第3話 ちゃんと休んだ方が仕事も回りますよ
翌日の夕方、フィナは二人組の冒険者に、別のパーティーの報酬袋を渡しかけた。
「あ、違います、すみません。こっちでした」
「おい、危ねえなあ」
「本当にすみません」
フィナは袋を取り替えて、深く頭を下げた。相手が笑って去ったあとも、しばらく受付台を見つめていた。
「……すみません、ちょっと寝不足で」
隣を通りかかったタダシに、言い訳のように言う。タダシは「はあ」と答えただけだった。
その夜、彼は受付の奥に貼ってある勤務表を眺めていた。
一番新しい紙にも、先々月の日付が入っている。
「これ、どう読むんです?」
「出られる人が出る、みたいな感じです。忙しいときは、その日に決めるので」
「休みの印は」
「丸です。でも」
フィナは自分の名前の横の丸を指した。
「その日も、人が足りなかったら呼ばれるので」
「呼ばれた日は、どこかに書くんですか」
「書かないです。次の休みが、どこかで増えるわけでもないので」
タダシは紙を裏返して、白い面を出した。
「フィナさん。最後に、丸一日休んだのいつです?」
「ええと……先月、一日休みました。あ、でも午後から出たので」
「それは半日ですね」
フィナは、それ以上は出てこなかった。
翌日、タダシは受付が混む時間を書き出した。朝の依頼受付と、夕方の帰還報告。その二つで一日の仕事の大半が来る。逆に昼過ぎの二刻ほどは、人がほとんど来ない。
「じゃあ、朝と夕方に厚くして、昼は薄くしましょう」
名前を並べ替えていく。多い時間帯へ人を寄せ、空いた時間から一人ずつ削る。削った分を、休みに回す。
「こうすると、週に一日ずつは丸で取れますね」
フィナは自分の名前の欄を見て、動かなくなった。
「私、ここ休みになってますけど」
「はい」
「でも、その日に忙しくなったら――」
「その時はその時でしょう」
タダシは手を止めた。
「休みの日まで最初から働く予定にしたら、それ、休みじゃないですよ」
フィナが何か言いかけて、やめた。
支部長が反対したのは、その日の午後だった。紙を突き返すでもなく、ただ鼻で笑った。
「職員を遊ばせてどうする」
「遊ばせるというか、休ませるだけです」
「同じことだろう。うちに余裕があると思ってるのか」
「昨日、フィナさんが報酬袋を取り違えました」
タダシが言うと、支部長の眉が動いた。
「なんだと」
「すぐ気づいて直しましたけど、あれ、気づかなかったら面倒でしたよね。渡した渡してないで揉めますし」
「……たるんでるからだ」
「疲れてるからだと思いますよ」
タダシは紙の端を揃えた。
「休まないと、ああいうのが増えます。ちゃんと休んだ方が、仕事も回りますよ」
支部長はしばらく黙っていた。それから、また鼻で笑った。
「好きにしろ。回らなくなったらお前の責任だからな」
「分かりました」
フィナは、翌々日、飛び起きた。
窓の外がもう明るい。いつも家を出る時刻はとっくに過ぎている。
「遅刻——!」
寝具を蹴って立ち上がり、制服に手を伸ばしたところで、彼女の手が止まった。
紙。受付の壁に貼られた、新しい勤務表。自分の名前の横の、丸。
「……休み、なんだ」
声に出してみると、なんだか変な感じがした。
フィナはしばらく制服を持ったまま立っていた。それから、それを椅子の背に掛けて、もう一度布団に倒れ込んだ。
二度寝というものを、何年かぶりにした。
次に目を覚ましたときには、日が高くなっていた。
窓から入る光の角度が、見慣れないものだった。いつもこの時刻には受付にいるからだ。
フィナは布団の上に座ったまま、しばらくその光を見ていた。それから、思い切り伸びをした。肩が鳴った。
「……お腹すいた」
部屋に食べるものがなかったので、結局そのまま街へ出た。
昼の盛りを過ぎた通りは、朝とは別の街のようだった。荷車が減り、代わりに買い物客が歩いている。押されない。急がなくていい。
フィナは広場の角の店に入った。前から気になっていたが、営業している時間に通りかかったことがなかった店だ。
昼の客が引けた時間で、席はほとんど空いていた。窓際に座って、焼き菓子と茶を頼んだ。
出てきたのは、皿に三枚重ねた平たいパンケーキだった。上に蜂蜜と、季節の果物が乗っている。
フィナは一口食べて、目を丸くした。
それから、真面目な顔で三枚とも食べた。茶のおかわりも頼んだ。
店を出たときには、機嫌がすっかり良くなっていた。
そのまま、大通りの店を順番に覗いた。
布屋で、一番上等な生地の値段を見て、そっと戻した。
小物屋では、木を削った髪留めが並ぶ棚の前で少し悩んだ。紺と、赤みがかったもの。制服には紺が合う。でも、どうせ買うなら休みの日に着けるものがいい。
結局、赤みがかったほうを買った。
店を出て、袋を振り回しそうになって、やめた。誰も見ていないが、受付嬢がそれをやるのはどうかと思った。
日が傾き始めたのは、その少しあとだった。
通りの影が長くなって、店の軒先に灯りが入り始める。冒険者が二人、塔のほうから歩いてきて、フィナの横を通り過ぎた。片方の肩当てが泥で汚れている。
フィナの足が、少し遅くなった。
この時刻だ。帰還の報告が始まる。
南の丘の件で、まだ戻っていない班があった。あれは三班とも同じ日に出ているから、帰りも重なる。重なると、列ができる。列ができると、掲示板の前まで人が溜まって、新規の依頼受付が止まる。止まると——
フィナは足を止めた。
袋の持ち手を、両手で握り直した。
今日、受付に入っているのは誰だったか。紙を思い出そうとして、自分の休みの丸しか浮かばなかった。
「……大丈夫、ですよね」
歩き出した先は、家のほうではなかった。
この通りをまっすぐ行くと、ギルドの前に出る。
「ちょっとだけ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
ギルドの前には、冒険者が十人ほど並んでいた。
フィナは向かいの壁際で立ち止まった。中に入るつもりはなかった。ただ、開け放した扉から、受付がよく見えた。
受付には二人入っていた。
一人は、帰還報告を受けている。もう一人が、その横で報酬の袋を数えて渡している。受け取った冒険者が離れると、すぐ次が呼ばれる。
報酬を数えているほうの男を見て、フィナは目を疑った。
ガルドだった。
この半年、朝から晩まで受付に立ちっぱなしで、昼過ぎにはもう口を開くのも億劫そうにしていた男だ。列が伸びると露骨にため息をつくので、よく冒険者に絡まれていた。
その男が、今、客と喋っていた。何か冗談らしきことを言って、相手が笑っている。
今日は夕方からの番なのだ、とフィナは気づいた。
列は伸びていた。伸びていたが、止まっていなかった。
あの時間帯は詰まる。必ず詰まる。報告が重なると誰かが待たされ、待たされた冒険者が苛立ち、苛立たれた職員が焦って書き損じ、それでまた遅くなる。彼女は毎日それをやってきた。二人がかりでも、列が消えるのは日が落ちてからだった。
今、列は端から順に短くなっていた。
タダシは受付にいなかった。
奥の机で、控えの束を分けている。時々顔を上げて、ガルドが何か尋ねると短く答え、また手元に戻る。それだけだった。
最後の一人が離れたとき、フィナは自分が息を詰めていたことに気づいた。
肩から力が抜けた。
同時に、なぜだか少し、寂しいような気もした。
そして、奥の机のタダシが、こちらを見た。
「あれ。フィナさん」
気まずくなって、フィナは道を渡った。
「すみません、通りかかっただけで」
「そうですか」
タダシは控えの束を揃えながら言った。
「髪留め、買ったんですね」
「あ、はい。……見えます?」
「さっき袋から出してたので」
フィナは袋を後ろに隠した。それから、少し俯いて言った。
「申し訳ないです。私だけ休んで」
「いえ」
タダシは束を机に置いた。
「私も休みますし。お互い様ですよ」
「え」
「来週、もらってますよ。勤務表に丸を入れてますから、見てください」
フィナは顔を上げた。そんなものが入っていた記憶はなかった。たぶん、自分が自分の丸しか見ていなかったからだ。
「タダシさんも、休むんですか」
「休みますよ。休まないと、回るものも回りませんから」
言い方があまりに普通だったので、フィナはしばらく返事ができなかった。
この人は、自分が組んだ紙一枚で、あの列を回してみせた。それでいて、来週は自分も休むと言う。そして、それを特別なことだとは思っていない。
「……タダシさん」
「はい」
「明日、私、ちゃんと働きます」
「そりゃまあ、明日は勤務日ですからね」
タダシは不思議そうに言った。
「今日は帰って、もう寝たほうがいいですよ。せっかくの休みなんですから」
フィナは頭を下げて、今度こそ家のほうへ歩き出した。
角を曲がる前に一度だけ振り返ると、タダシが椅子を並べ直しているのが見えた。
翌朝の受付は、速かった。
依頼書の確認は一度で済み、報酬の計算も引っかからなかった。列が伸びる前に、次の冒険者が呼ばれる。
「おい、フィナ。今日えらい元気だな」
「昨日、休みだったので」
「へえ。……あれ、それ新しいやつ?」
隣の職員が、彼女の髪を指した。赤みがかった木の髪留めが、後ろで束ねた髪に挿さっている。
「あ。はい。昨日、買いました」
「似合ってるじゃん」
「……ありがとうございます」
フィナは少しだけ、口元を緩めた。
昼前に列が切れたとき、隣の受付にいた職員が伸びをした。
「今日、全然詰まらなかったな」
「そうですね」
「いつもなら朝の分が昼まで残るのに」
彼は掲示板のほうを見て、それからフィナを見た。
フィナは控えの束を積み直しながら言った。
「タダシさん」
椅子を運んでいたタダシが振り返る。
「昨日、久しぶりに朝寝坊しました」
「それは良かったですねえ」
「お昼まで寝て、ご飯食べて、洗濯して、買い物して……それだけです。何もしませんでした」
「休みなんだから、それでいいんじゃないですか?」
フィナは口元を隠して笑った。
「ほら」
タダシは椅子を定位置に置いた。
「休んだ方が、楽でしょう」
その会話を、三人ほどの職員が聞いていた。
一人が、箒の柄に顎を乗せたまま言った。
「なあ。……俺も休める?」
「え」
「いや、フィナがあんな顔してるの見たことないからさ」
「じゃあ俺も!」
奥から別の職員が身を乗り出した。
「俺、来週に一日欲しいんですけど。無理っすかね」
「無理なわけないでしょう」
タダシはあっさり言った。
「人数が足りるように組めば大丈夫ですよ。希望の日があるなら、先に言ってもらえると組みやすいです」
「先に言っていいんすか」
「そのほうが楽ですから」
職員たちが勤務表の前に集まった。誰かが自分の名前を探し、誰かが「ここ空いてる」と指さした。フィナはその横に立ち、希望を聞いては書き込んでいった。
支部長が階段の途中から、その様子を見ていた。
「……たまたま客が少なかっただけだ。どうせそのうち詰まるようになる」
「そうですかねえ」
タダシは椅子を並べ直しながら答えた。
支部長が階段を上がっていく。
箒を持った職員が、その背中を見送ってから、隣の若い職員に小声で言った。
「……今日、三班戻ってきてたよな」
「戻ってきてましたね」
「客、少なかったか?」
「めちゃくちゃ多かったです」
二人は顔を見合わせて、それから黙って掃除に戻った。
夕方、タダシは受付の裏を片付けていた。
古い勤務表を剥がし、机の横に寄せてあった紙の山を持ち上げたところで、手が止まった。
依頼書だった。
紙が四十枚ほど、順不同で積まれている。上のほうには今週の日付があり、その三枚下に先々月のものが挟まっていた。印の付いたものと付いていないものが、同じ山に混ざっている。
「フィナさん」
「はい」
「これ、終わった依頼とまだの依頼、一緒なんですか?」
「ええ。終わったら印は付けるんですけど」
フィナが近づいてきた。
「忙しいと、後でまとめて付けることになって……そうすると、どれが付いてないのか分からなくなるので」
タダシは山の真ん中あたりから、一枚を抜き出した。
印はない。日付を見る。
彼は、もう一度日付を見た。
「この依頼」
紙を持つ手は、いつもと同じ速さで動いていた。ただ、声だけが少し低かった。
「誰が担当してるんですか?」
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