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12/20

第12話 これ、今日中じゃないと間に合わないですよね?




 翌朝、タダシは出勤してすぐ、申請書を持って課長の部屋へ行った。


 課長は一枚目から順に読んで、途中で二度、指を止めた。


「……鉄環の牙か。大穴、行くのか」


「明日だそうです」


「明日?」


 課長は書類を机に置いて、腕を組んだ。


「額が額だからなあ。部長の意見を確認してみないと」


 悪意のある止め方ではなかった。判断を一人で背負いたくない、という顔だった。


 彼は書類の隅に所見を書き、印を押して返した。


「部長は隣の部屋だ」


「ありがとうございます」


 廊下に出ると、フィナが小声で聞いた。


「これを、毎回やるんですか?」


「本部ならこんなものでしょう」


 部長の机は、部屋の一番奥にあった。


 書類が両脇に積まれ、その間から相手の顔が覗く形になっている。タダシが申請書を差し出すと、部長は受け取りもせずに目だけを動かした。


「これ、本部案件なの?」


「はい。周辺三支部への要請が入ってますので」


「必要って誰が判断したの?」


「申請は鉄環の牙から出ています。課長さんの所見も付いてます」


「ふーん」


 部長は書類を受け取って、めくった。二枚目で止めて、それから、大きく息を吐いた。


「俺も忙しいんだけどさあ」


「すみませんねえ。遠征が明日だそうで」


 返事はなかった。


 部長は書類の欄に印を押すと、指先で滑らせるように返した。目は、もう別の紙に戻っていた。


 次長の部屋は、一つ上の階だった。


 次長は五十くらいの、目つきの鋭い男だった。申請書を受け取ると、黙って全部読んだ。読み終わってから、最初の一枚に戻った。


「ここ、書類の不備があるね」


「どこでしょう」


「周辺支部への要請だ。三支部から人を出してもらうなら、各支部の現在の充足状況の添付が要る。様式は本部規定で決まっている」


 彼は該当の欄を指した。


「人を抜かれる側の状況が分からないまま承認はできない。抜いたせいでそっちが回らなくなったら、本末転倒だからね」


「なるほど」


「書き直して、また持ってきなさい」


 廊下に出ると、フィナが肩を落とした。


「……また一からですか」


「まあ、仕事ってそんなものですよ」


 タダシは書類を持ち直した。


「今の、嫌がらせじゃないですよ。人を出す側の支部が潰れたら困るので。ちゃんとした指摘です」


「でも、二週間も止まってたのに」


「だから、今日中に直しましょう」


 三つの支部の充足状況は、人事にあった。


 二階へ降りると、昨日の若い男が顔を上げて、少し笑った。


「また来たんですか」


「また来ました」


「早いですね」


「今日中なので」


 三支部の名簿を出してもらうのに、十分もかからなかった。


 ただ、そこからが長かった。


 一つの支部だけ、先月の異動がまだ反映されていなかった。報告の紙は届いているのに、名簿に写す作業が追いついていないという。タダシはその場で報告書を写し、日付と出典を書き添えた。


 もう一つの支部は、そもそも様式が古かった。今の規定の様式に書き直すには、欠員の内訳がいる。それは人事にはなく、地方担当の記録のほうにあった。三階へ戻って探し、また二階へ降りた。


 フィナは、その間ずっと様式を書いていた。地方支部の受付で、同じような書類を二年書いてきた手だった。


「タダシさん、この欄は今の人数でいいんですよね」


「はい。空いてる欄は斜線で」


 昼を食べる時間はなかった。


 窓の光が傾き始めたころ、ようやく三支部分が揃った。


「……終わりました」


 フィナが、書き終えた最後の一枚を差し出した。指の関節が赤くなっている。


「ありがとうございます」


 タダシは全部を重ねて、端を揃えた。


「行きましょうか」


 課長は、顔を上げただけで終わった。


「ああ、朝のやつね」


 書類をめくって、添付を確認して、印を押す。


「直ってる。じゃあ部長へ。……今日中だぞ」


「はい」


 一度通った相手は、速かった。


 部長の部屋に入った瞬間、空気が違うのが分かった。


 夕方だった。部屋の職員は半分ほどが帰り支度を始めていて、その中で部長の机だけ、朝より書類が高くなっていた。机の前に別の職員が立って、頭を下げている。部長は低い声で何か言っていた。職員が出ていくとき、その顔は青かった。


 フィナが、タダシの袖を引いた。


「あとにしませんか」


「明日なので」


 タダシは机の前に立って、いつもの調子で言った。


「すみません。朝の鉄環の牙の申請ですが、不備を直してきましたので」


 部長が顔を上げた。


「だから忙しいって言ってんだろ!」


 机が鳴った。積まれた書類が一つ崩れた。


「朝も夕方も! 何なんだお前は! 別の日に持ってこい!!」


 フィナの肩が、大きく跳ねた。


 タダシは、書類を下ろした。


「分かりました」


 それだけ言って、頭を下げて、部屋を出た。


 廊下は静かだった。


 フィナが、握った拳を胸の前で震わせていた。


「……なんで、あんな」


「まあ、忙しいんでしょう。今日は朝から、机の紙が増えてましたし」


 タダシは廊下の窓際まで歩いて、書類の日付を見た。


 申請から二週間。出発は、明日の朝。


「別の日だと、間に合わないですねえ」


「でも、部長が……」


「部長が忙しいなら」


 タダシは書類を畳んだ。


「上の方に相談してみましょうか」


 フィナが目を見開いた。


「それ、飛ばすってことじゃ」


「飛ばしませんよ。相談です」


 彼は階段のほうへ歩き出した。


「判子を押すのは、向こうの仕事ですから。こっちは、どうすればいいか聞くだけです」


 次長は、まだ在席していた。


「すみません。ご相談だけでもよろしいですか」


「不備は直ったのか」


「直しました。三支部分の充足状況を添付しています。一つは名簿の反映が遅れていたので、支部からの報告書の写しを添えました。もう一つは様式が古かったので、欠員の内訳を地方担当の記録から起こしています」


 次長は受け取って、添付から先に見た。写しの日付のところで、少し眉を上げた。


「……ああ、そういうことか。なるほどね」


 彼は本体に戻って、決裁欄を見た。


 課長の印が二つ。部長の印が、今朝の日付で一つ。修正版の欄は空白のまま。


「部長の印が、修正版のほうにないな」


「今朝、一度いただいています。夕方に修正版を持っていったのですが、今日は難しいようで」


「二度持っていったのか」


「はい。別の日にと言われましたので」


 次長は、しばらくタダシを見ていた。


 それから、申請書の日付と、遠征の出発日を見比べた。


「これは、今日だな」


「はい」


「分かった」


 次長は立ち上がった。


「私から本部長へ上げよう」


「よろしいんですか」


「期限がある案件で、相談を受けたのは私だ。判断も私がする」


 彼は書類を持って、廊下へ出た。


「ついてきなさい。本部長が何か聞くかもしれん」


 本部長の部屋は、最上階にあった。


 次長が経緯を説明し、書類を差し出すと、白髪の男は老眼鏡を上げて、決裁欄を見た。


「……これ、まだ出てなかったのか」


「二週間、下で止まっていたようです」


「出発は」


「明日の朝です」


 本部長は書類の中身を一枚ずつ確認した。三支部の充足状況のところで、指を止めた。


「抜く側の状況も付いてるな」


「本日、修正して添付しました」


「結構」


 彼は印を押して、次長へ返した。


「間に合わせなさい」


「ありがとうございます」


 タダシが頭を下げた。


 本部長は、その頭を見てから、老眼鏡を下ろした。


「君が持ってきたのか」


「はい」


「そうか」


 それだけだった。


 三階へ降りると、ラスがまだ残っていた。


 決裁済みの書類を見た瞬間、彼は立ち上がった。


「通ったんですか!?」


「通りました。倉庫と、支部への早馬をお願いできますか」


「やります。今からやります」


 ラスは椅子を蹴るように立って、薬品と保存食の払い出し指示を書き始めた。周辺三支部への要請は、今夜のうちに早馬を出せば近い支部には夜半までに届き、人員も明け方までには合流できるという。


「担架と馬車も、私がやります。これくらいはやらせてください」


「じゃあ、お願いします」


「浅野さんは」


 ラスが手を止めずに聞いた。


「本人たちには、誰が知らせるんです?」


「行ってきます。宿にいるそうなので」


 鉄環の牙の一行は、街の東の宿に泊まっていた。


 リーダーは、四十くらいの大柄な女だった。片目の上に、古い傷がある。


 タダシが決裁の写しを差し出すと、彼女はそれを一瞥して、そのまま床に叩きつけそうな勢いで握った。


「なんでこんなにかかってんだよ!」


 宿の一階にいた仲間たちが、一斉にこちらを見た。


「二週間だぞ、二週間! こっちは五十人集めて、日程も組んで、村にも話を通してんだ!」


「はい」


「これで遠征が遅れたら、どれだけの人間に迷惑がかかると思ってる!」


 彼女は書類を突きつけた。


「俺たちが十分に戦えるようにするのが、お前たちの仕事だろ!」


「……ですよねえ」


 タダシは頭を下げた。


「すみませんでした」


 フィナが、何か言おうとして、唇を噛んだ。


 リーダーは、肩で息をしていた。それから、書類をもう一度見て、日付を確かめて、舌打ちをした。


「……間に合うのか」


「薬と食料は、明日の朝に倉庫から出ます。支部からの人は、明日の出発前までに合流する予定です」


「そうか」


 彼女は書類を丸めずに、机に置いた。


「行っていい」


 宿を出ると、通りはもう暗かった。


 フィナは、しばらく黙って歩いていた。


「タダシさんは、悪くないのに」


「まあ」


「というか、見つけたのタダシさんですよ。止めてたのは別の人なのに、なんでタダシさんが謝るんですか」


「そんなもんですよ」


 タダシは、いつもの調子で言った。


「最後に持っていった人が言われますからね。窓口にいると、だいたいそうです」


「納得いきません」


「納得しなくていいと思いますよ」


 フィナが顔を上げた。


「私も、納得はしてませんから」


 タダシは前を向いたまま言った。


「間に合ったので、それはよかったですけど」


 本部へ戻ると、三階にはまだ灯りがついていた。


 ラスが指示書を書き終えたところだった。向かいの職員も残っていて、早馬の手配に付き合っていた。


「浅野さん、指示書、全部出しました」


「ありがとうございます。助かりました」


「いえ、私が二週間止めてた案件ですから」


 ラスは笑って、それから、机の上の決裁の写しを覗き込んだ。


 そして、動きを止めた。


「……待ってください」


「はい」


「これ、部長の印、修正版のほうがないですよね」


「夕方は難しいとのことでしたので」


「次長から、本部長へ?」


「そうです」


 ラスの顔から、血の気が引いた。


 向かいの職員も、手に持っていた紙を下ろした。


「……部長、すっ飛ばしたんですか?」


「まあ、急ぎでしたからねえ」


 タダシは上着を椅子から取った。


「明日、しっかり説明しますよ」


 フィナが、横から不安そうに聞いた。


「それ、大丈夫なんですか」


「説明すれば分かるでしょう」



お読みいただきありがとうございます。

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