第16話 前例がないなら、前例になればいいでしょう
その週、部長は三度、書類を持ってきた。
一度目は朝一番だった。前月分の集計が二十件。
「今日中だ」
「分かりました」
昼過ぎに終わった。
二度目は翌日だった。地方支部からの照会が、三十件近く。
「これもやれ」
「はい」
夕方に終わった。
三度目は、その次の日の朝だった。部長は書類を机に置くとき、少し息が上がっていた。
「……これならどうだ」
タダシは束をめくった。
「これ、半分は先週の分と同じ支部ですね。まとめて一枚にできますから、そのほうが早いです」
「は?」
「昼までには」
部長は、口を開けたまま立っていた。
それから、無言で自分の部屋へ戻っていった。
しばらくして、判子の音がした。
一つ。二つ。間を置かずに三つ。
部屋の職員が、顔を上げた。
扉の隙間から、部長の横顔が見えた。耳まで赤かった。書類をめくって、位置も確かめずに判子を落とす。また一枚。また一枚。ドス、ドス、と机が鳴っていた。
音が止まらない。決裁待ちの山が、目に見えて低くなっていく。
「……部長、どうしたんです?」
通りかかった職員が声をかけた。
「うるさい」
夕方には、机の上が空になっていた。
三日分の決裁が、一日で片付いていた。
翌朝、タダシは戻ってきた束を見て、感心したように言った。
「部長、早いですねえ」
「…………」
「昨日出したのが、もう全部戻ってきてます。これなら支部にも今週中に返せますね」
「……褒めるな」
部長は、舌打ちをして自分の部屋へ入っていった。
その背中を、ラスが見送っていた。
「……あの人、やればできるんですね」
「やればできるんでしょうねえ」
タダシは、束を仕分けながら答えた。
同じ日の午後、次長が本部長の部屋にいた。
「今月の処理状況です」
次長が書類を置いた。
「残務が、先々月の四割まで落ちました。決裁の滞留も減っています。地方支部からの照会の返答が、平均で九日縮みました」
「九日」
「調達の差額は、ご存じの通りです」
本部長は、数字を上から順に見ていった。
「……浅野さんが来てから、目に見えて上がっていますねえ」
次長が言うと、本部長は書類を置いた。
「残務も減った。調達も改善した。決裁も速くなった」
一拍あった。
「……またタダシか」
その頃、タダシは机の上に、地方支部からの報告書を七枚並べていた。
同じ月の、同じ種類の報告だった。
一枚目は、上から順に依頼件数、負傷者数、薬品使用量と並んでいる。
二枚目は、依頼件数が下のほうにあった。薬品は別紙になっていて、その別紙が付いていない。
三枚目は、全部が文章で書かれていた。「本月は依頼多く、負傷者も例年より多し」とある。数字がない。
四枚目は、欄の名前が違った。「薬品使用量」ではなく「消耗品出庫」になっている。中身は同じらしい。
五枚目は、在庫の数え方が月末時点だった。他の支部は月初だった。
「……これ、全部同じ報告ですよね」
フィナが覗き込んだ。
「同じです。書き方が違うだけで」
「これ、本部の方はどうしてるんです?」
タダシは、隣のラスに聞いた。
「読み替えてます」
ラスは即答した。
「支部ごとに、どこに何が書いてあるか覚えてるんです。ミドリ支部は依頼件数が三行目、カヤ支部は別紙、ハラ支部は文章だから読んで数字を拾う。それを、うちの様式に書き写して、それから比べます」
「毎回ですか」
「毎回です」
「何支部あります?」
「三十七です」
フィナが、小さく息を吐いた。
「……三十七通り覚えてるんですか」
「覚えてる人は覚えてます。覚えてない人は、毎回前の月のを見て確かめます」
ラスは、自分の机の引き出しを開けた。
中に、手書きの一覧が入っていた。支部名と、その支部の報告のどこに何が書いてあるかが、びっしり書き込まれている。紙が擦り切れていた。
「私はこれを見てます。四年かけて作りました」
タダシは、その紙をしばらく見ていた。
「これ、全国で同じ形式にしたら駄目なんですか?」
ラスの手から、擦り切れた紙が落ちた。
彼は慌てて拾って、それからタダシを見た。
「……できるんですか、そんなこと」
「できるかどうかは分かりませんけど」
タダシは、並んだ七枚を見た。
「本部の人、毎回読み直すの、大変ですよねえ」
フィナが、横でぽつりと言った。
「私も地方にいたとき、支部ごとに違うの、普通だと思ってました」
「そうですよね」
「だって、他の支部の書式なんて見たことなかったので。うちのが普通だと思ってました」
案を作るのに、三日かかった。
難しいことはしなかった。本部が支部を比べるときに必要な項目を並べて、同じ順番にしただけだ。
支部名。期間。依頼の件数。うち未処理。負傷者数。薬品の使用量。月初と月末の在庫。人員。特記事項。
数え方も揃えた。在庫は月初と月末の両方。期間は暦月。
書き終えたものを、ラスと向かいの職員に見せた。
向かいの職員が、しばらく黙って紙を見ていた。
「……これ、めちゃくちゃ見やすいですね」
「ですよね」
フィナが即座に言った。
「何でフィナさんが得意そうなんです?」
案は、まず課長のところへ回った。
課長は一枚目を読んで、二枚目を読んで、三枚目で頷いた。
「うん。……これ、部長に見てもらおうか」
彼は自分で持っていった。
部長は書類の山から顔を上げず、差し出された紙を受け取った。
上から順に目を動かす。項目の並び。数え方。備考の位置。
「ああ、うん」
彼は一枚目を裏返した。
「いいんじゃないか。これなら読み替えが要らん。比べるのも楽になる」
「ですよね」
「地方統括にも回るだろうが、中身は問題ない」
部長は紙を課長に返しかけて、手を止めた。
「……これ、誰の案だ」
課長が、少し困った顔をした。
「あ、言ってませんでしたっけ」
「言ってない」
「浅野さんです」
部屋が、静かになった。
部長は、紙をもう一度見た。それから、自分が今しがた口に出した言葉を思い出したらしかった。
「……ぬふん」
「え?」
「……ぬ、ぬふん」
意味不明な声が二回上がった。
部長は紙を机に置いて、立ち上がった。
「次長のところへ行くぞ」
「あ、はい」
「本部長も呼べ!」
本部長は案を最後まで読んだ。二度読んだ。それから、老眼鏡を上げた。
「合理的だ」
「ありがとうございます」
「本部内で使う書式なら、私の権限で変えられる。明日からでもいい」
彼は紙を置いた。
「だが、これは支部に書かせるものだろう」
「はい」
「それは話が違う」
本部長は、指を三本立てた。
「一つ。支部の報告様式は、地方ごとの事情に合わせて認可されている。三十七支部の様式は、それぞれ別の時期に、別の経緯で決まったものだ。まとめて変えるとなると、地方統括の同意が要る」
彼は指を一本折った。
「二つ。過去の報告との連続性の問題がある。数え方を変えれば、去年と今年を比べられなくなる。これは記録の規則に関わる」
二本目を折った。
「三つ。全国の正式様式は、王都の認可を受けたものだ。変えるには、そこを通さなければならない」
本部長は手を下ろした。
「私が『明日からこれで』と言って済む話ではない」
タダシは頷いた。
「そうですよね」
「悪いが」
本部長は、案をもう一度見た。
「前例がない」
部屋の隅で、音がした。
部長だった。同席していた彼が、椅子から身を乗り出していた。
さっきまで死んだ目をしていた男の顔に、血の気が戻っていた。
「ですよね!」
声が大きかった。
「前例がないんですよ、浅野!」
「はい」
「全国の様式ですよ!? 三十七支部! 勝手なことばっかり言ってないで、少しは考えてから持ってこい! 却下だ却下!」
フィナは、笑顔のままだった。
受付で二年、どんな相手にも崩さなかった顔だ。口角の角度も、目の細め方も、変わっていない。
眉だけが、ぴくりと動いた。
部長が、そちらを見た。それから、少しだけ声を落とした。
「……却下、だ」
本部長が、少し呆れた顔で部長を見た。
「君、さっきまで何も言っていなかっただろう」
「いえ! 私は最初から懸念しておりました!」
廊下に出ると、フィナが振り返った。
「納得できません!」
「まあまあ」
「あんなに便利なのに! ラスさんの四年分の紙、要らなくなるんですよ!」
「そうですねえ」
「私、地方にいたから分かります。あの書式、支部でも書きにくいんです。毎月、前の月のを見ながら書いてました。全部の支部がそうなんですよ」
フィナは、本当に怒っていた。
「なのに、前例がないって」
「まあ、しょうがありませんよ」
タダシは、いつもの調子で言った。
「前例がないんですから」
「タダシさんまで!」
「本部長さんにできないことは、できないですからね。無理を言っても困らせるだけですし」
彼は案の紙を畳んだ。
「本部の中でだけでも使わせてもらえるか、聞いてみましょうか。転記するときの様式を揃えるだけでも、ラスさんは楽になりますし」
「そんなの、半分じゃないですか」
「半分でも、ゼロよりはだいぶ違いますよ」
フィナが、言葉に詰まった。
その言葉を、前にも聞いたことがあった。回復薬の追加発注が、十二本から六本に削られた日だ。
「……タダシさん、それ」
背後から、声がした。
「前例がないなら」
落ち着いた、よく通る声だった。
「前例になればいいでしょう」
廊下の空気が、変わった。
通りかかった職員が足を止め、壁際に寄って頭を下げた。その後ろの職員も、書類を抱えたまま姿勢を正した。動きが、廊下の奥から波のように伝わってくる。
タダシが振り返った。
若い女性が立っていた。
豪奢ではない、濃紺の外套。装飾は襟元の銀の留め具だけ。後ろに二人、供らしき男が控えている。
階段を駆け上がってきた次長が、その姿を見て息を呑んだ。
「で、殿下!?」
フィナの背筋が、音を立てるように伸びた。
女性は、次長のほうを見なかった。
まっすぐタダシを見ていた。
「あなたが、浅野タダシですね」
タダシは、少し戸惑った顔で頭を下げた。
「浅野です。……私をご存じなんですか?」
彼女は、わずかに口の端を上げた。
「ええ」
一拍あった。
「ずいぶん前から」




