忘れられない
7月7日。目を覚ますと、9時を回っていた。身支度を済ませて、遅い朝食を取る。送別会は夜からだった。トーストをかじりながら窓の外を見ると、空模様が怪しい。昼前から降るという、昨日の天気予報を思い出した。
そのとき、不意に玄関のチャイムが鳴った。
「やっほ。元気してた?」
「なんだ、お前か」
真唯子だった。
「『なんだ』とはなんだ! せっかく来てやったのに」
「呼んでないって」
「まあそー言うな。今日は命日だろ。センチメントな君の心をこの真唯子様が癒して……」
最後まで聞かずに、僕は玄関を閉めた。
「あっ、この野郎、開けやがれ! いいのか、言いふらしちゃうぞ! ご近所のみなさーん、この家に住んでる織付弓作君はあたしを無理矢理押し倒して犯……」
反射的にドアを開けた。
「分かったから、早く入れっ」
「じゃ、遠慮なく」
真唯子は得意げに八重歯を覗かせ、家に上がり込んだ。僕は溜息をついてドアを閉め、そのまま後を追って部屋に入った。
「あれ、模様替えしたんだ。うわ、冷蔵庫まである
「ああ、気分転換にな……って、おい」
僕をよそに、彼女は勝手に冷蔵庫を開け、中を物色しはじめた。
「あ、これにしよっと」
「飲むんかい真っ昼間から」
「いいじゃん、チューハイくらいなら。アンタもどうよ?」
「遠慮しとく」
僕はソファーベッドの真ん中に腰を下ろした。真唯子は反対側に座り、背中を預ける。
相変わらずだな、と思う。口では鬱陶しいなんて言いながらも、こうして顔を見れば、少しだけ気が楽になる。
――けれど、それを素直に言えるほどの勇気はなかった。だから僕は、何でもない話から切り出した。
「どうよ、最近。しばらくメールくれないからさ」
「ああ、実はさぁ、アパート引き払ったの。でー、またこっちに帰ってきたってワケ」
「えっ、てことは小説家の夢は……」
「そのことで、大事な話があるんだ。今日来たのもそのためなんだケドさ」
「大事な話?」
真唯子は、言い渋るようにお酒を口にした。飲み込んだあとも、しばらく黙っている。
「小説、認められたんだ。編集者が出版のほうに積極的に勧めてくれるって」
「本当に? やったじゃん! へー、やっぱ石の上にもってやつだよな。おめでとう」
「うん、まあ、ありがと」
言葉とは裏腹に、どこか浮いていない。嬉しくないわけじゃないはずなのに――そんなふうに見えた。まだ実感がないだけか。そう思いながら、僕は口を開いた。
「そっかぁ、夢が叶ってよかったな。で、どんな作品? 俺の知ってるやつ?」
「え、ああ、うん。てか、アンタの考えたやつ」
「……え?」
「だから、アンタがユウのために書いたやつだって言ってんの」
「うそマジで?」
僕は身体を捻って、真唯子のほうを見た。
「そう、なんだ。でも……あれはお前が手直ししてくれたから、あそこまで形になったんだしさ。別に、有名になりたくて書いたわけでもない。だから、お前の名前で出したって、俺は気にしないよ」
言葉は、嘘じゃない。ただ――あの物語が、ユウの幸せに繋がっているとは、どうしても思えなかった。
僕は視線を宙に逃がした。真唯子はうつむいたまま、何も言わない。いつの間にか、雨が降り出していた。部屋の中には、その音だけがしばらく残った。
「あたしさ」
真唯子が口を開いた。
「あたし、一人暮らしして分かったんだ。 この先きっと、自分一人じゃ何もできないって。 自分の力だけじゃ、人を動かすものなんて書けない」
「お前にしてはずいぶん弱気だな」
「ううん。元々そんなに強くないよ、あたし」
かすかに笑って、すぐに視線を落とす。
「ユウがいなくなってからも、ずっとすがってた。大学だってそう。ユウの近くにいたかっただけ。……結局さ、同じなんだよ。アンタと」
言葉は静かだった。
「あたしも忘れられない。だから、弱いままで繋がっていたかった。 同じ気持ちを分け合って、それで、なんとか立ってた。……でも、終わっちゃった。物語も。あたしたちを繋いでたものも。そんなの、嫌なんだよ」
そこで一度、息を吸う。
「もっと繋がっていたい。文字とか言葉じゃなくて――ちゃんと、そばにいて、支えてほしい」
「真唯子、お前――」
次の瞬間、背中に温もりが重なった。抱きしめられていると、分かる。
「あたしが苦しいとき、辛いとき、ユウみたいにアンタはいつも優しく見守っていてくれた。これからも、ずっとそばにいてほしい。大好きだよ。――あたしと、結婚しよ」
言葉が背中に落ちた。逃げ場なく、そのまま、全部が流れ込んでくる。
「俺は――」
声が出ない。
これでいいのか。
本当に。
あの人は、喜ぶのか。
救えなかったくせに。
何もできなかったくせに。
それでも――
誰かを、愛していいのか。
「俺には、誰かを愛する資格なんてない。誰かに愛される資格もない。ユウとの約束も守れなかったのに……お前を幸せにできる自信なんて、あるわけない」
「約束なら守れたじゃない。いい作品だって言ってもらえたし、出版されたら、たくさんの人に届く。ユウの信じた世界を、みんなに知ってもらえるんだから」
「……違う」
強く、息を吐く。
「違うんだよ。誰かが喜んで、それで終わりなんて……ただの自己満足だろ。結局――ユウ自身は、何も救えてない」
「それは……違うよ」
背中の温もりが離れた。
「ユウはアンタの幸せを望んで死んでいったんでしょ。アンタの幸せこそ、自分の幸せだって言って」
「そうだよ。俺のせいでユウは死んだようなもんだ。
だから――俺が代わりに、あいつの幸せを叶えなきゃいけない」
「それは分かる。でもさ……」
わずかな沈黙。
「アンタ自身がユウの幸せになれないなら、何をしたって……自己満足だよ」
「……分かってるさ!」
思わず声が荒くなる。
「分かってるけど……っ、じゃあどうすればいいんだよ!……俺の幸せはユウだったんだ。あいつのそばにいれば、それでよかった。それだけで、笑えてたんだよ!……でも、もういないんだよ」
残っているのは、あのときの笑顔だけだった。
ほとんど表情を変えない彼女が、ただ一度だけ見せた、あの顔。
あの日の、あの一瞬が――すべてだった。
そして、それを奪ったのも。
……自分だ。
どれだけ作り直しても、どれだけ物語にしても、
それだけは埋まらない。
「……分かってたはずなのにね」
真唯子は服に手をかけた。
「おいっ」
止める間もなく、シャツが落ちる。
「ちゃんと見てよ」
目を逸らす。
けれど、見えた。傷痕が。
「あたしだって分かってた。どれだけそばにいても、ユウの代わりにはなれない。アンタの幸せにも、なれないって。……でも、それでもいいって思った。それが――あたしとユウの約束だから」
「お前と……?」
「ユウが、あたしに宛てた最後の手紙にね、こう書いてあったの。『魂だけの私はもう、弓作君の幸せにはなれない。だから、人間としての幸せを彼に与えてほしい。 それが、アナタと私との最後の約束です』って」
初めて聞く話だった。
「あたし、信じてたんだよ。幸せって、ちゃんと繋がっていくものだって。あたしたちが繋いでいけば、きっと――ユウの願った世界に届くって。……アンタの子供なら、きっと」
声が揺れる。
「……あたしに、もう少し体力があれば。死産なんて、ならなかったら。アンタ、こんなに苦しまずに済んだのに」
手を掴まれる。
「ごめん……ごめんね……」
泣いていた。
ユウの葬儀以来の涙だった。
「……今さら謝られても、どうにもできない。ここでお前と結婚して、子供ができて―― それで全部うまくいくなんて、思えない。俺は……お前といる限り、ずっと引きずる。 後悔も、自責も……全部」
視線は上げられなかった。
「……ユウのことだけ考えて生きる。それが、俺にできることだ」
それ以上は言葉にならなかった。
「帰ってくれ。……もう――物語は、おしまいだ」
「……」
真唯子は何も言わなかった。
やがて立ち上がり、振り返らずに部屋を出ていく。ドアの閉まる音だけが残った。僕は顔を上げなかった。雨の音だけが、静かに続いていた。




