第14話 それ、今日中に全部やれ
部長が書類を置いたのは、翌朝だった。
挨拶もなかった。タダシの机に、紙の束が二つ、順番に置かれた。ずしり、という音がした。
「浅野。これ、今日中に全部やれ」
フィナが立ち上がった。
「これを!?」
「今日中だ」
部長はそれだけ言って、自分の部屋へ戻っていった。
束は、タダシの肘くらいの高さがあった。
部屋の何人かが、顔を見合わせていた。ラスが小声で言った。
「浅野さん、これ、明らかに」
「まあ、見てみましょうか」
タダシは椅子に座って、一番上の紙を取った。
読んだ。次を取った。読んだ。次。
五枚目で、手が止まった。それから、その紙を左に置いた。六枚目は右に置いた。七枚目は、左の山の上に重ねた。
「タダシさん、何してるんです?」
「分けてます」
三十分ほどで、束は四つに分かれていた。
一つ目は、同じ内容が二通ずつある紙だった。写しと本紙が両方束に入っていて、しかも片方は処理済みの印が押してある。
二つ目は、すでに回答が出ている照会だった。回答の控えが、同じ束の中に混ざっていた。
三つ目は、そもそも地方担当の案件ではなかった。備品と施設の管理は、別の課が持っている。
「これ、全部今日やる必要はないですねえ」
「え?」
フィナが覗き込んだ。
「この山は、同じ紙が二枚ずつあるだけです。片方はもう終わってます。こっちは回答済みなので、記録を付けて閉じるだけ。こっちは、うちの担当じゃないので、施設課さんにお返しします」
「じゃあ、本当に今日やるのは」
「これですね」
タダシは、四つ目の一番小さい山を持ち上げた。二十枚ほどだった。
「で、この中で今日中なのは、たぶん五枚くらいです」
昼前に、タダシは部長の部屋へ行った。
「終わりました」
部長が顔を上げた。
「…………は?」
「今日中のものは処理しました。こちらは重複だったので、片方に印が付いているのを確認して外してあります。こちらは回答済みでしたので、記録を付けました。あと、これは施設課さんの担当だそうなので、お返しします」
タダシは、束を部長の机の端に置いた。
「施設課さんには、私から持っていきましょうか」
「……いや、いい」
「では、置いていきます」
部長は、残された束を見ていた。
それから、上から三枚をめくって、重複の印を確かめた。確かに押してあった。
タダシが部屋を出ていくとき、部長は何も言わなかった。
昼になった。
タダシが立ち上がって上着を取ると、部長がちょうど部屋に入ってきた。
「おい。仕事が残ってるだろう」
「ありますね」
「昼休みは後にしろ」
「昼休みですよね?」
タダシは不思議そうな顔をした。
「じゃあ、ご飯行ってきますね」
部長の眉が跳ねた。
「浅野」
「部長も、食べた方がいいですよ」
タダシは上着に袖を通しながら、いつもの調子で言った。
「午後、お腹空きますよ」
フィナが、口を押さえて背中を向けた。
部長は何か言いかけたが、言葉が出てこなかったらしく、そのまま自分の部屋へ入っていった。
廊下に出ると、フィナがまだ肩を震わせていた。
「タダシさん、今の」
「何がです」
「いえ、何でも」
午後、部長がまた来た。
今度は書類を持っていなかった。机の横に立って、腕を組んだ。
「浅野。今後、他課に勝手に聞きに行くな」
「勝手にというと」
「経理だの人事だの、直接降りていってるだろう。あれをやめろ。誰が何を頼んだか、こっちで把握できない。全部、俺を通せ」
「分かりました」
タダシは頷いた。
あまりに素直だったので、部長のほうが少し身構えた。
「……分かればいい」
彼が戻っていくと、ラスが小声で言った。
「浅野さん、それ、仕事にならなくないですか」
「そうかもしれませんね」
タダシは、束の中から一枚を抜いた。
「でも、部長を通せとのことなので」
彼は紙の余白に、照会したい内容を短く書いた。
そして、次の一枚を抜いた。同じように書いた。
その次も、その次も。
翌朝、部長の机の上には、照会の紙が積まれていた。
「……何だ、これは」
「昨日、部長を通すようにとのことでしたので」
タダシが、机の前に立っていた。
「経理から三件、人事から二件、地方担当の記録の確認が四件、施設課が一件です。それと、倉庫の在庫の確認が二件」
「十二件あるじゃないか」
「普段、このくらいです」
部長が紙をめくった。一枚目を読んで、二枚目を読んで、三枚目で手が止まった。
「……これ、今日中のがあるぞ」
「あります。三件ほど」
「三件!?」
「経理の締めが今日なので、昼までに回答をいただかないと、来月になります。どの支部か書いてありますから、行かれるときに一緒に聞いていただけると早いかと」
部長は、紙の束と、自分の机の上の書類の山を見比べた。
彼の机には、昨日から持ち越した決裁が十七件積まれていた。
「……」
「お願いします」
タダシが頭を下げた。
「もういい!」
部長が紙を押し返した。
「自分で聞いてこい!」
「ありがとうございます」
タダシは紙を受け取って、頭を下げて、階段を降りていった。
部屋に残った職員たちが、しばらく黙っていた。
誰かが、ぼそりと言った。
「……あの人、何なんだ」
その日の夕方、向かいの職員がタダシの机まで来た。
「浅野さん。あの、余計なことかもしれないんですけど」
「はい」
「部長に、嫌がらせされてません?」
タダシは、手を止めて顔を上げた。
「そうなんですか?」
「されてます!」
フィナが即答した。
「え、そうですかねえ」
「そうです!」
「いや、書類を持ってきただけですし。他課に行くなというのも、把握したいという話ですから、分からなくはないんですよ」
タダシは首をひねった。
「前の会社も、こんな感じでしたけどねえ」
部屋が、しんとなった。
ラスが、恐る恐る聞いた。
「……前の会社、どんなとこです?」
「普通の会社ですよ」
「普通」
「昼休みに電話番を頼まれるとか、担当じゃない仕事が回ってくるとか、そういうのはありましたけど。どこもそうじゃないですか?」
向かいの職員が、小さな声で言った。
「……前の会社、怖ぇな」
三日後、部長がまた書類を持ってきた。
今度はタダシの机に置く前に、誰かが動いた。
向かいの職員だった。
「部長。その案件、今じゃなくてもいいですよね」
「何だと?」
「先月の集計でしょう。締めは来週です」
ラスが立ち上がった。
「浅野さん、今日こっちの急ぎやってもらってます。北の三支部の冬季分で、今日中なんです」
「私が頼んでます」
フィナが、タダシの机の前に立った。
「タダシさんの今日の予定、もう埋まってます」
部長の顔が赤くなった。
「なんでお前らが浅野の予定決めてんだ!」
「倒れるからです」
フィナは引かなかった。
「お昼、三日も食べてないんですよ」
「いえ、昨日は——」
「タダシさんは少し黙っててください」
「……はい」
タダシが口を閉じた。
「三日です。私が言っても『あとで食べます』しか言わないので」
部長は、書類を持ったまま立っていた。
部屋の職員が、全員こちらを見ていた。誰も部長の味方をしていなかった。ラスに至っては、大きく頷いていた。
彼は舌打ちをして、書類を自分の脇に抱え直した。
「……来週でいい」
そう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まってから、フィナがため息をついた。
「タダシさん」
「はい」
「ご飯、行ってきてください」
「……昨日も食べたんですけどねえ」
「知ってます」
フィナは、タダシの上着を椅子から取って、差し出した。
その翌日だった。
部長が、今度は大きな包みを抱えて現れた。
紐で括られた資料の束が、机の上に置かれた。今までで一番大きかった。
「浅野」
「はい」
「そんなに仕事ができるなら、これでも見てみろ」
タダシは紐をほどいた。
中身は、帳簿と契約書の写しだった。本部の薬品、備品、保存食、燃料。支部へ配る分をまとめて買い付ける、大型の調達の資料だ。
厚みが、腕の長さほどあった。
フィナが、紙の一枚目を見て、息を呑んだ。金額の桁を数えていた。
「これ、本当に今日中じゃないですよね?」
「期限はある」
部長は、口の端を上げた。
「浅野ならできるんだろ?」
タダシは、束の上のほうを少しめくった。
「今年の分と、去年の分がありますね」
「三年分ある」
「なるほど」
「見ておけ」
部長は、それだけ言って戻っていった。
ラスが寄ってきて、資料を覗き込んだ。
「……浅野さん、これ、地方担当の仕事じゃないですよ。調達は別の課です」
「そうなんですか」
「嫌がらせにしても、これは量が」
「まあ、期限があるそうなので」
タダシは、三年分の資料を机の上に並べ始めた。
今年の落札結果。去年の落札結果。一昨年の落札結果。
品目ごとに、受注した業者の名前と、金額が並んでいる。
彼は、それを横に並べて、上から順に目で追った。
フィナが隣で、茶を淹れる用意をしていた。
「タダシさん、お茶——」
「フィナさん」
「はい」
「これ」
タダシは、三枚の紙の同じ行を、指で順に押さえていた。
「どうしました?」
「……ちょっと、変ですねえ」
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