第1話 役立たずなら、ポーションでも整理してろ
会議室の蛍光灯が一本だけ、ちりちりと瞬いていた。
浅野タダシは、向かいに座った部長の手元の書類を見ていた。逆さまでも、自分の名前が印字されているのは読めた。
「率直に言うとね、浅野さん。総務は直接利益を生まない部署なんだ」
「はい」
「備品の発注も勤怠も、各部署で分担すればいい話だろう。正直なところ……誰でもできる仕事だ」
「そうですねえ」
四十五歳。総務・庶務、十九年。三百人分の勤怠と、健康診断と、保険と、備品と、社用車と、部長の予定表と、誰の担当とも決まっていない雑務の全部。
それでも、タダシの口から出たのは別のことだった。
「引き継ぎは、どうしましょう」
部長が一瞬、言葉に詰まった。
「……引き継ぎ?」
「今月末に健康診断の二次案内が出ます。保険会社から来てる書類も返さないといけませんし、コピー用紙の契約も来期更新です。途中のものは全部、青いファイルにまとめてあります。私の机の、右側の棚の――」
「ああ、もういいよ」
部長は手のひらを見せて遮った。
「そのへんは各自でなんとかするから」
「……分かりました」
タダシは頷いた。会社がそう判断したのなら、まあ、そうなのだろう。自分の仕事が特別だと思ったことは、一度もない。
席に戻り、青い背表紙のバインダーを閉じた。棚の右から三番目。置き場所を決めておけば、誰でも取り出せる。そういう仕事だった。
その帰り道だった。
歩道橋の階段を降りていたはずが、足の裏の感触が急に土に変わった。
顔を上げると、車道も、駅も、ビルもなかった。踏み固められた街道が丘の向こうまで続き、遠くに灰色の城壁が見える。風の匂いが違った。
傍らに、見覚えのある通勤鞄が落ちていた。
「……ここ、どこですかねえ」
誰も答えなかった。
しばらく待っても誰も迎えに来ないので、タダシは城壁のほうへ歩き出した。腹が減っていた。働かないと食えない。それは世界が変わっても同じらしかった。
途中、路肩の草の上に鞄を置いて座り込んだところへ、荷馬車が通りかかった。
「城門まで行くぞ。乗るか」
「あ、はい。すみません」
慌てて荷台の縁に掴まった。
門の前で降ろされ、人と荷車の列に押されながら街に入ったところで、タダシは自分の右手が軽いことに気づいた。
鞄がない。街道の、草の上だ。
「……あー」
「落とし物は詰所に集まるぞ、おっさん。そのうち見にこい」
門番は列を捌きながら、こちらも見ずにそう言った。
タダシは石畳の隅に腰を下ろした。財布も、身分証も、たぶん鞄の中だった。
「あの、大丈夫ですか」
見上げると、若い女がパンの包みを抱えて立っていた。二十代前半だろうか。細身で、紺の制服らしきものを着ている。
「大丈夫ではないですねえ」
正直に答えると、女は困った顔で笑った。
「……仕事、お探しですか? うち、人手が足りてなくて」
冒険者ギルド、と彼女は言った。名前はフィナ。受付をしているのだという。
ギルドの建物は、石造りの大きな酒場のようだった。掲示板の前に男たちが群がり、床には泥と藁が散っている。
扉をくぐったフィナの足が、急に止まった。
奥の階段から、恰幅のいい男が降りてきたところだった。途端に、受付の裏で交わされていた話し声が消えた。書類をめくる音だけが残る。
「おい。この書式、何度言えば分かる」
男は若い職員の前に紙を放った。
「書き直せ。今日中だ」
「……はい」
職員は頭を下げたまま、顔を上げなかった。他の職員は誰も、そちらを見ていない。
男の目が、次にタダシを捉えた。支部長だという。
「戦えるのか」
「いえ」
「魔法は」
「使えません」
支部長は鼻から息を吐いた。
「フィナ。拾ってくるならもう少し使えるのを拾え」
「……申し訳ありません」
フィナの肩が、小さく跳ねた。さっき街でパンを抱えていた時とは、別人のような声だった。
「まあいい。倉庫でも片付けさせておけ。役立たずなら、ポーションでも整理してろ」
「分かりました」
タダシが頭を下げると、フィナのほうが先に唇を結んだ。
廊下を歩きながら、彼女は小声で言った。
「すみません。あの人、いつもああで……」
「皆さん、大変ですねえ」
薬品棚は、建物の裏手の小部屋にあった。
扉を開けた瞬間、タダシは「ああ」と小さく声を出した。
木棚が三段。瓶がぎっしり詰まっている。赤い瓶、青い瓶、緑の瓶、色も大きさもばらばらで、同じ札が右端と左端の両方に貼ってある。手前には埃をかぶった古い瓶が並び、その奥に真新しい箱が押し込まれていた。足元には空箱が積まれ、中身のない瓶がその上に載っている。
「これ、どこに何があるか、分かります?」
「えっと……」フィナは棚を覗き込んだ。「回復薬はたぶん、その辺です。解毒薬は……前は下の段にあったんですけど、この前補充したときに上に置いたような」
「探すの、大変じゃないですか」
「大変ですけど、毎回そんな感じなので」
悪気のない顔だった。
「毒って、よくあるんですか」
「多いですよ。東の森、蛇と蜘蛛が出るので。月に何度かは駆け込んできます」
タダシは上着を脱ぎ、袖をまくった。
「ちょっと、動かしますねえ」
やったことは単純だった。
まず瓶を全部出して、用途で分けた。回復薬、解毒薬、止血、その他。次に同じ薬を古い順に並べ替え、古いものを手前、新しいものを奥にした。空箱は捨てた。中身のない瓶も捨てた。
棚の位置も入れ替えた。回復薬と解毒薬は、一番手に取りやすい真ん中の段。滅多に使わないものは下と上。
最後に本数を数え、木の札を削って段の縁にぶら下げた。
回復薬 十二
解毒薬 五
止血薬 八
「……ずいぶん細かく分けるんですね」
「こっちのほうが楽じゃないですかねえ」
作業が進むにつれ、フィナの手が止まる回数が減っていった。最後の一本を渡すとき、彼女は棚を見つめたまま言った。
「あ。……これなら、私でもすぐ分かります」
「そのほうが楽でしょう?」
タダシが札の紐を結び直した、その時だった。
表の扉が乱暴に開く音がした。
「毒だ! 東の森で、仲間が蛇にやられた! 解毒薬!」
泥まみれの若い男が受付に転がり込んでいた。ギルドの空気が一瞬で張り詰め、職員が椅子を蹴って立ち上がる。
その職員が、倉庫のほうへ二歩走って、止まった。
フィナが、もう小部屋の扉に手をかけていたからだ。
「解毒薬なら――」
真ん中の段の、手前から二本目。
迷いがなかった。
戻ってきたときには、もう瓶は男の手に渡っていた。男は礼も言わずに駆け出していった。
扉が閉まったあと、タダシは床に落ちた藁を拾っていた。
夕方、男がもう一度戻ってきた。今度は泥が乾いていて、歩き方もしっかりしていた。
「さっきは……悪かった。礼も言わずに」
男はフィナに向かって頭を下げた。
「間に合った。仲間が助かった。ありがとう」
フィナは受付台に手をついたまま、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと視線を横にずらした。その先に、空箱を抱えたタダシが立っていた。
「……タダシさんが整理してくれてなかったら、すぐには出せませんでした」
「いや」タダシは空箱を持ち直した。「置き場所を決めただけですよ」
「決めてなかったら、探してたんです。いつも、そうでした」
フィナの声が、少しだけ大きくなった。
「さっきまでの棚だったら、私、まだ探してました。あの人が走り込んできてから、ずっと」
「そうですかねえ」
「そうです」
彼女は、はっきりとそう言った。
「すごいです、タダシさん」
報告は支部長にも上がった。
支部長は書類から顔も上げずに言った。
「たまたま薬が必要になっただけだろう」
「ですが、あれは――」
「棚を片付けただけだ。そんなの、誰でもできる」
フィナが息を吸った。だが、支部長がようやく顔を上げて彼女を見ると、その息はそのまま止まった。
「……まあ、そうですねえ」
代わりにタダシが言った。逆らう気配もなかった。
支部長が階段を上がっていったあとも、フィナは受付台の下で拳を握ったままだった。
それから数日、タダシは毎日、札の数字を書き替えた。
その夜、小部屋の灯りをつけて、彼は札をもう一度眺めていた。
回復薬 七
六日で五本減っている。この分なら、あと八日ほどで空になる。
「回復薬、少なくなってますねえ」
戸口から覗いたフィナが答えた。
「あ、なくなったらまた注文しますよ。いつもそうしてます」
タダシは札を指で弾いた。
「……なくなってからですか?」
「はい」
「これ」
彼は少し考えてから言った。
「なくなる前に頼んだほうが、楽じゃないですかねえ」
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると励みになります。




