第18話 あと一人、誰かいませんかねえ
試験の準備は、三日で形になった。
説明の文が一枚。新しい書式が一枚。旧書式のどの欄が新しいどこに当たるかの対応表が一枚。
タダシが書き、フィナが清書する。その途中で、彼女の手が止まった。
「タダシさん」
「はい」
「この欄、支部の人が迷うと思います」
フィナは「特記事項」の欄を指した。
「何を書けばいいのか分からないと、たぶん空欄になります。うちの支部でも、自由に書いていい欄は、だいたい空でした」
「ああ」
「例を三つくらい書いておきませんか。『魔物の出現傾向に変化があった場合』とか、そういうの」
「じゃあ、それでお願いします」
「もう書いてあります」
フィナは別の紙を出した。例が四つ並んでいた。
タダシが、しばらくそれを見た。
「フィナさん、本当に慣れましたねえ」
「ずっと横でやってますから」
彼女は、少しだけ得意そうだった。
部長が来たのは、その翌日の朝だった。
机の横に立って、腕を組んで、紙の束を見下ろした。
「浅野」
「はい」
「各支部への説明は、誰がやる」
「文書を送ります」
「送って終わりか? 読まん支部もあるぞ」
「……そうですね」
「旧書式との併用期間は」
「あ」
「保管済みの書類はどうする。去年の分と並べるとき、様式が違うぞ」
部長は、指を折るように続けた。
「記入ミスの問い合わせは、どこで受ける。全支部から本部に問い合わせが来たら、誰が答えるんだ。現場が嫌がったらどうする。現場は変化を嫌うぞ」
フィナの眉が動いた。
「また難癖を——」
「いや」
タダシが遮った。
「言ってることは、合ってますよ」
「え?」
フィナが振り返った。
部長も、一瞬止まった。口を開きかけて、そのまま閉じた。
「全部、試す前に決めておかないと駄目なやつです」
タダシは紙を引き寄せて、余白に書き始めた。
「説明の文だけだと足りないので、最初の一か月は、こちらから支部に確認の連絡を入れましょう。併用期間は……三か月でいいですかね。その間はどちらの様式でも受け付けて、対応表を付けておけば、去年の分とも並べられます」
彼は書きながら続けた。
「問い合わせは、窓口を一つにしたほうがいいですね。あちこちに聞かれると、答えが人によって変わりますから。うちで受けます」
「現場が嫌がったら」
部長が言った。
「試験ですから、意見を返してもらう欄を作ります。使ってみて困ったところを書いてもらって、直します」
タダシは顔を上げた。
「部長、助かりました」
「……」
「五つとも、抜けてました」
「褒めてない!」
部長は、赤い顔で自分の部屋へ戻っていった。
フィナが、その背中を見送ってから、小声で言った。
「……本当に、正しかったんですね」
「正しかったですねえ」
「悔しいです」
「まあ、まあ」
問題は、その翌日に出た。
タダシとフィナの机の上に、紙が積み上がっていた。
通常の本部業務。地方からの照会。統一書式の説明文。試験支部との連絡。旧書式の対応表の残り。
フィナが、自分の分を数えて、額を押さえた。
「これは、相当きついですね」
「ですねえ」
「通常業務もやりながら、改革業務も積むなんて。普通、どっちか止めますよ」
「止められないやつが多いんですよ。支部が待ってるので」
タダシは、束を仕分けながら言った。
「前の会社では、まだまだ——」
「……前の会社って、どれだけひどかったんですか」
「普通ですよ」
「普通じゃないと思います」
タダシは、しばらく手を動かしていた。
それから、手を止めた。
「とはいえ、確かに人手が足りませんねえ」
「そうですよ。タダシさんが大変です」
「私はともかく、フィナさんがきついでしょう」
フィナの手が、止まった。
「……私ですか?」
「はい」
タダシは、彼女の机の上を見た。
「今までの仕事もあるのに、こっちまで手伝ってもらってますから。私は自分でやると決めてやってますけど、フィナさんは、増えた分をそのまま受けてるだけですよね」
「それは、私が」
「無理はしないでくださいね」
フィナは、何か言おうとした。
言葉が出てこなかった。
彼女は手元の紙を揃えて、それから、もう一度揃えた。同じ紙を二度揃えていた。
「……はい」
「あと一人くらい、誰かいませんかねえ」
タダシが、天井を見て言った。
「腰が軽くて、頼んだらすぐ動いてくれて、なんでもやってくれる元気な人」
「そんな都合のいい人、いるわけ——」
扉が、勢いよく開いた。
「タダシさーん! コーヒー貰いに来ました!」
ニコが立っていた。
部屋中の視線が、扉に集まった。
フィナが、ゆっくりと振り返った。
「……いましたね。都合のいい人」
「言い方」
タダシが言った。
ニコは、地方支部から書類を届けに来ていた。統一書式の試験の件で、支部長が本部へ回す文書があったのだという。レイナルト支部長からは、本部で人手が必要なら、しばらく手伝ってこいと言われているらしい。
「本部来たから、タダシさんいるかなって!」
「ちょうど良かったです」
タダシは、湯を沸かしながら言った。
「ニコさん、ちょっと手伝ってもらえます?」
「え、俺が!?」
「はい」
タダシは、器に湯を注いだ。
「フィナさん一人じゃ大変なので」
ニコの動きが、止まった。
それから、彼は胸を張った。
「やります!」
「即答……」
フィナが呟いた。
ニコが動き出すまでに、十分もかからなかった。
「これ、課長さんにお願いします。通ったら、そのまま次長室まで」
「任せてください!」
走っていく。すぐ戻ってくる。
「通りました!」
「早い」
フィナが目を丸くした。
「じゃあ、戻ったら東の課でこの書類を回収してください。あと、経理にも寄って、これの受付印をもらってきてください」
「はい!」
また走っていく。
タダシが、感心したように言った。
「……私より、指示を出すの上手ですね」
「タダシさんが、自分で行こうとするからです」
フィナは、次に回す書類をもう仕分けていた。
「タダシさんが階段を降りてる間に、ここで三件片付きます」
「なるほど」
「なるほどじゃないです。座っててください」
夕方、三人で机を囲んだ。
説明文が仕上がり、対応表が終わり、試験支部への文書が封に入った。
ニコが、器を両手で持って、しみじみと言った。
「本部って、すごいっすね。書類の量が支部の十倍あります」
「三十七支部分ですから」
「それを、タダシさんが」
「皆さんでやってますよ」
「ほら、またそれっす」
ニコは、フィナのほうを向いた。
「フィナさん、タダシさんっていつもこうなんですか」
「いつもこうです」
フィナは、器を置いて言った。
「タダシさんは、すごい人なんですよ」
「そうだ! タダシさんはすごい人なんだ!」
ニコが立ち上がった。
「コーヒーも美味いし!」
「最後のは関係ないです」
「関係あります!」
「ありません」
タダシが、自分の器を覗き込んだ。
「コーヒー、褒められましたねえ」
「タダシさんも乗らないでください」
試験支部の募集文書が発送されたのは、その二日後だった。
三十七支部へ、同じ文書が送られた。試験に参加してもいいという支部は、返答してほしい、という内容だった。
部長が、そのことを聞きつけて、机の横に立った。
「浅野」
「はい」
「どうせ、どこも採用しないぞ」
彼は腕を組んだ。
「現場は余計な仕事が増えるのを嫌う。新しい書式なんて、覚え直しだからな」
「そうかもしれませんね」
「三つ来れば上等だ」
部長は、少しだけ勝ち誇った顔で戻っていった。
ニコが、その背中に向かって声を張り上げそうになった。
「ニコ」
「……はい」
フィナに止められて、口を閉じた。
タダシは、発送の控えを束にまとめていた。
「まあ、使ってもらえるところからですね」
返答は、まだ一通も来ていなかった。




