そうでしょう」
夕方、部屋の向かいの職員が、ラスの机を覗きに来た。
朝、「もっと切れ者っぽい人かと思った」と言っていた男だった。
「……ラスさん。机、どうしたんです」
紙の山がなかった。束が七つ。どれも、机の面が見えるくらいの厚みだった。
「分けただけです」
「分けただけ?」
「次に誰が動くかで分けただけです。そしたら、回答が来てるやつと、もう決裁が終わってるやつが、十二件出てきました。うち一件は、二か月止まってました。ハラの冬季手当です」
職員の顔が変わった。
「ハラって、雪のところですよね」
「今日中に出せば、今月の支給に間に合うやつでした」
「出せたんですか」
「出しました。浅野さんが、経理と人事を自分で回って」
部屋の何人かが、手を止めてこちらを見ていた。
「……浅野さん」
職員が、タダシを見た。
「今まで、どこで何やってたんです?」
「地方支部ですけど」
「いや、それは聞きましたけど」
彼は言葉を探して、諦めたように言った。
「こんな人材が、地方に埋もれてたんですか?」
フィナが、すっと前に出た。
両手を後ろで組んで、胸を張った。
「これが、タダシさんです」
「……何でフィナさんが得意そうなんです?」
タダシが、本気で不思議そうに言った。
ラスが吹き出した。向かいの職員も笑った。
部屋の空気が、朝より少しだけ緩んだ。
その日の最後に、タダシは一枚の紙を手に取った。
どの束にも入れていなかった紙だった。分ける途中で日付が目について、脇に避けておいたものだ。
「ラスさん。これ、ずいぶん前ですね」
ラスが受け取って、日付を見た。
それから、顔色が変わった。
「……『鉄環の牙』だ」
フィナが、紙を覗き込んで小さく声を上げた。
「あの、鉄環の牙ですか」
「北の大穴の遠征です。五十人規模の。支給と支部間の調整が、全部この一枚に乗ってます」
ラスは紙を裏返した。決裁の欄が四つ並んでいる。どこにも印はなかった。
「出発は明後日なんですが、これが通らないと、薬も食料も出ません。遅れたら、五十人が穴の前で足止めです」
「間に合います?」
「普通に回したら、無理です」
タダシは、上着を椅子から取った。
「じゃあ、これは手回しで行きましょうか」
「手回し?」
「持って歩いて、その場で判子もらうんですよ。机で待ってるより早いので」
「今からですか!?」
「明後日ですからねえ」
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