10
王子付きの従者となって一月余りが経とうとしていた。手首を掴まれたあの夜以降、王子は私に何も言わないし何もしてこない。
昼間は与えられた部屋で机上職をこなして時間を潰すばかり。夜も王子が寝てしまえばすぐに自室に戻っている。
都合はいいと思うけれど、どこか落ち着かない気持ちのまま。
「それに加えて見合い、ね」
家から送られてきた手紙に目をやる。どうやらレオン兄様は私の言葉をそのまま父様に伝えたらしい。レオン兄様にしてはよくやった、のだが今回ばかりはそれがいけなかった。父様はお怒りのご様子。
大公家の娘としての自覚があると言うなら用意された見合いの席には責任をもって出なさい。
父様にここまで言われたら逃げるなんてできるはずもない。
「私が適任だなんて父様は何をお考えなのかしら」
政略結婚を嫌がっていること、知らないはずもないというのに。
コンコンッ。
「はい」
控えめなノックの音に返事をするとやはり控えめにゆっくりと扉が開いた。
「エイナリ様。何か御用でしょうか?」
手紙をできるだけ自然な動作で畳んで、椅子から立ち上がった。エイナリ様は扉が完全に閉まらないように止めてから私の前へと歩いてくる。
巫山戯ているように見えるけれど、こういうことはしっかりとなさる方だというのはこの一月でわかった。
「アイリちゃんが申請してる休暇が取れそうだからそれを伝えにきたんだよ。うーん見合い大変だねぇ。こうやって一緒に仕事をしているとアイリちゃんが貴族の娘だって忘れちゃうけど、やっぱり貴族令嬢なんだよね〜」
「エ、エイナリ様?」
「ん〜?あっ、もしかして見合い話って内緒だったのかな?」
首を縦に何度も振る。
「カイ王子も見合いだとご存知なのですか…?」
「僕は言ってないけど」
「そう、ですか」
エイナリ様の紳士的な態度は彼の性格の悪さ故だと知らなかった否忘れていたために、何かを含んだ笑い方をしていたけれどエイナリ様が王子に言っていないのなら王子は見合い話を知らないのだと、このとき私は結論付けてしまった。
それを後悔をすることになるのだがとどのつまり後の祭りというやつなのだ。このとき気がつくことができなかった私が悪い。
「ハイル兄様口がまた軽くなってしまったようですね。家でお会いしたらよく言い聞かせなければ。エイナリ様もハイル兄様の戯言にお耳を傾けたり為さらないようお願い致しますわ」
ニッコリ。
「善処させてもらうよアイリちゃん。ハイルの話はなかなか面白いからつい聞き入ってしまうから気をつけないとねぇ」
ニコニコ。
エイナリ様はレオン兄様の様に笑顔で丸め込めるほど温いお方ではないこともこの一月でわかったこと。それでも笑顔を貼り付けてしまうのは最早癖なのかもしれない。