19_温もりが欲しいのなら
「何……で……」
「メイジー……」
ロインズが見ているのは、メイジーではなく、大妖精の契約者だ。今度は腹の奥から胃が焼けるような怒りがこみ上げて、思わず片手を振り上げる。
「待て」
しかし、ロインズの頬を叩く前に、メイジーの細い手首はセランに掴まれていた。
セランは二人の間に入って小さく言う。
「お前が手を汚す必要はない」
直後、セランが思いきりロインズの頬を殴った。ロインズはその衝撃でよろめき、頬を手で抑えてこちらを見上げる。その唇の端には血が滲んでいた。
「こいつは、お前ごときのキスで喜ぶような、安い女じゃねえよ。二度とこの女に、その汚い手で触れるな」
セランの声は地を這うように低く、瞳孔が開ききっていた。その怒りがひしひしと伝わってきて、自分が怒られているわけではないのに圧倒されてしまう。
けれど同時に、庇ってくれたことが嬉しかった。
「行くぞ」
メイジーはセランに手首を引かれ、本屋を後にするのだった。
セランはメイジーの手を引きながら無言で歩いた。
「ケーキ、買わなかったの?」
「お前と一緒に食べようと思ったんだ」
「そっか。……ごめんね、変なとこ見せて」
「お前が謝ることじゃない」
今もまだ、感触が唇に残っている。メイジーにとっては初めてで、最悪のキスだった。
キスくらい、前世で何度もしたことがあるのに、気持ち悪くて仕方がない。今すぐ汚れたところを洗いたい。
無意識に袖で唇を擦っていると、セランが橋を渡る途中で立ち止まり、こちらを振り返った。
「全く。そんなに擦ると荒れるぞ」
「……ええ、そうよね」
川がせせらぐ音がする。
メイジーは困ったように笑いながら、唇から離した手を下ろした。
いくら擦ったところで、あの口付けがなかったことになるわけではない。気づけば、ポロポロと涙が出ていた。
「ごめんね。たかがキスくらいでこんな、動揺して。……ってあれ? 私、なんで泣いてるんだろう。ごめんね。すぐに泣き止むから」
「たかが、じゃなかったんだろう」
次の瞬間、メイジーはセランの腕の中にいた。彼の体はたくましくて、温かくて、こうして抱きしめられているとひどく心地が良い。それでもまだ、心にぽっかり空いた穴は塞がらない。
「お前にとっちゃ、大事なもんだったんだ。そうやって強がって、平気なふりして笑わなくていい」
ゆっくりと身体を離そうとした彼の袖をつまみ、気づくと口を衝いたように言っていた。
「なら、セランが上書きして」
自分は一体、この人に何を頼んでいるのだろうか。すぐにはっと我に返って、血の気が引いていく。一方のセランも目を見開き、瞳の奥を揺らした。
「お前、今自分が何を言っているのか分かってんのか?」
背を丸めて顔を近づけてくるセラン。
このままセランに本当に『上書き』されるのだろうか?
「待って、セラン」
「ばーか」
「?」
彼は人差し指でメイジーの額をツンと弾く。
「次のキスはちゃんと、好きなやつのためにとっとけ。でも」
それから、ゆっくりと手を広げる。
「お前が今、誰かに触れられて安心したいっつーなら、その役くらいは買ってやる」
メイジーは吸い寄せられるように、セランに抱きつき、その腕の中で声を漏らして泣いた。
◇◇◇
その日の夜、メイジーは自室で本を読んでいた。本屋での一件があったせいで、なかなか眠れなかったのだ。
すると、バルコニーにつながる窓がコンコンコン、と叩かれる。
最初はどこから音がするのかと思って、辺りを見渡すが、もう一度音が聞こえて、窓の方だと気づいた。
(何の音……?)
読みかけの本を置いてソファーから立ち上がり、窓の方に近づく。おずおずと重厚なカーテンを開くと、窓の向こうにセランが立っていた。
「セラン……!?」
慌てて窓を開けると、セランは少し息を乱し、汗をかいていて。
「こんな時間にどこに出かけていたの?それにどうして、外から……」
「これをやる」
「!」
そう言ってセランは花束とケーキが入った箱を差し出した。
「今日、誕生日だろ」
「覚えててくれたの?」
「お前、去年の誕生日に、来年は店のプレートで祝われたいって言ってただろ。予約キャンセルになったから、ケーキと花だけ受け取ってきた。お前、こういうの好きなんだろ」
そういえば、人気の店の誕生日サービスの評判を聞いて、そんな話をセランにした気がする。
まさか何気ない呟きをずっと覚えて予約までしてくれていたなんて。セランはめんどくさがり屋なのに。
適当で人の話はあまり聞いていなそうに見えて、メイジーのことをちゃんと見てくれている。
感激して鼻の奥ががつんと痛くなった。
セランはどこが気まずそうに斜め下に視線をやりながら、「早く受け取れ」とせかした。
「今から一緒に誕生日パーティー、やらない?」
「ああ」
「ありがとう、セラン」
目を細め、受け取った花束の匂いをかいだ。
メイジーは家族との関係が希薄で、誕生日を祝う習慣がなかった。けれど、セランは不器用なりに、毎年メイジーを喜ばせようとさりげなく祝ってくれる。
去年はメイジーがショーウィンドウを何気なく見て気になっていた髪飾りをくれた。メイジーも彼の誕生日は毎年盛大に祝っている。
ふたりにとって、誕生日は特別な日だ。
「早く食うぞ」
つかつかと部屋に当たり前のように入ってくるセランの背中を見送ったあと、メイジーはそっと窓を閉めた。
落ち込んでいたことも気づくと忘れていた。




