↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/20

第1話 役立たずなら、ポーションでも整理してろ



 会議室の蛍光灯が一本だけ、ちりちりと瞬いていた。


 浅野タダシは、向かいに座った部長の手元の書類を見ていた。逆さまでも、自分の名前が印字されているのは読めた。


「率直に言うとね、浅野さん。総務は直接利益を生まない部署なんだ」


「はい」


「備品の発注も勤怠も、各部署で分担すればいい話だろう。正直なところ……誰でもできる仕事だ」


「そうですねえ」


 四十五歳。総務・庶務、十九年。三百人分の勤怠と、健康診断と、保険と、備品と、社用車と、部長の予定表と、誰の担当とも決まっていない雑務の全部。


 それでも、タダシの口から出たのは別のことだった。


「引き継ぎは、どうしましょう」


 部長が一瞬、言葉に詰まった。


「……引き継ぎ?」


「今月末に健康診断の二次案内が出ます。保険会社から来てる書類も返さないといけませんし、コピー用紙の契約も来期更新です。途中のものは全部、青いファイルにまとめてあります。私の机の、右側の棚の――」


「ああ、もういいよ」


 部長は手のひらを見せて遮った。


「そのへんは各自でなんとかするから」


「……分かりました」


 タダシは頷いた。会社がそう判断したのなら、まあ、そうなのだろう。自分の仕事が特別だと思ったことは、一度もない。


 席に戻り、青い背表紙のバインダーを閉じた。棚の右から三番目。置き場所を決めておけば、誰でも取り出せる。そういう仕事だった。


 その帰り道だった。


 歩道橋の階段を降りていたはずが、足の裏の感触が急に土に変わった。


 顔を上げると、車道も、駅も、ビルもなかった。踏み固められた街道が丘の向こうまで続き、遠くに灰色の城壁が見える。風の匂いが違った。


 傍らに、見覚えのある通勤鞄が落ちていた。


「……ここ、どこですかねえ」


 誰も答えなかった。


 しばらく待っても誰も迎えに来ないので、タダシは城壁のほうへ歩き出した。腹が減っていた。働かないと食えない。それは世界が変わっても同じらしかった。


 途中、路肩の草の上に鞄を置いて座り込んだところへ、荷馬車が通りかかった。


「城門まで行くぞ。乗るか」


「あ、はい。すみません」


 慌てて荷台の縁に掴まった。


 門の前で降ろされ、人と荷車の列に押されながら街に入ったところで、タダシは自分の右手が軽いことに気づいた。


 鞄がない。街道の、草の上だ。


「……あー」


「落とし物は詰所に集まるぞ、おっさん。そのうち見にこい」


 門番は列を捌きながら、こちらも見ずにそう言った。


 タダシは石畳の隅に腰を下ろした。財布も、身分証も、たぶん鞄の中だった。


「あの、大丈夫ですか」


 見上げると、若い女がパンの包みを抱えて立っていた。二十代前半だろうか。細身で、紺の制服らしきものを着ている。


「大丈夫ではないですねえ」


 正直に答えると、女は困った顔で笑った。


「……仕事、お探しですか? うち、人手が足りてなくて」


 冒険者ギルド、と彼女は言った。名前はフィナ。受付をしているのだという。


 ギルドの建物は、石造りの大きな酒場のようだった。掲示板の前に男たちが群がり、床には泥と藁が散っている。


 扉をくぐったフィナの足が、急に止まった。


 奥の階段から、恰幅のいい男が降りてきたところだった。途端に、受付の裏で交わされていた話し声が消えた。書類をめくる音だけが残る。


「おい。この書式、何度言えば分かる」


 男は若い職員の前に紙を放った。


「書き直せ。今日中だ」


「……はい」


 職員は頭を下げたまま、顔を上げなかった。他の職員は誰も、そちらを見ていない。


 男の目が、次にタダシを捉えた。支部長だという。


「戦えるのか」


「いえ」


「魔法は」


「使えません」


 支部長は鼻から息を吐いた。


「フィナ。拾ってくるならもう少し使えるのを拾え」


「……申し訳ありません」


 フィナの肩が、小さく跳ねた。さっき街でパンを抱えていた時とは、別人のような声だった。


「まあいい。倉庫でも片付けさせておけ。役立たずなら、ポーションでも整理してろ」


「分かりました」


 タダシが頭を下げると、フィナのほうが先に唇を結んだ。


 廊下を歩きながら、彼女は小声で言った。


「すみません。あの人、いつもああで……」


「皆さん、大変ですねえ」


 薬品棚は、建物の裏手の小部屋にあった。


 扉を開けた瞬間、タダシは「ああ」と小さく声を出した。


 木棚が三段。瓶がぎっしり詰まっている。赤い瓶、青い瓶、緑の瓶、色も大きさもばらばらで、同じ札が右端と左端の両方に貼ってある。手前には埃をかぶった古い瓶が並び、その奥に真新しい箱が押し込まれていた。足元には空箱が積まれ、中身のない瓶がその上に載っている。


「これ、どこに何があるか、分かります?」


「えっと……」フィナは棚を覗き込んだ。「回復薬はたぶん、その辺です。解毒薬は……前は下の段にあったんですけど、この前補充したときに上に置いたような」


「探すの、大変じゃないですか」


「大変ですけど、毎回そんな感じなので」


 悪気のない顔だった。


「毒って、よくあるんですか」


「多いですよ。東の森、蛇と蜘蛛が出るので。月に何度かは駆け込んできます」


 タダシは上着を脱ぎ、袖をまくった。


「ちょっと、動かしますねえ」


 やったことは単純だった。


 まず瓶を全部出して、用途で分けた。回復薬、解毒薬、止血、その他。次に同じ薬を古い順に並べ替え、古いものを手前、新しいものを奥にした。空箱は捨てた。中身のない瓶も捨てた。


 棚の位置も入れ替えた。回復薬と解毒薬は、一番手に取りやすい真ん中の段。滅多に使わないものは下と上。


 最後に本数を数え、木の札を削って段の縁にぶら下げた。


 回復薬 十二


 解毒薬 五


 止血薬 八


「……ずいぶん細かく分けるんですね」


「こっちのほうが楽じゃないですかねえ」


 作業が進むにつれ、フィナの手が止まる回数が減っていった。最後の一本を渡すとき、彼女は棚を見つめたまま言った。


「あ。……これなら、私でもすぐ分かります」


「そのほうが楽でしょう?」


 タダシが札の紐を結び直した、その時だった。


 表の扉が乱暴に開く音がした。


「毒だ! 東の森で、仲間が蛇にやられた! 解毒薬!」


 泥まみれの若い男が受付に転がり込んでいた。ギルドの空気が一瞬で張り詰め、職員が椅子を蹴って立ち上がる。


 その職員が、倉庫のほうへ二歩走って、止まった。


 フィナが、もう小部屋の扉に手をかけていたからだ。


「解毒薬なら――」


 真ん中の段の、手前から二本目。


 迷いがなかった。


 戻ってきたときには、もう瓶は男の手に渡っていた。男は礼も言わずに駆け出していった。


 扉が閉まったあと、タダシは床に落ちた藁を拾っていた。


 夕方、男がもう一度戻ってきた。今度は泥が乾いていて、歩き方もしっかりしていた。


「さっきは……悪かった。礼も言わずに」


 男はフィナに向かって頭を下げた。


「間に合った。仲間が助かった。ありがとう」


 フィナは受付台に手をついたまま、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと視線を横にずらした。その先に、空箱を抱えたタダシが立っていた。


「……タダシさんが整理してくれてなかったら、すぐには出せませんでした」


「いや」タダシは空箱を持ち直した。「置き場所を決めただけですよ」


「決めてなかったら、探してたんです。いつも、そうでした」


 フィナの声が、少しだけ大きくなった。


「さっきまでの棚だったら、私、まだ探してました。あの人が走り込んできてから、ずっと」


「そうですかねえ」


「そうです」


 彼女は、はっきりとそう言った。


「すごいです、タダシさん」


 報告は支部長にも上がった。


 支部長は書類から顔も上げずに言った。


「たまたま薬が必要になっただけだろう」


「ですが、あれは――」


「棚を片付けただけだ。そんなの、誰でもできる」


 フィナが息を吸った。だが、支部長がようやく顔を上げて彼女を見ると、その息はそのまま止まった。


「……まあ、そうですねえ」


 代わりにタダシが言った。逆らう気配もなかった。


 支部長が階段を上がっていったあとも、フィナは受付台の下で拳を握ったままだった。


 それから数日、タダシは毎日、札の数字を書き替えた。


 その夜、小部屋の灯りをつけて、彼は札をもう一度眺めていた。


 回復薬 七


 六日で五本減っている。この分なら、あと八日ほどで空になる。


「回復薬、少なくなってますねえ」


 戸口から覗いたフィナが答えた。


「あ、なくなったらまた注文しますよ。いつもそうしてます」


 タダシは札を指で弾いた。


「……なくなってからですか?」


「はい」


「これ」


 彼は少し考えてから言った。


「なくなる前に頼んだほうが、楽じゃないですかねえ」




お読みいただきありがとうございます。

続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。