第12話 これ、今日中じゃないと間に合わないですよね?
翌朝、タダシは出勤してすぐ、申請書を持って課長の部屋へ行った。
課長は一枚目から順に読んで、途中で二度、指を止めた。
「……鉄環の牙か。大穴、行くのか」
「明日だそうです」
「明日?」
課長は書類を机に置いて、腕を組んだ。
「額が額だからなあ。部長の意見を確認してみないと」
悪意のある止め方ではなかった。判断を一人で背負いたくない、という顔だった。
彼は書類の隅に所見を書き、印を押して返した。
「部長は隣の部屋だ」
「ありがとうございます」
廊下に出ると、フィナが小声で聞いた。
「これを、毎回やるんですか?」
「本部ならこんなものでしょう」
部長の机は、部屋の一番奥にあった。
書類が両脇に積まれ、その間から相手の顔が覗く形になっている。タダシが申請書を差し出すと、部長は受け取りもせずに目だけを動かした。
「これ、本部案件なの?」
「はい。周辺三支部への要請が入ってますので」
「必要って誰が判断したの?」
「申請は鉄環の牙から出ています。課長さんの所見も付いてます」
「ふーん」
部長は書類を受け取って、めくった。二枚目で止めて、それから、大きく息を吐いた。
「俺も忙しいんだけどさあ」
「すみませんねえ。遠征が明日だそうで」
返事はなかった。
部長は書類の欄に印を押すと、指先で滑らせるように返した。目は、もう別の紙に戻っていた。
次長の部屋は、一つ上の階だった。
次長は五十くらいの、目つきの鋭い男だった。申請書を受け取ると、黙って全部読んだ。読み終わってから、最初の一枚に戻った。
「ここ、書類の不備があるね」
「どこでしょう」
「周辺支部への要請だ。三支部から人を出してもらうなら、各支部の現在の充足状況の添付が要る。様式は本部規定で決まっている」
彼は該当の欄を指した。
「人を抜かれる側の状況が分からないまま承認はできない。抜いたせいでそっちが回らなくなったら、本末転倒だからね」
「なるほど」
「書き直して、また持ってきなさい」
廊下に出ると、フィナが肩を落とした。
「……また一からですか」
「まあ、仕事ってそんなものですよ」
タダシは書類を持ち直した。
「今の、嫌がらせじゃないですよ。人を出す側の支部が潰れたら困るので。ちゃんとした指摘です」
「でも、二週間も止まってたのに」
「だから、今日中に直しましょう」
三つの支部の充足状況は、人事にあった。
二階へ降りると、昨日の若い男が顔を上げて、少し笑った。
「また来たんですか」
「また来ました」
「早いですね」
「今日中なので」
三支部の名簿を出してもらうのに、十分もかからなかった。
ただ、そこからが長かった。
一つの支部だけ、先月の異動がまだ反映されていなかった。報告の紙は届いているのに、名簿に写す作業が追いついていないという。タダシはその場で報告書を写し、日付と出典を書き添えた。
もう一つの支部は、そもそも様式が古かった。今の規定の様式に書き直すには、欠員の内訳がいる。それは人事にはなく、地方担当の記録のほうにあった。三階へ戻って探し、また二階へ降りた。
フィナは、その間ずっと様式を書いていた。地方支部の受付で、同じような書類を二年書いてきた手だった。
「タダシさん、この欄は今の人数でいいんですよね」
「はい。空いてる欄は斜線で」
昼を食べる時間はなかった。
窓の光が傾き始めたころ、ようやく三支部分が揃った。
「……終わりました」
フィナが、書き終えた最後の一枚を差し出した。指の関節が赤くなっている。
「ありがとうございます」
タダシは全部を重ねて、端を揃えた。
「行きましょうか」
課長は、顔を上げただけで終わった。
「ああ、朝のやつね」
書類をめくって、添付を確認して、印を押す。
「直ってる。じゃあ部長へ。……今日中だぞ」
「はい」
一度通った相手は、速かった。
部長の部屋に入った瞬間、空気が違うのが分かった。
夕方だった。部屋の職員は半分ほどが帰り支度を始めていて、その中で部長の机だけ、朝より書類が高くなっていた。机の前に別の職員が立って、頭を下げている。部長は低い声で何か言っていた。職員が出ていくとき、その顔は青かった。
フィナが、タダシの袖を引いた。
「あとにしませんか」
「明日なので」
タダシは机の前に立って、いつもの調子で言った。
「すみません。朝の鉄環の牙の申請ですが、不備を直してきましたので」
部長が顔を上げた。
「だから忙しいって言ってんだろ!」
机が鳴った。積まれた書類が一つ崩れた。
「朝も夕方も! 何なんだお前は! 別の日に持ってこい!!」
フィナの肩が、大きく跳ねた。
タダシは、書類を下ろした。
「分かりました」
それだけ言って、頭を下げて、部屋を出た。
廊下は静かだった。
フィナが、握った拳を胸の前で震わせていた。
「……なんで、あんな」
「まあ、忙しいんでしょう。今日は朝から、机の紙が増えてましたし」
タダシは廊下の窓際まで歩いて、書類の日付を見た。
申請から二週間。出発は、明日の朝。
「別の日だと、間に合わないですねえ」
「でも、部長が……」
「部長が忙しいなら」
タダシは書類を畳んだ。
「上の方に相談してみましょうか」
フィナが目を見開いた。
「それ、飛ばすってことじゃ」
「飛ばしませんよ。相談です」
彼は階段のほうへ歩き出した。
「判子を押すのは、向こうの仕事ですから。こっちは、どうすればいいか聞くだけです」
次長は、まだ在席していた。
「すみません。ご相談だけでもよろしいですか」
「不備は直ったのか」
「直しました。三支部分の充足状況を添付しています。一つは名簿の反映が遅れていたので、支部からの報告書の写しを添えました。もう一つは様式が古かったので、欠員の内訳を地方担当の記録から起こしています」
次長は受け取って、添付から先に見た。写しの日付のところで、少し眉を上げた。
「……ああ、そういうことか。なるほどね」
彼は本体に戻って、決裁欄を見た。
課長の印が二つ。部長の印が、今朝の日付で一つ。修正版の欄は空白のまま。
「部長の印が、修正版のほうにないな」
「今朝、一度いただいています。夕方に修正版を持っていったのですが、今日は難しいようで」
「二度持っていったのか」
「はい。別の日にと言われましたので」
次長は、しばらくタダシを見ていた。
それから、申請書の日付と、遠征の出発日を見比べた。
「これは、今日だな」
「はい」
「分かった」
次長は立ち上がった。
「私から本部長へ上げよう」
「よろしいんですか」
「期限がある案件で、相談を受けたのは私だ。判断も私がする」
彼は書類を持って、廊下へ出た。
「ついてきなさい。本部長が何か聞くかもしれん」
本部長の部屋は、最上階にあった。
次長が経緯を説明し、書類を差し出すと、白髪の男は老眼鏡を上げて、決裁欄を見た。
「……これ、まだ出てなかったのか」
「二週間、下で止まっていたようです」
「出発は」
「明日の朝です」
本部長は書類の中身を一枚ずつ確認した。三支部の充足状況のところで、指を止めた。
「抜く側の状況も付いてるな」
「本日、修正して添付しました」
「結構」
彼は印を押して、次長へ返した。
「間に合わせなさい」
「ありがとうございます」
タダシが頭を下げた。
本部長は、その頭を見てから、老眼鏡を下ろした。
「君が持ってきたのか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。
三階へ降りると、ラスがまだ残っていた。
決裁済みの書類を見た瞬間、彼は立ち上がった。
「通ったんですか!?」
「通りました。倉庫と、支部への早馬をお願いできますか」
「やります。今からやります」
ラスは椅子を蹴るように立って、薬品と保存食の払い出し指示を書き始めた。周辺三支部への要請は、今夜のうちに早馬を出せば近い支部には夜半までに届き、人員も明け方までには合流できるという。
「担架と馬車も、私がやります。これくらいはやらせてください」
「じゃあ、お願いします」
「浅野さんは」
ラスが手を止めずに聞いた。
「本人たちには、誰が知らせるんです?」
「行ってきます。宿にいるそうなので」
鉄環の牙の一行は、街の東の宿に泊まっていた。
リーダーは、四十くらいの大柄な女だった。片目の上に、古い傷がある。
タダシが決裁の写しを差し出すと、彼女はそれを一瞥して、そのまま床に叩きつけそうな勢いで握った。
「なんでこんなにかかってんだよ!」
宿の一階にいた仲間たちが、一斉にこちらを見た。
「二週間だぞ、二週間! こっちは五十人集めて、日程も組んで、村にも話を通してんだ!」
「はい」
「これで遠征が遅れたら、どれだけの人間に迷惑がかかると思ってる!」
彼女は書類を突きつけた。
「俺たちが十分に戦えるようにするのが、お前たちの仕事だろ!」
「……ですよねえ」
タダシは頭を下げた。
「すみませんでした」
フィナが、何か言おうとして、唇を噛んだ。
リーダーは、肩で息をしていた。それから、書類をもう一度見て、日付を確かめて、舌打ちをした。
「……間に合うのか」
「薬と食料は、明日の朝に倉庫から出ます。支部からの人は、明日の出発前までに合流する予定です」
「そうか」
彼女は書類を丸めずに、机に置いた。
「行っていい」
宿を出ると、通りはもう暗かった。
フィナは、しばらく黙って歩いていた。
「タダシさんは、悪くないのに」
「まあ」
「というか、見つけたのタダシさんですよ。止めてたのは別の人なのに、なんでタダシさんが謝るんですか」
「そんなもんですよ」
タダシは、いつもの調子で言った。
「最後に持っていった人が言われますからね。窓口にいると、だいたいそうです」
「納得いきません」
「納得しなくていいと思いますよ」
フィナが顔を上げた。
「私も、納得はしてませんから」
タダシは前を向いたまま言った。
「間に合ったので、それはよかったですけど」
本部へ戻ると、三階にはまだ灯りがついていた。
ラスが指示書を書き終えたところだった。向かいの職員も残っていて、早馬の手配に付き合っていた。
「浅野さん、指示書、全部出しました」
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ、私が二週間止めてた案件ですから」
ラスは笑って、それから、机の上の決裁の写しを覗き込んだ。
そして、動きを止めた。
「……待ってください」
「はい」
「これ、部長の印、修正版のほうがないですよね」
「夕方は難しいとのことでしたので」
「次長から、本部長へ?」
「そうです」
ラスの顔から、血の気が引いた。
向かいの職員も、手に持っていた紙を下ろした。
「……部長、すっ飛ばしたんですか?」
「まあ、急ぎでしたからねえ」
タダシは上着を椅子から取った。
「明日、しっかり説明しますよ」
フィナが、横から不安そうに聞いた。
「それ、大丈夫なんですか」
「説明すれば分かるでしょう」
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