第5話 もう1度、自分の足で
「相良真琴です。34歳になります。怪我をしたのは、2年前の攻略中でした」
女性は車椅子の上で姿勢を正した。
膝に置かれた両手には、武器を握ってきた人間の厚みがある。右脚を失っていても、こちらを見る目や声に弱々しさはなかった。
相良は、榎本たちを率いて深い階層を調査していたという。
撤退中に通路の一部が崩れ、負傷者を運び出す間に魔物へ追いつかれた。隊の後ろを守っていた彼女は、右脚を噛まれ、そのまま引き倒されたらしい。
「脚は、現地に残してきました。回収する余裕はありませんでしたから。地上へ戻ってからも治療を受けましたが、再生には至らず、今は義足の訓練をしています」
淡々とした説明だった。
ただ、回収できなかったと口にしたときだけ、膝の上の指が動いた。
俺は目を合わせたまま頷いた。
「今も、傷のところに痛みはありますか。食事が取れないとか、ほかに調子の悪いところがあれば教えてください」
「傷そのものは落ち着いています。食事も普通に取れています。ただ、ないはずの足先が痛むことはあります」
「分かりました。まず、鑑定で状態を確かめます。実際に傷を見せてもらうのは、落ち着いて横になれる場所へ移ってからにしましょう」
了承をもらって、鑑定を使った。
失った脚の断端だけでなく、全身へ魔力を薄く通して確かめる。毒や呪いは残っていない。長く脚を使えなかった影響はあるが、再生を妨げるような異常も見つからなかった。
相良は俺の顔を見ていた。
期待を隠そうとしているのが、かえって分かった。
「俺の力で、治療できる状態です。よければ、これから始められます」
握られていた彼女の手が、わずかに浮いた。
「今日、始められるんですね。準備に必要なものがあるなら、用意します。治療費についても、先にお話しさせてください」
久世が相良の隣へ椅子を寄せた。
「費用については、協会の補償担当と確認しています。承認済みの追加治療支援枠がありますので、そこからお支払いできます。龍宮寺さんには、治療の依頼として5000万円をご提示したいと考えています」
800万円の依頼書を見たときよりも、長く数字を見つめた。
何を買えばいいか悩んでいる間に、また桁の大きい話が出てきた。
相良が、俺と久世を交互に見た。
「足りない分は、私からお支払いします。ですから、協会の予算だけを気にして金額を決めないでください」
「俺には十分です。ただ、まだ治療をしていません。終わった後で、治ったことを確認してから受け取らせてください」
俺がそう答えると、久世は頷いた。
相良はすぐには何も言わなかった。やがて、自分の右脚があった場所へ視線を落とし、深く息を吸った。
「お願いします。もう1度、両足で立ちたいです」
◇
救護室の奥に、仕切りのある広い処置室が用意された。
相良を寝台へ移すのは、榎本と救護担当の女性が手伝った。俺はいったん外で待ち、声をかけられてから中へ入った。
右脚の裾は上げられ、腰から先には大きなタオルが掛けられていた。再生した脚が寝台からはみ出さないよう、身体の位置も調整されている。
準備を終えた救護担当が、左足につけた測定器の表示を確かめた。
「状態に変化があれば、こちらからお伝えします。必要な器具がありましたら、おっしゃってください」
「ありがとうございます。今のところは、このままで大丈夫です」
俺は寝台の脇へ立ち、相良へ顔を向けた。
「始めます。脚のあったところが温かくなると思いますが、身体は楽にしていてください。何か気になることがあれば、途中でも話してもらって構いません」
「分かりました。動かさずに待っています」
相良の返事を聞いてから、俺は傷の近くへ手を添えた。
古い傷口の下には、すでに治った骨と筋がある。
ここへただ治癒の力を流しても、失われた膝や足先は戻らない。残っている身体から、どこへ何をつなぐのかを確かめ、再び働く形へ組み上げていく必要があった。
異世界で初めて腕を再生させたときは、恐ろしいほど時間がかかった。
目の前の人間が痛がらないか、指を動かせるか。何度も確かめ、身体の内側を知るために鑑定を繰り返した。
その経験は、今も手に残っている。
魔力を流すと、指先から柔らかな光が広がった。
相良の肩が少し持ち上がったが、すぐに寝台へ戻る。
「温かいです。右側に、重みがあるような感じがします」
「そのままで結構です。今、膝から先をつないでいます」
タオルの下が、ゆっくり持ち上がっていった。
骨の長さを左脚と合わせ、関節を作り、筋や血管をつなぐ。足首から指先まで力を通した後は、全体を何度も確かめた。
形が戻っただけでは、終わりではない。
血の巡りと神経のつながりを確かめ、身体へ負担が残っていないことを見届けてから、俺は魔力を細く絞った。
室内には、測定器の小さな音だけが響いていた。
「相良さん。右足の指を、ゆっくり動かしてみてください」
彼女は天井を見上げたまま、息を止めた。
タオルの端が、かすかに動いた。
相良が上体を起こそうとしたので、救護担当が背もたれを上げた。彼女は両手でタオルを寄せ、そこにある右足を見つめた。
指が5本、揃っていた。
自分の意思で曲げ、開くたびに、足の甲の筋が動く。
相良は右膝へ手を置き、そのまま足首まで撫でた。触れたところを確かめるように、何度も手を戻していた。
「触っているのが、分かります。指も……ちゃんと、自分で動かせています」
「はい。つながっています。ほかに、痛むところや気持ちの悪さはありませんか」
彼女はゆっくり首を振った。
その頬を涙が流れ、膝の上へ落ちた。
◇
しばらくしてから、救護担当にも状態を確認してもらった。
皮膚の色や温度、足先の動き。触れられた場所を目を閉じて答え、膝や足首を曲げ伸ばしする。
相良はどの確認にも、落ち着いて応じた。
ただ、右脚を動かすたびに、確かめるように見下ろしていた。
「立ってみても、よろしいでしょうか。支えは使いますから」
その申し出に、救護担当が歩行用の手すりを用意した。
俺は右側へ回り、榎本は左側へ立った。相良は寝台の端へ腰を移し、両足を床へ下ろした。
右の踵が床へ触れたところで、彼女の動きが止まった。
足裏で床を探るように、少しずつ体重を移している。
「手すりを使ってください。急がなくて大丈夫です」
俺が声をかけると、相良は頷き、肘を伸ばした。
腰が寝台から浮く。
左脚へ逃がしていた重みを、少しずつ右へ戻す。俺の腕をつかんでいた手に力が入り、それから、ゆっくり緩んだ。
両足で、立っていた。
榎本が口元を押さえた。相良はその顔を見て、涙の残る目を細める。
「榎本さん、そんな顔をしないでください。私まで、また泣いてしまいます」
「すみません。ですが、立っていらっしゃるのを見たら……」
榎本はそこで言葉を切り、彼女の足元へ目を落とした。
相良は右足を、ほんの少し前へ出した。
足裏で床を確かめ、左足を寄せる。手すりを握ったまま、もう1歩進み、止まった。
「床が、冷たいですね」
右足の指が、床の上で曲がった。
「こんな感じだったんですね。忘れたつもりは、なかったんですが」
俺は返事をせず、隣を歩いた。
彼女は手すりの端まで進むと、身体の向きを変えた。今度は少し滑らかに足が出たが、途中で右膝を見下ろし、慎重に重心を戻した。
脚は治っていても、2年間の習慣がすぐに消えるわけではない。
救護担当に勧められ、相良は椅子へ腰を下ろした。そのときまで、俺の腕はほとんど支えに使われなかった。
◇
久世が処置室へ戻ってきたとき、相良は靴下を履こうとしていた。
両手で右足を持ち上げ、指先から布をかぶせていく。途中で手を止めたが、今度は涙を拭いてから、自分で踵まで引き上げた。
久世はその様子を見て、入口の脇へ静かに寄った。
相良が顔を上げてから、初めて口を開く。
「治療の終了と、機能の回復について報告を受けました。今夜はこちらで状態を確認し、明日からの訓練についても担当と相談させてください」
「お願いします。歩くのは、まだ慣れませんから」
相良はそう答えると、俺へ向き直った。
「龍宮寺さん。本当に、ありがとうございました。何とお礼を申し上げればいいか、まだ言葉が出てきません」
「歩けたところを見せてもらえて、俺も嬉しかったです。明日、変に痛むところがあれば連絡してください。もう1度確かめます」
連絡先を交換しようとして、俺はスマートフォンを取り出した。
彼女が自分の端末を受け取る。登録が済んだ後も、相良は画面を持ったまま考え込んでいた。
「家族に、連絡をしても構いませんか。写真も、私の脚だけなら送ってよろしいでしょうか」
「もちろんです。俺の許可はいりませんよ」
相良は小さく頭を下げ、両足を揃えて写真を撮った。
送信先を選ぶ指が、途中で止まる。何か短い文を打って送ると、間を置かずに着信が来た。
画面に目を落とした彼女が、今にも泣きそうな顔で笑った。
「母です。少し、話してきます」
救護担当が、彼女の椅子を仕切りの向こうへ移した。
漏れ聞こえてきた声は、最初から少し震えていた。
「本当だよ。写真、間違えて送ったんじゃない。今、ちゃんと足があるの」
榎本が顔を背けた。
俺も何となく、窓の外へ目を向けた。
◇
処置室を出ると、廊下の照明が夜の明るさへ切り替わっていた。
久世は応接室で必要な書類を揃え、治療費の支払いについて説明してくれた。5000万円は相良本人への請求ではなく、協会が引き受ける。支払い手続きには数日かかるが、追加の負担を求めることはないという。
俺は内容を確かめて署名した。
「治療の記録は、ご本人と救護担当、補償に関わる担当で共有します。外部へ発表する場合は、相良さんと龍宮寺さんの双方に相談します」
「分かりました。俺も、勝手に人へ話したりはしません」
久世は書類をまとめた後、机の向こうで深く頭を下げた。
「今日は、いくつもの仕事をしていただきました。助けてくださった方々を代表して、お礼を申し上げます」
「こちらこそ、仕事も売り先も教えてもらいました。朝のままだったら、まだ駅前で困っていたと思います」
礼を言われて、困ることもあるらしい。
俺がそう答えると、久世は顔を上げ、少し笑った。
支部を出る前に、榎本が追いかけてきた。
「隊長は、落ち着いたら改めてお礼をしたいそうです。私からも、食事くらいご馳走させてください。こちらのことをお知りになりたいなら、分かる範囲でお話しします」
「それなら、ぜひお願いします。実は、知らないことばかりで」
ダンジョンの場所も、素材の値段も、冒険者の暮らしも。
誰かと飯を食いながら聞けるなら、それがよかった。
◇
帰りに大きなサイズを扱う衣料品店へ寄り、着替えを買った。
値札を見てから、いちばん安い棚へ戻る必要はなかった。それでも何枚も買う気にはならず、当面着る分だけ袋へ入れてもらった。
寮の玄関へ着いた頃には、すっかり暗くなっていた。
鍵は、そのまま使えた。
狭い部屋には、折り畳みの机と布団、荷物を詰めかけた段ボールが残っている。壁際の作業鞄も、机に置いた退去の案内も、俺が覚えている位置にあった。
椅子へ座り、買ってきた袋を床へ置く。
駅前で消えてから、魔王を倒すまでにあったことを思い出すには、あまりに普通の部屋だった。
腕を見下ろすと、昼に狼が裂いた袖が開いている。
鑑定を使えば、視界には673という数字が浮かんだ。
夢だったことには、できないらしい。
俺は着替えを済ませ、スマートフォンで今日の入金を確かめた。狼の買取代金は入っている。巨人の討伐報酬と治療費は、これからだ。
退去の案内を手に取り、管理担当の連絡先を見た。
明日は、新しく住む場所を探そう。
広い部屋がいい。風呂があって、脚を伸ばして眠れて、飯を落ち着いて食えるところ。仕事へ出て、帰ってきたら鍵を開けられる、自分の家が欲しかった。
机の端に、相良からの通知が出た。
『母が、明日こちらへ来るそうです。歩いて迎えるのを楽しみにしています。本日は、本当にありがとうございました』
俺はしばらく、その文章を見つめた。
親を迎えたことは、もうずいぶん長い間なかった。それでも、彼女が明日どんな顔をするかは、少し想像できた。
『今日はゆっくり休んでください。明日も、無理のない範囲で』
返事を送り、端末を机へ置いた。
明かりを消して布団へ横になると、廊下の向こうで誰かが部屋へ戻る音がした。車が通り、隣室のテレビが小さく鳴っている。
枕元に武器を置かずに眠るのは、久しぶりだった。
俺は片腕を頭の下へ入れ、もう片方の手を開いた。人の脚を治した掌には、何の光も残っていない。
明日もこの手で仕事をして、飯を食おう。
そう考えて目を閉じると、ほどなく眠りが来た。
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