第4話 その肩は、まだ治る
訓練場は、ダンジョンの管理棟に併設されていた。
厚い壁に囲まれた室内には、武器を振るう区画と、身体を動かすための広い床がある。奥では若い男女が、教官らしい男の指導を受けて盾を構えていた。
榎本は受付で使用の申請を済ませ、空いている区画へ俺を案内した。
「打撃用の標的を使えます。まず普段通りに振りますので、見ていただけますか」
「お願いします。俺は槌の専門家ではありませんが、力の伝わり方なら分かると思います」
瀬川は少し離れた壁際へ立った。
榎本が背中の槌を下ろし、両手で柄を握る。足幅を確かめ、腰を落とした姿には、長く使ってきた武器への慣れがあった。
大きく振り上げられた槌が、金属製の標的へ落ちた。
鈍い音が室内へ響き、台座の表示が切り替わる。近くで盾を構えていた若者が、思わずこちらを振り返った。
十分に重い打撃だった。
ただ、身体の中で力が途切れている。
「もう1度、少しゆっくり振ってもらえますか。今度は標的へ当てなくて結構です」
榎本は頷き、槌を持ち上げた。
腰の動きに対して、右肩が遅れている。正確には、動かせる範囲を避けるように、肘を外へ逃がしていた。
そのぶん、振り下ろす途中で握り直している。
「右肩に、痛みがありませんか。振り上げるときだけ、かばっているように見えます」
榎本は槌の頭を床へ置いた。
「2年ほど前に折りました。治療は受けたんですが、腕を上げると引っかかります。慣れたつもりでも、動きに出るものですね」
「動かせる範囲の中で使おうとすれば、そうなると思います。少し、状態を見ても構いませんか」
俺が鑑定のことを説明すると、榎本はすぐに了承した。
視線を肩へ向け、傷の位置を詳しく追う。
骨折そのものは塞がっていた。ただ、骨の形がわずかに崩れ、その周囲の組織にも癒着が残っている。腕を上げるたび、そこへ負担がかかっていた。
骨を砕かれた直後なら、もっとひどかったはずだ。
「怪我をしたときは、かなり無理をして戦ったんですね。骨だけではなく、周りの筋も傷んでいます」
「撤退するまで槌を使っていました。地上へ出る頃には、右腕はほとんど動きませんでしたね」
榎本は右肩へ左手を添えた。
「救護班に助けてもらって、リハビリも続けました。ここまで戻っただけでも、ありがたいと思っています」
それでも、槌を振るうたびに気になるのだろう。
置かれた右手の指が、肩の同じ場所を押していた。
俺はもう1度、傷の奥を確かめた。
異世界でも、治り方の悪い骨折は見てきた。急場で傷を塞いで命をつないでも、元のように動かせず、仕事へ戻れない人間がいた。
そういう身体を治すために、何度も手を使い、魔力の通し方を覚えた。
「この肩なら、治せると思います。骨の形と、張りついている部分を直せば、腕を上げたときの引っかかりも取れるはずです」
榎本の手が止まった。
壁際にいた瀬川も、こちらへ顔を向けていた。
「ずいぶん前の傷ですが、それでも治療できるんでしょうか。傷口を塞ぐのとは、違う処置になると聞いています」
「はい。閉じた傷を、そのまま塞ぎ直しても意味がありません。動きを邪魔しているところを見ながら、元の形へ整えます」
榎本はしばらく俺を見つめ、それから静かに槌を壁へ立てかけた。
「お願いします。必要な費用も、お支払いします」
「今日は、案内してもらった礼にさせてください。楽に座れる場所はありますか」
◇
備えつけの長椅子に榎本を座らせ、胸当てを外してもらった。
右肩には、皮膚を斜めに横切る古い傷痕があった。表面は落ち着いているが、その下では筋肉が歪んだ骨の形に合わせて固まっている。
俺は肩の前と後ろへ手を当てた。
「腕は動かさず、力を抜いていてください。少し温かく感じると思います」
魔力を細く通し、骨と筋の境目を探る。
急いで大量の力を流す必要はない。絡まった糸をほどくように、癒着した部分を分け、骨の形を整え、その動きに合わせて周りの組織を治していく。
掌の下で、強張っていた肩が少しずつ緩んだ。
榎本が大きく息を吐いたが、身体は動かさなかった。
最後に、筋へ通じる細かな傷まで確かめてから、俺は手を離した。
「終わりました。最初はゆっくりで構いません。右腕を上げてみてください」
榎本は肘を曲げ、顔の横へ手を上げた。
そこでいつもの引っかかりを待つように止まり、それから恐る恐る、腕を頭上へ伸ばした。
肘が、まっすぐになった。
本人がその腕を見上げている。
掌を開き、指を握り、もう1度ゆっくり下ろす。続いて肩を回したところで、榎本は俯いた。
「……痛くありません。あれだけ動かすと、必ず奥が痛んだんですが」
「左右で動きに違いがないか、確かめてみてください。急に力を入れず、まずは動かすだけで」
榎本は言われた通りに両腕を動かした。
右腕だけが遅れることも、肘が外へ逃げることもない。俺が鑑定で確かめる間も、彼は何度も掌を頭上へ伸ばしていた。
瀬川が近づき、静かに声をかけた。
「榎本さん、支部の救護担当にも記録を取ってもらいましょう。今後の活動に関わるので、可動範囲を正式に確認したほうがいいと思います」
「そうですね。お願いします」
榎本は立ち上がり、俺へ深く頭を下げた。
慌てて止めようとしたが、顔を上げた彼の表情を見て、言葉を飲み込んだ。
「ありがとうございました。こんなふうに腕を上げられたのは、怪我をする前以来です」
「槌を持つのが、少しでも楽になればよかったです。せっかくですから、軽い動きでもう1度見てみましょう」
◇
榎本は標的の前へ戻ると、槌を大きく振り上げた。
今度は、途中で柄を握り直さなかった。
肩の動きが滑らかになったぶん、肘と手首にも余裕がある。ただ、2年間かばい続けてきた癖は、足の位置に残っていた。
「右足を、靴半分ほど内側へ寄せてください。そうすると、腰が先へ抜けにくくなります」
榎本が足を動かす。
俺は横へ立ち、空の手で同じ動きを示した。
「踏み込んだところで、腰だけを先に回さないように。槌が落ちてくる動きと、身体を起こす力を合わせる感じです」
自分の身体で説明できても、人へ伝えるのは難しかった。
何度か言い方を変え、榎本が振るうのを見ながら、足幅を少しずつ調整する。
やがて、槌の頭が標的へ深く食い込むような音がした。
台座の表示を見た瀬川が、手元の端末と見比べた。
「最初の打撃を、2割以上上回っています」
榎本は表示より、自分の右手を見ていた。
「まだ力を入れきっていません。肩が動くので、振り終わりで止めようとしなくていいんです」
「それなら、今日はここまでにしましょう。身体が覚えている動きと違うはずですから、慣れるまでは軽いものから試したほうがいいと思います」
榎本は素直に槌を下ろした。
もっと振りたい気持ちは、顔を見れば分かった。それでも、治った肩をすぐに酷使しないところに、長く戦ってきた人間らしさがあった。
武器を片づける彼を見ながら、俺は借りた手袋を返した。
魔王と戦うために覚えた力で、こういうこともできる。
右腕で槌を背負い直した榎本が、小さく笑った。その顔を見たら、こちらまで気分がよくなった。
◇
支部へ戻る車の中で、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、寮の管理をしている会社の担当者から連絡が来ていた。退去日の再確認と、鍵の返却方法についてだった。
魔王を倒しても、800万円の仕事を終えても、寮の退去日は変わらないらしい。
俺はまだ日があることを確かめ、了承の返事を送った。
「お仕事の連絡ですか」
助手席から瀬川に聞かれ、俺は画面を伏せた。
「前の勤め先です。会社の寮を出ないといけないので、住む場所を探さないと」
「でしたら、支部の受付に不動産店の案内があります。保証会社を使える物件を扱っている店もありますよ。冒険者の収入について、説明に慣れているところです」
今日だけで、何度助けてもらっただろう。
礼を言ってから、俺はスマートフォンで駅前の映像を検索した。
自分の顔が出てくるとは分かっていたが、画面いっぱいに並ぶと落ち着かなかった。
狼を押さえた場面だけを切り取ったもの。子供の傷が消えるところを、何度も繰り返しているもの。遠くから撮られていたらしく、俺が車道へ出るところから映っているものまである。
無詠唱だったという指摘に、治療の速さについての書き込みが続いていた。
中には、映像を加工したものだと疑っている人間もいた。
俺は画面を閉じ、破れたシャツの袖を寄せた。
名前は、今のところ出ていない。
だが、この顔と体格で、いつまで誰にも分からずにいられるだろうか。
少なくとも、明日着る服くらいは買っておいたほうがよさそうだった。
◇
支部では、榎本が救護室へ向かい、俺は受付で不動産店の案内を受け取った。
買い物をして寮へ帰ろうとしたところで、久世が声をかけてきた。
「少しだけ、お時間をいただけますか。榎本さんの治療について、ご相談があります」
俺は案内の紙を折り、ポケットへ入れた。
久世は人の通らない応接室へ俺を案内すると、席を勧めた。
「救護担当から連絡がありました。肩の動きと痛みの改善が確認できたそうです。以前の診療記録と比べても、明確な変化が出ています」
「それなら安心しました。動かすときに違和感が残るようなら、また見ます」
「ありがとうございます。そのうえで、龍宮寺さんの治療を希望している方がいます。榎本さんから、まず私へ相談がありました」
俺は少し姿勢を直した。
久世は机へ手を置いたまま、言葉を選ぶように続けた。
「その方は、榎本さんが所属していた攻略隊の隊長です。退路を確保する際に重傷を負い、右脚を膝の上から失っています」
肩の怪我をしたとき、榎本は撤退するまで戦っていたと言った。
あの人のいた場所が、急にはっきり見えた気がした。
「今は、こちらの救護施設へ通っているんですね」
「はい。義足を使うための訓練を続けています。榎本さんの肩をご覧になって、ご自身も診てもらえないかと申し出られました」
久世は、そこでいったん話を切った。
俺が頷くのを待ってから、静かに尋ねる。
「失った部位を治すことについて、ご経験はありますか。難しいようでしたら、そのようにお伝えします」
傷を塞ぐことと、失った脚を再生させることでは、必要な魔力も精度も違う。
それでも、やったことはあった。
異世界では、腕や脚を失った人間が珍しくなかった。助けられたと礼を言いながら、働けなくなった身体を見て俯く者もいた。
そいつらに、もう1度自分の足で立ってほしくて、俺は聖者の力を使ってきた。
「経験はあります。ただ、身体に何か別の異常が残っていないか、本人を見てから判断させてください」
久世の目が、わずかに見開かれた。
俺は話を続けた。
「診るだけなら、今日でも構いません。相手の方がよければ、会わせてもらえますか」
久世は深く頷き、連絡を取るために席を立った。
待っている間、俺は自分の掌を見下ろした。
昼には、魔物の首をつかんだ。さっきは巨人の胸を砕き、榎本の肩を治した。
力を持ち帰っていいと言われたときは、金を稼いで飯を食うことしか考えていなかった。
応接室の外で、車輪の回る小さな音がした。
扉が開き、榎本に付き添われた女性が入ってきた。短く切った髪に、真っ直ぐな目をしている。車椅子の右側では、ズボンの裾が膝より上で折り込まれていた。
彼女は俺の顔を見て、背筋を伸ばした。
「榎本から伺いました。無理なお願いになるかもしれませんが、私の脚を診ていただけませんか」
その両手が、膝の上で強く握られていた。
俺は立ち上がり、彼女と目の高さが合うように腰を落とした。
「龍宮寺敦です。まず、怪我をしたときのことを聞かせてください。今も痛むところがあれば、それも」
女性の握っていた手が、少しだけ緩んだ。
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