第2話 なくなる前に注文すればいいだけですよ
朝、タダシが薬品棚の小部屋を覗くと、フィナが札の前にしゃがみ込んでいた。
木の札には、昨日までの数字が並んでいる。彼女はその下に、新しい数を書き足しているところだった。
「おはようございます」
「あ、タダシさん。おはようございます」
フィナは札を指で押さえたまま振り返った。
「昨日の分、書いておきました。回復薬が三本、止血薬が一本出ました」
「ありがとうございます。助かりますねえ」
「いえ。……これ、書いておくと楽なので」
タダシは札を覗き込んだ。
回復薬 七
六日前が十二。昨日が九。今朝が七。
しばらく数字を見て、彼は言った。
「回復薬、そろそろですね」
「え?」
フィナが棚を見上げた。真ん中の段には、赤い瓶が七本、きちんと間隔を空けて並んでいる。
「まだこんなにありますよ?」
「そうなんですけどねえ」
タダシは瓶の一本を軽く指で叩いた。
「この六日で五本減ってますから、一日一本弱です。このままだと、七日か八日で空になりますよね」
「……はい」
「頼んでから届くまで、どのくらいかかります?」
フィナが少し考えた。
「早ければ三日くらいでしょうか。遅いと十日のときも」
「じゃあ、今ですね」
「今、ですか」
「なくなってから頼んでも、届くまで時間かかりますよね?」
タダシは札の紐を直しながら言った。
「だったら、なくなる前に頼んだほうが楽じゃないですか」
フィナは口を開けたまま、しばらく棚と札を見比べていた。
「……そう言われると、そうなんですけど」
彼女は自分の指を折って数え始めた。五日。七日。そのあと、指が止まった。
「あ。……間に合わない」
「ですよね」
「今まで、なくなってから頼んでました。その間は、来た人に『すみません、切らしてます』って」
「大変でしたねえ」
「大変っていうか、あの」
フィナは札の縁を握った。
「なんで誰も、気づかなかったんでしょう」
「まあ、忙しいと、目の前のことで手一杯になりますから」
タダシは棚の下段も覗いた。包帯の束が、袋ごと無造作に押し込まれている。
「こっちもそのうち見せてもらっていいですか」
発注書を持って支部長の執務室へ上がったのは、その日の昼過ぎだった。
扉を開けると、支部長は椅子の背にもたれて果実を齧っていた。紙を受け取り、数字のところで眉を寄せる。
「回復薬、十二本?」
「はい」
「棚にまだあるだろう」
「七本あります」
「あるじゃないか」
支部長は紙を机に放った。
「余計に買ってどうする。金が出ていくだけだ。なくなってから頼め」
「届くまで三日から十日かかるそうです」
タダシは放られた紙を、静かに拾い上げた。
「今の減り方だと、七日くらいで空になります。今頼んでおくと、ちょうど入れ替わりで届くと思うんですが」
「だから、そんな都合よく減るわけがないだろう。俺は何年ここにいると思ってる」
「そうですねえ」
タダシは逆らわなかった。ただ、紙を机に戻す手も引かなかった。
支部長は舌打ちをして、果実の芯を皿に置いた。
「……半分だ。六本」
「分かりました。ありがとうございます」
タダシが頭を下げて出ていくと、廊下で待っていたフィナが小声で聞いた。
「どうでした」
「六本、通りました」
「半分ですか」
「半分でも、ゼロよりはだいぶ違いますよ」
六日後の午後だった。
表が急に騒がしくなり、扉が開きっぱなしになった。泥と血の匂いが入ってきた。
「南の丘、群れが降りてきてる!」
「三班まとめて戻った! 怪我人、こっちだ!」
受付の前に列ができた。腕を押さえた男、肩を貸されている女、担架。一度に十人以上が入ってきて、掲示板の前にいた冒険者たちが場所を空けるために壁際へ寄った。
職員が小部屋と受付を往復し始める。
「回復薬、三本出ます!」
「止血薬も!」
タダシは空いた椅子を隅に寄せながら言った。
「今日は多いですねえ」
「多いなんてもんじゃないですよ」
フィナは書類と瓶を同時に抱えて走っていた。
半刻ほどで、小部屋から悲鳴のような声が上がった。
「回復薬、残り二本です!」
受付がざわついた。担架の男がまだ二人、列の後ろにいる。
「まだ来るぞ! 東門からもう一班だ!」
階段を駆け下りてきた支部長が、手すりを掴んで怒鳴った。
「二本だと!? 追加発注はどうなってる!」
小部屋の扉の前で、フィナが振り返った。
彼女は少しの間、支部長ではなく、箱を床に下ろしているタダシのほうを見た。それから、はっきりした声で言った。
「あります」
「何?」
「三日前に届いてます。タダシさんが先に頼んでいた追加分です」
フィナが木箱の蓋を開けた。詰め藁の中に、赤い瓶が六本。
受付から、誰かが長く息を吐く音がした。
列は動き続けた。薬は最後の一人まで行き渡った。「すみません、切らしてます」と誰かが頭を下げる場面は、一度もなかった。
日が傾いて、床の泥を職員たちが掃き出す頃には、ギルドは妙に静かになっていた。
箒を持った中年の職員が、ふと手を止めた。
「……切れなかったな、今日」
「そうっすね」
若い職員が雑巾を絞りながら答えた。
「いつもなら、途中で『次の便まで待ってくれ』って言ってましたよね。それで怒鳴られるのも、だいたい俺らで」
「今日は一回も言ってないな」
二人は、なんとなく小部屋のほうを見た。
タダシはそこで、空になった瓶を数えていた。
「フィナさん」
「はい」
「古いほうから出してもらってたんで、期限の近い瓶が全部使い切れました。今月、捨てるやつゼロですね」
「……ゼロ、ですか」
フィナが目を瞬いた。
「前は、月に何本か濁ったのを捨ててました。もったいないって思いながら」
「奥に押し込んであると、そうなっちゃいますからねえ」
フィナはしばらく黙って、棚と、空になった木箱と、タダシの手元の札を順番に見た。
それから、確かめるように言った。
「タダシさん。……分かってたんですね」
「何がです」
「今日、あんなに使うって」
「いやいや」
タダシは瓶を置いて、本気で手を振った。
「今日こんなに使うとは思ってませんでしたよ。びっくりしました」
「でも、届いてたじゃないですか」
「なくなる前に頼んだだけです」
フィナは、その言葉を聞いて、少し笑った。困ったときの笑い方だった。
「その『だけ』が、私たち、ずっとできてなかったんです」
報告は支部長にも上がった。
支部長は帳簿を閉じながら言った。
「今日はたまたま帰還が重なっただけだ」
「そうですねえ」
「大体、多めに買い置きしておけば、そりゃ切れんだろう。当たり前の話だ」
「……はい」
タダシは頷いた。
支部長が背を向けたあと、掃除をしていた二人の職員が顔を見合わせた。何も言わなかった。ただ、片方が小さく鼻を鳴らした。
閉めの時間になって、タダシが椅子を並べ直していると、さっき箒を持っていた職員が近づいてきた。何度か口を開きかけて、やめて、また開いた。
「あの、タダシさん」
「はい」
「もし、時間あったらでいいんですけど」
職員は自分の後頭部を掻いた。
「倉庫の、包帯のほうも見てもらえませんか。あそこ、誰も触ってなくて……今日も探すのに、けっこう時間かかっちゃって」
「いいですよ」
タダシはあっさり答えた。
「明日の朝でいいですか」
「いいんですか」
「棚を分けるだけですから」
職員は何度も礼を言って戻っていった。
その一部始終を、フィナが受付台に肘をついて見ていた。
彼女の前には、今日の払い出しの控えが山になっている。目の下が少し落ちくぼんでいた。
「フィナさん、それ今日中ですか」
「そうしないと、明日の朝に積み残るので」
「昨日も残ってませんでした?」
「昨日も残ってました」
フィナは笑おうとして、あくびになった。
「すみません。最近ちょっと、立て込んでて」
タダシは、少しの間、彼女の手元の紙の束を見ていた。
「フィナさん」
「はい」
「最後に休んだの、いつですか」
フィナの手が止まった。
彼女は本気で考えている顔をした。それから、答えなかった。
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