第13話 俺を飛ばしただと?
翌朝、部長は決裁記録を確認していた。
タダシが席に着いて、上着を脱いだところだった。
「浅野!」
部屋の入口から声が飛んだ。三階の全員が振り返った。
「ちょっと来い!」
タダシは上着を椅子の背に掛け直して、立ち上がった。
「はい」
部長は書類を握っていた。昨日の決裁の写しだった。
「お前、俺を飛ばして本部長まで上げたらしいな!」
「はい」
タダシは頷いた。
「昨日中でないと間に合わなかったので、次長に相談しました」
「相談?」
部長の声が大きくなった。
「相談という形なら何でも上に持っていけるってことか。それを許したら、決裁経路なんてものは意味を失うんだよ。組織には順番ってものがあるんだ!」
「そうですね」
「分かってるなら、なんでやった!」
「間に合わないので」
部長が言葉に詰まった。
それから、写しを机に叩きつけるように置いた。
「……次長に話をつける」
彼は踵を返して、部屋を出ていった。
フィナが立ち上がりかけていた。顔が赤くなっている。
「フィナさん」
「だって」
「座ってていいですよ」
タダシは、机の上の束に手を伸ばした。
ラスが、青い顔で近づいてきた。
「浅野さん、あの、大丈夫ですか。部長、たぶん処分をって話にしますよ」
「そうですか」
「そうですかって」
「呼ばれたら行きますよ」
呼ばれたのは、半刻後だった。
次長の部屋には、部長が先に立っていた。机の前で、まだ何か言っている途中だった。
「——こんな勝手を許したら、組織が回らなくなります。処分すべきです」
「まず事実を確認しましょう」
次長は、入ってきたタダシを見た。
「浅野さん。経緯を説明してください」
「はい」
タダシは、いつもの調子で話した。
「一昨日、書類の山を分けているときに、鉄環の牙の申請が出てきました。申請から二週間経っていて、決裁の印が一つもありませんでした。遠征の出発が翌朝だったので、昨日の朝、課長さんに持っていきました」
次長が頷いた。
「課長さんの所見をいただいて、部長さんに持っていって、印をいただきました。それから次長のところに持ってきて、不備を指摘されました」
「支部の充足状況だね」
「はい。三支部分を揃えるのに、夕方までかかりました。直したものを、もう一度課長さんに通して、部長さんに持っていきました」
タダシは、そこで一度切った。
「別の日に持ってこいと言われました」
「俺は忙しかったんだ!」
部長が割って入った。
「昨日は朝から立て込んでた! お前も見ただろう、机の上を!」
「はい」
タダシは頷いた。
「なので、次長に相談しました」
部屋が、静かになった。
部長が口を開いた。開いたまま、何も出てこなかった。
次長が、机の上で手を組んだ。
「部長」
「……はい」
「浅野さんは、あなたの決裁を勝手に省略したわけではありません。私に相談したんです」
一拍あった。
「緊急案件として本部長へ上げたのは、私です」
「しかし、それでは——」
「期限があり、相談を受けた。だから私が判断しました」
次長の声は、淡々としていた。責めてもいなかったし、庇ってもいなかった。手続き上、そうなっているというだけの言い方だった。
「経路の問題を言うなら、私のところで止まった話です。浅野さんに処分の理由はありません」
「納得できません」
部長は引かなかった。
「では、これからも期限が近ければ、誰でも次長に相談すればいいことになります。それは経路の形骸化です」
「そうだな」
次長は立ち上がった。
「その点は、本部長にも聞いていただこう」
本部長の部屋は、最上階だった。
白髪の男は、次長の説明を最後まで聞いてから、老眼鏡を上げて部長を見た。
「君の言うことは正しい」
部長が、少し顎を引いた。
「経路は守られるべきだ。誰もが期限を理由に飛び越えるなら、決裁は意味をなさない。そこは、その通りだ」
「……はい」
「忙しかったのも、分かる」
本部長は、書類を机に置いた。
「ただ、私が問題だと思っているのは、浅野君が君を飛ばしたことではない」
彼は、部長を正面から見た。
「君を通していたら、期限に間に合わなかったことだ」
部長が、口を開きかけた。
「私にも、他の業務が」
「忙しいのは分かると言った」
本部長は遮らなかった。ただ、静かに続けた。
「だから、優先順位を判断するのが管理職だ。全部を同じ速さで処理しろとは言っていない。どれを先にやるかを決めるのが、君の仕事だ」
部屋が、静かだった。
「決裁権は、書類を止めるためにあるんじゃない。判断するためにある」
部長は、何も言わなかった。
しばらくして、頭を下げた。
「……失礼しました」
彼は部屋を出ていった。
廊下を歩きながら、部長は決裁の写しを握り直した。紙の角が、指の形に潰れた。
「……あいつ、絶対潰す」
すれ違った職員が、聞こえなかったふりをして通り過ぎた。
扉が閉まってから、本部長は老眼鏡を下ろして、タダシを見た。
「ところで、浅野君」
「はい」
「君宛てに手紙が届いている」
彼は机の引き出しから、封筒を一つ出した。封蝋はなく、宛名が太い字で殴り書きされている。
「例のパーティーのリーダーからだ。今朝、出発前に置いていったそうだ」
タダシは受け取って、開いた。
紙は一枚だった。字は大きく、行が傾いていた。
——昨日は怒鳴って悪かった。
——後で聞いた。あんたが止まってた申請を動かしたんだってな。二週間止めてたのはあんたじゃないと。
——間に合わせてくれて助かった。ありがとう。
——帰ったら飲みに行こう。奢る。
タダシは、それを二度読んだ。
「……律儀な人ですねえ」
横から覗き込んでいたフィナが、少しだけ胸を張っていた。
部屋を出ていく二人を、次長が見送った。
扉が閉まる。
「本部長。彼が、例の」
「ああ。そのようだね」
本部長は椅子に背を預けた。
「早速やってくれる」
「殿下への追加報告、入れますか」
「そうしてくれ」
彼は、机の上の決裁の写しをもう一度見た。
「しかし、本部勤務を始めて、まだ三日だろう?」
「三日です」
「三日で、二週間止まっていた案件を動かしたか」
本部長は、しばらく黙っていた。
「浅野タダシ……すごい男だ」
「飄々として見えますが」
次長が、書類を揃えながら言った。
「相当先まで考えているのでしょうな」
その相当先まで考えている男は、三階の自席で湯を沸かしていた。
鞄から挽き器を出して、豆を挽く。布を張った漉し器に粉を入れて、湯を少しずつ注ぐ。
香りが、部屋に広がった。
ラスが顔を上げた。向かいの職員も、手を止めた。
「タダシさん、私も貰っていいですか」
「どうぞ」
フィナが器を受け取る。
ラスが、自分の机から首を伸ばした。
「……俺も、貰いたいな」
「どうぞ」
「俺も」
向かいの職員が立ち上がった。
「あ、じゃあ俺も」
「私も」
気がつくと、五人ほどが机の周りに集まっていた。
「はいはい」
タダシは、湯をもう一度沸かし直した。
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